静かな人
放課後のチャイムが鳴っても、すぐに立ち上がる気にはなれなかった。
教室は少しずつ人が減り、椅子の引きずる音と雑談が遠ざかっていく。
「とうもくん、ちょっといい?」
藤本先生に呼ばれ、僕は慌てて顔を上げた。
「はい」
「このプリント、提出先が違っててね。職員室まで持ってきてくれる?」
「わかりました」
机の上のプリントをまとめて立ち上がると、教室の後ろの方にも、まだ一人残っている人がいた。
中村結衣。
窓際の席で、ノートを丁寧に閉じている。
動きが静かで、周りの音に溶け込んでいるみたいだった。
廊下に出ると、彼女も同じタイミングで教室を出てきた。
「あ……」
声が小さく重なる。
「……あ」
一瞬、間が空いた。
「藤本先生に呼ばれて?」
彼女が先に口を開いた。
「うん。プリントを」
「私も。提出物」
それだけ。
並んで歩き始める。
距離は近くも遠くもなく、妙に意識してしまう。
職員室までの廊下は、思ったより長かった。
「……日本語、上手ですね」
唐突に言われて、少し驚く。
「え、あ……まだまだです」
「そうですか。でも、聞き取りやすいです」
淡々とした声。
褒めているのか、事実を言っているだけなのか、分からない。
「ありがとう……ございます」
敬語が変になって、少し恥ずかしくなる。
彼女は小さく首を傾けた。
「敬語、難しいですよね」
「はい……すごく」
それだけで、少しだけ空気が和らいだ気がした。
職員室の前で立ち止まる。
「じゃあ……」
「うん」
同時にプリントを提出し、用事はすぐに終わった。
帰り道、再び並んで歩く。
「……転校、慣れました?」
結衣が、前を見たまま聞いてくる。
「まだ……ちょっと」
「そうですよね」
その言い方が、なぜか優しかった。
「でも」
一拍置いて、彼女は続けた。
「ちゃんと、話そうとしてるのは伝わります」
その言葉に、足が一瞬止まりそうになる。
「……ありがとうございます」
何をどう返すのが正解か分からなかったけれど、嘘ではなかった。
昇降口に着く。
「じゃあ……また」
「はい。また」
彼女は軽く会釈して、外へ出ていった。
残された廊下で、僕は少しだけ立ち尽くす。
さっきまで、特別なことは何も起きていない。
転んだわけでも、盛り上がったわけでもない。
なのに。
「……不思議だな」
声に出してみても、理由は分からなかった。
教室に戻る途中、頭の中で彼女の声が何度か再生される。
落ち着いていて、静かで。
なのに、なぜか耳に残る。
もし橘陽花が一緒だったら、きっと全然違う空気だった。
騒がしくて、笑って、考える暇もなかったはずだ。
靴を履き替えながら、ふと思う。
僕はまだ、中村結衣のことを何も知らない。
それなのに――
「……もう一度、話したいな」
誰にも聞こえないくらい、小さく呟いた。
外に出ると、夕方の空が少し赤くなっていた。




