雨の日の喫茶店
晴れの日の午後、喫茶店は静かだった。
古いスピーカーから流れる音楽と、コーヒーを淹れる音。
カウンターには、顔なじみの常連が一人だけ座っている。
「相変わらず落ち着くね、ここ」
店長は小さく笑って、カップを差し出した。
「ありがとうございます」
しばらくして、常連がふと思い出したように言う。
「そういえばさ、
ここって雨の日、閉めてるよね?」
「ええ」
「珍しいよね。
雨の日の方が、喫茶店って人来そうなのに」
店長は少しだけ手を止めた。
それから、何事もなかったようにカウンターを拭き続ける。
「……いろいろあって」
それ以上は言わなかった。
常連も、それ以上は聞かなかった。
窓の外は、よく晴れている。
この店は、今日もいつも通りだ。
雨が降り出すのは、決まって放課後だった。
制服のまま、傘を差して歩く。
アスファルトに弾く雨音の中で、なぜか自分の足音だけが曖昧になる。
寒くない。
息も上がらない。
気づけば、帰り道を外れていた。
理由は分からない。
ただ、雨の日になると――
路地の奥に、灯りが見える気がする。
古い喫茶店。
掠れた看板。
ガラス越しに滲む、橙色の光。
「……ただいま」
そう呟いて、ドアを開ける。
鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうに、店長がいる。
二十代後半くらい。
穏やかな声と、少しだけ影のある笑顔。
「いつもの、ですよね」
「はい」
声は出ているのに、
身体の中に響く感じがしなかった。
学校では、特別なことは何も起きない。
友達と話し、授業を受け、帰り道を歩く。
ただ、雨の日だけは、時間の流れが薄くなる。
写真を撮ったあと、
自分がどこに写っていたのか思い出せない。
でも、気にしない。
そういう日もある。
雨の日だけ、あの喫茶店に行ってしまう理由も、
考えたことはなかった。
店内には、いつも彼一人だけだった。
雨音と、カップの触れ合う音。
テレビがついていて、ニュースが流れている。
何気なく聞いていた声が、突然はっきりと耳に残った。
「本日午後、○○区で発生した交通事故についてです。
亡くなったのは、下校途中だった男子高校生で、
当時は記録的な豪雨だったということです」
画面には、濡れた横断歩道。
歪んだ自転車。
路上に落ちた、黒い学生鞄。
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
理由は分からない。
ただ、そこにあるはずの何かが、欠けている気がした。
「……雨、ひどいですね」
そう言うと、店長は画面から目を離さず、静かに頷いた。
その横顔は、
過去のどこかと今を、同時に見ているようだった。
帰る時間になる。
「気をつけて」
その言葉だけが、なぜか強く残った。
外は豪雨だった。
傘を差す。
水が靴に入る。でも冷たくない。
交差点。
赤信号。
車のライトが、滲んで揺れる。
――あれ?
次の瞬間を、彼は知らない。
雨の日の喫茶店。
店長は、カウンターにカップを二つ並べる。
いつもの癖だ。
一つにコーヒーを注ぎ、
もう一つには、何も注がない。
しばらくしてから、
彼女は空のカップを片付ける。
ソーサーには、
口をつけた跡が、どこにも残っていなかった。
それでも、
誰かがそこに座っていた気配だけが、確かに残る。
彼女は、店を閉めなかった。
後日。
雨の午後、常連が不思議そうに店内を見回す。
「あれ?
雨の日って、定休日じゃなかった?」
店長は、窓の外の雨を一度だけ見てから、微笑んだ。
「えぇ。
雨も悪くないと思えるようになったので」
雨音は、相変わらず優しくない。
それでも、喫茶店には灯りがついている。
雨の日だけ。
誰かを迎えるために。




