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雨の日の喫茶店

作者: すだち
掲載日:2026/01/21

晴れの日の午後、喫茶店は静かだった。

古いスピーカーから流れる音楽と、コーヒーを淹れる音。

カウンターには、顔なじみの常連が一人だけ座っている。

「相変わらず落ち着くね、ここ」

店長は小さく笑って、カップを差し出した。

「ありがとうございます」

しばらくして、常連がふと思い出したように言う。

「そういえばさ、

ここって雨の日、閉めてるよね?」

「ええ」

「珍しいよね。

雨の日の方が、喫茶店って人来そうなのに」

店長は少しだけ手を止めた。

それから、何事もなかったようにカウンターを拭き続ける。

「……いろいろあって」

それ以上は言わなかった。

常連も、それ以上は聞かなかった。

窓の外は、よく晴れている。

この店は、今日もいつも通りだ。

雨が降り出すのは、決まって放課後だった。

制服のまま、傘を差して歩く。

アスファルトに弾く雨音の中で、なぜか自分の足音だけが曖昧になる。

寒くない。

息も上がらない。

気づけば、帰り道を外れていた。

理由は分からない。

ただ、雨の日になると――

路地の奥に、灯りが見える気がする。

古い喫茶店。

掠れた看板。

ガラス越しに滲む、橙色の光。

「……ただいま」

そう呟いて、ドアを開ける。

鈴の音が鳴った。

「いらっしゃい」

カウンターの向こうに、店長がいる。

二十代後半くらい。

穏やかな声と、少しだけ影のある笑顔。

「いつもの、ですよね」

「はい」

声は出ているのに、

身体の中に響く感じがしなかった。

学校では、特別なことは何も起きない。

友達と話し、授業を受け、帰り道を歩く。

ただ、雨の日だけは、時間の流れが薄くなる。

写真を撮ったあと、

自分がどこに写っていたのか思い出せない。

でも、気にしない。

そういう日もある。

雨の日だけ、あの喫茶店に行ってしまう理由も、

考えたことはなかった。

店内には、いつも彼一人だけだった。

雨音と、カップの触れ合う音。

テレビがついていて、ニュースが流れている。

何気なく聞いていた声が、突然はっきりと耳に残った。

「本日午後、○○区で発生した交通事故についてです。

亡くなったのは、下校途中だった男子高校生で、

当時は記録的な豪雨だったということです」

画面には、濡れた横断歩道。

歪んだ自転車。

路上に落ちた、黒い学生鞄。

胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

理由は分からない。

ただ、そこにあるはずの何かが、欠けている気がした。

「……雨、ひどいですね」

そう言うと、店長は画面から目を離さず、静かに頷いた。

その横顔は、

過去のどこかと今を、同時に見ているようだった。

帰る時間になる。

「気をつけて」

その言葉だけが、なぜか強く残った。

外は豪雨だった。

傘を差す。

水が靴に入る。でも冷たくない。

交差点。

赤信号。

車のライトが、滲んで揺れる。

――あれ?

次の瞬間を、彼は知らない。

雨の日の喫茶店。

店長は、カウンターにカップを二つ並べる。

いつもの癖だ。

一つにコーヒーを注ぎ、

もう一つには、何も注がない。

しばらくしてから、

彼女は空のカップを片付ける。

ソーサーには、

口をつけた跡が、どこにも残っていなかった。

それでも、

誰かがそこに座っていた気配だけが、確かに残る。

彼女は、店を閉めなかった。

後日。

雨の午後、常連が不思議そうに店内を見回す。

「あれ?

雨の日って、定休日じゃなかった?」

店長は、窓の外の雨を一度だけ見てから、微笑んだ。

「えぇ。

雨も悪くないと思えるようになったので」

雨音は、相変わらず優しくない。

それでも、喫茶店には灯りがついている。

雨の日だけ。

誰かを迎えるために。


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