愛宕神社千日詣り
“そうだ京都へ行こう”ではないけれど『そうだ一度愛宕神社にお詣りしてみたい』と思い、折角ならお詣りすると千日分のご利益が得られるという千日詣りの期間、特にこの猛暑だから夜通しお詣りできる7月31日の夜から愛宕山山頂にある神社を目指すことにした。
前々から明智光秀が本能寺の変の前にはここで御神籤を三回も引き直したと言われていて興味があったし、火伏せの神様で三歳までにお詣りすると一生火難から免れるという事で小さなお子さん連れや、小学生らしき子供達も元気にお詣りする様子をテレビで見た事があった。
だから標高は924mとあるけれど、どちらかというと体育会系の私も何とか登頂できるのではと思ったのだ。
京都バスに問い合わせると、表参道最寄りの清滝までは阪急嵐山駅から最終は24時10分、翌朝は下山してきた人のために5時前後からを目安に約15分間隔で臨時バスが運行されるとのこと。そんな一大行事なんだと思った。
まずは足元が大事と登山靴を履き、水分補給のペットボトル、凍らせたゼリードリンク、もしもの時(一体どんな?)のチョコ、万が一汗がひいた山頂が寒かったらとストール等々あれこれ心配したものをリュックに詰めて出かけた。
夜の阪急嵐山駅に着くとバス乗場には長い行列が出来ていた。満員になった1台目には乗れず2台目に乗って清滝へ。15分程で着くと真っ暗でどっちに向かえばよいのかわからないけれど、みんながぞろぞろ向かう方へとついて行った。
こんなにも多くの人が山頂の神社を目指して夜中に山を登るのかと驚いた。
ふもとの鳥居をくぐりいざ登り始めると、予想に反して中々に険しい道で、汗だくになりながら少し上っては端によってお茶を口にしたり扇子であおいで一休みという有り様だった。
『こんな道がずっと続くの?ここまででどれくらい上れたんだろう…』と思いながら歩いていると暗がりに標識が見えた。
“1/40”
『えっ、これでまだ1/40? あと39もこんなしんどい道が続くの?途中で諦めて引き返すことにならないかな』と早くも弱音が浮かんだ。
それなのに有名寺社の大晦日のように、私には悪路と思える登山道を途切れる事なく続々と山頂へ向かう人々。
すでに参詣を終えて下山してくる人も多い。
すれ違う時、下山する人は上る人に「お上りやす」と言い、上る人は「お下りやす」と声をかける。ネットで見た通りだ。
息もあがって疲れてくるとそんなご挨拶を言う余裕が無い時もあるけれど「お上りやす」と言いながらすれ違い様に手にした団扇で風を送って下さる人も沢山いて、その涼しさに『頑張って!』と励まされているようで有り難かった。
少し上っては一休みを何度も繰返しながらちょうど半分あたりを過ぎるとやや平坦な道になり、左手の木立の切れ目から遠くに京都の街の明かりが煌めく宝石のように美しく見え、ちょっとご褒美区間だと思えた。
(真っ暗で良く見えなかったのだけれど、このあたりの道の左側は結構な斜面になっているようで?『これふらついて道を踏み外したら死ぬのでは』と恐怖を感じた。)
中々増えてくれない“40分の”の分子だったけれど、ひたすら足元を見ながら上り続けていると確かに一つずつ増えていった。
そうしてようやく前方に提灯の明かりが見えた時は嬉しくて思わず立ち止まり、同じように立ち止まった隣の女性に「やっと灯りが見えましたね」と言うと「ここからも長いのよ~」と返されてしまった。
確かに最後の最後までこれでもかと石段は続き、しまいには社殿直前の階段途中で右脚がつりそうになったけれど何とか無事に愛宕神社にゴール出来たのだ。
参詣者で溢れた社殿に沢山吊るされた千日詣りと書かれた提灯の明かりが美しく特別な空気感があった。
たどり着けた喜びと安堵と共に厳粛な気持ちで手を合わせた。
これから下山してもまだ帰りのバスの便は無いし、かといって腰掛けて休める場所も無かった。
様子を見ていると社殿前を埋める人々はただ休んでいるのではなく何かを待っているようだった。
こんな大変な思いをしなければ来れないのだから何か貴重な事があるなら見逃すと後悔すると思い、思い切って“いつも来てます”という感じの方に声をかけた。
疲れのあまり脳の思考力が停止気味で「ご祈祷」という言葉が出てこず「何かイベントが始まるのですか」と聞くと、ちょっとイラッとした感じで「イベントじゃないです。神事です」と言われてしまった。
社殿一杯に吊るされた千日詣りの提灯には名だたる企業の名前も並んでいた。
日本人の、とりわけ地元の方々の心にずっと昔から自然に培われてきた信仰心の強さを感じた。
参道の灯りが無い場所も有難いことに共に歩く多くの参詣者のヘッドライトや懐中電灯で照らし出される。そのゴロゴロした石や木の根に覆われた歪な段差の多い山道を、中には楽々と上って行く人や、かけ降りるように下山していく人もいる(ひたすら足元を見ながら必死で上る私の横を軽々と追い抜いて行く裸足を目にした時は『えっ!修験者か』と思った)。
けれど、要所要所で休みながらこんな大変な道をこんなにも多くの老若男女が「お上りやす」「お下りやす」と声をかけ合いながら924mの山頂にある神社に参詣する姿に、連面と続く、信仰心を伴った伝統と共に生きる風土といったものを実感した。
暫く待って始まった神事はあまりの人の多さにとても見えなかったので諦めて下山することにした。
脚が疲れているはずだから下りの道も油断は出来なかったけれど、上ってお詣りできたという達成感と重力に逆らわない向きの運動ということに支えられて上りよりは早く下山する事が出来た。
臨時便のバスで戻った嵐山駅は始発電車が動き出す少し前だった。
大分明るくなってきた空を見て、ふとこのまま始発に乗って帰るより折角だから少し嵐山を歩いてみようと思った。
水平な舗装された道の何と有難いことか。
何度も来たことのある嵐山はいつも観光客で一杯だったのに、歩く人も走る車も無い渡月橋の風景を初めて見た。その穏やかな美しさに見とれた。
しばらくすると遠く比叡山の山際が明るいオレンジ色になり、そこからゆっくり朝陽が昇った。
何て美しいのだろう。こんな素敵な嵐山の景色を目にする事ができるなんて、これも頑張ったご褒美だなと思った。
想像以上のハードさに「もうこんな大変な思いはいいです」と帰りのバスを待つ間、隣の人に愚痴っていたのに思った。
『もし三年後に再チャレンジするときはヘッドライト(あんなに色々想定していたのに一番重要な物に気づかなかった)とペットボトルはもう一本持って行かなければ』




