碁盤の向こう側
放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気に緩んだ。椅子が引かれる音、鞄のファスナーが閉まる音、その中で、とうもはぼんやりと窓の外を見ていた。
「なあ、とうも」
声をかけてきたのは、藤原健人だった。いつもの気だるそうな笑顔を浮かべている。
「今日、予定ある?」
「……特にない、かな」
そう答えると、健人はニヤッと笑った。
「じゃあ決まり。囲碁部、来いよ」
「囲碁部?」
「そ。碁盤に石置くだけの、平和な世界だ」
その言い方があまりにも雑で、とうもは少し笑ってしまった。
囲碁部の部室は、校舎の端にあった。扉を開けた瞬間、線香のような匂いと、独特の静けさが広がる。
……いや、静けさは一瞬だった。
「おっ、誰だよそいつ」
低くて、少し荒っぽい声。
部室の奥、椅子に片足を乗せて座っていたのは、松田陸だった。金に近い茶髪、ピアス、制服は着崩されている。どう見ても、ヤンキーだった。
「新入り?」
「違う違う、見学。な、とうも」
健人が軽く肩を叩く。
「ふーん」
陸はとうもを上から下まで見て、鼻で笑った。
「弱そう」
「いきなり失礼じゃないですか、部長」
その声に振り向くと、藤本先生が立っていた。にこにこしているが、目だけは鋭い。
「碁盤、割らないでくださいね?」
「はーい」
陸は棒読みで返事をする。
碁盤を挟んで、とうもは健人と向かい合った。
「ルール、分かる?」
「……石、取る?」
「大体合ってる。まあ、やりながら覚えろ」
健人の説明は雑だったが、不思議と分かりやすかった。石を置くたび、盤上の世界が少しずつ変わっていく。
「お、意外と悪くないじゃん」
陸が後ろから覗き込む。
「初めてにしては、な」
褒めているのか、馬鹿にしているのか分からない口調。でも、とうもは嫌な気はしなかった。
途中、ふと集中が切れた瞬間、脳裏に別の顔が浮かぶ。中村結衣の横顔。
「……」
その瞬間、石を一つ取られた。
「今の、完全に心ここにあらずだろ」
健人が笑う。
部室の入り口では、春香が腕を組んで立っていた。何も言わず、ただじっとこちらを見ている。視線が合うと、ぷいっと顔を背けた。
とうもは、その小さな変化に気づかなかった。
対局が終わる頃には、外はすっかり夕焼けに染まっていた。
「まあ、悪くなかった」
陸が立ち上がりながら言う。
「また来いよ。逃げたら許さねえから」
それは脅しのようで、どこか仲間扱いの言葉にも聞こえた。
健人はとうもの背中を軽く叩いた。
「な? 言っただろ。平和な世界」
「……嘘つき」
そう言いながら、とうもは少しだけ笑っていた。
碁盤の上で生まれたこの時間が、これから先、何かに繋がっていく。そんな予感だけが、静かに残っていた。




