第4章 セーフハウスと狩りの計画
びしょ濡れの体で下水道の岸辺に座り込む。汚水が髪の先から滴り、濁った水面に輪紋を広げていく。
肺がヒリヒリ疼く。でもそれ以上に──頭から離れないあの光景が怖い。
あれは幻覚なんかじゃない。酸素不足のせいでもない。
あの人形はあまりにもリアルだった。エラの目に宿るあの特有の輝きまで、完璧に再現されていたのだ。
「ダーリン?水を飲んだ?」
エラの声が、混乱した思考を引き戻す。彼女はすでに岸辺にあがり、濡れた囚人服がボディラインを浮かび上がらせていた。
「…ただ、ちょっと怖くて」
曖昧にごまかす。あの不気味な光景のことは口にできない。この目覚めつつある力に、胸騒ぎがする。
エラが隣に座り、自然に抱き寄せてくる。
「私がいる限り、あなたに何かあることなんてないから」
確信に満ちた声。しかしその腕の力は、拒絶を許さない強さだった。
「勝利のハグ!ヴィナもほしい!ほしい!」
ヴィナが子犬のように飛びついてくる。汚水を跳ねさせ、両手を広げて──。
「止まれ、ヴィナ」
エラの一瞥で、彼女は凍りついた。その眼差しの冷たさに、私も震えが走る。
「カレンは私が面倒を見る」
「別にいいよ、エラ、ヴィナがもし…」
「二人ともびしょ濡れでしょ、ダーリン」断つように言い放つ。「まずはセーフハウスで身なりを整えて。ヴィナ、ついて来い」
彼女は立ち上がり、習慣的に私を背後に護る。その背中を見つめながら、思い出す。
あの日、彼女が初めて私の手を握った時の言葉。
「こうすれば、あなたを守れるから。背後を任せるのは信頼の証よ。弱いなんて思ってないから」
あの甘い記憶も、今は複雑な色に染まっていく。
エラが落書きだらけの壁の前で足を止める。レンガの隙間を熟練した指で探り、かすかなカチリという音。
隠し戸が静かに滑り開く。これは決して、急ごしらえの隠れ家なんかじゃない。
「ダーリン、冷蔵庫から食べ物を取って、ヴィナと一緒に外で待ってて。私が先に片付けるから」
指示を残し、彼女は扉の向こうに消えた。
冷蔵庫を開け、ぼんやりと食料を取り出す。このセーフハウスの完璧さは尋常じゃない。食料、衣服、医療品まで。
エラは刑務所にいる間だけじゃない。もっと前から、この日のために計画を練ってきたんだ。
彼女は一体、他にどれだけの秘密を隠しているんだろう?
ヴィナにパンを差し出すと、首を振る。
「船でお腹いっぱい、いっぱい」
船での記憶がよみがえる。胃が逆流しそうになる。気を紛らわせるように、鮮やかな包装紙のフルーツキャンディーを手に取る。
「じゃあ、これなら?リンゴ味だよ」
ヴィナの目がぱっと輝く。つい最近まで他人のものだったその双眸が、薄暗い光の中で奇妙にきらめく。
「キャンディー!ヴィナにくれるの?本当?本当?」
突然飛びついてくる。その力は驚くほど強い。硬直しながら抱擁を返す、複雑な思い。
平然と他人の体の一部を奪うこの少女が、キャンディー一つにこれほどまでに興奮する。
彼女は一体、何を経験してきたんだろう?
肩に湿った感触。ヴィナを押しのけると、彼女はめちゃくちゃに泣いていた。
「どうしたの?泣かないで」
あたふたと慰める私。
「ううっ…キャンディー、ご褒美…ヴィナ、やっとご褒美もらえた…」
すすり泣く声。そっと背中を叩きながら、胸が痛む。こんな普通の親切が、彼女の中では得難い褒賞になってしまっている。
ガシャン、と浴室のドアが開く。髪を拭くエラ。私たちの姿を見て、彼女の眼神が一瞬で曇る。
「ヴィナ、カレン、随分と仲良くしてるみたいね?」
柔らかい声の中に、危険な響き。
しかしヴィナは気づかず、くるりと飛びつく。
「ヴィナを連れ出してくれてありがとう!そうじゃなきゃ、キャンディーもらえなかった!」
意外にも、エラは笑みを浮かべ、抱擁を受け入れる。
「これはほんの始まりに過ぎないわ、ヴィナ。これからもっと…ご褒美はあるから」
衝突が避けられて、ほっとする。
身を清め、衣服を替えた後、空気は幾分和らいだ。
ヴィナは隅のマトリョーシカに夢中だ。分解と組み立てを繰り返すその様子は、本当の子供のよう。
エラがソファの傍らから銀色の小箱を取り出す。開くと、中には白い粉。
胸が締め付けられる。刑務所では見たことのないものだ。
「少しやる?すべての悩みを忘れさせてあげる」
小声の誘い。指先で粉をすくい上げる。
「…結構だよ」
首を振る私。
「残念」
彼女は微笑み、粉を鼻から吸い込む。瞬間、体が微かに震え、目に狂気の光が走った。
突然近づく彼女。指が頬を撫でる。息遣いが荒い。
「知ってる、カレン…外の世界は刑務所よりも危険なの」
瞳が鋭く、狂気じみていく。
「…そして同時に、チャンスに満ちている」
熱い吐息が頬に触れる。
「『掃討者』やディロみたいな役立ずは、檻の中の連中を捕まえただけですべてだと思い込んでいる。奴らは知らないの…外に私たちのような『異常』がまだどれだけ潜んでいるかを」
血の気が引いていく。信じられない思いで彼女を見つめる。別人のようだ。
「さまよい、潜む弱き者たち…奴らは力の使い方さえ知らない」
声は低く、震えるほど興奮している。
「いつか『掃討者』に殺されるより、私たちが奴らを見つけ出そう。一つずつ…私たちの踏み台に」
髪を撫でながら、囁くような優しい声。
「強くならないと、ダーリン。十分に強くならなければ、永遠に追われるまま。あなたも助けてくれるよね?」
硬直する私。返事もできずにいると──。
「狩り?面白い!ヴィナもやりたい!一番きれいな部分、取っておいていい?」
ヴィナが輝く目を上げる。
エラの笑みが深まる。
「もちろんよ、ヴィナ。すべての…一番きれいな部分を取っておいていいわ」
二人を見つめ、冷たい嫌悪感が背筋を這う。
私たちは本当に刑務所から逃げ出したのか?それとも…もっと危険な狩場に足を踏み入れただけなのか?
その時、視界がまた歪み始める。二人の輪郭がぼやけ、人形の姿に変わっていく──。
(ちっ!)
舌を噛み、痛みで意識を保つ。幻覚を必死に押し留めた。
「最初のターゲットは近くにいる」
エラは古びた端末の前に立つ。画面には、複雑な地下管路の地図。赤い点が規則的に点滅している。
「電流を操る可哀相な子、コードネーム『スパーク』」
指先で画面を軽く叩く。
「下水道の中枢制御室近くに潜む。短路したケーブル数本で身を守れると思い込んでいる」
振り返り、狩人のような笑みを浮かべる。
「私たちの最初の狩り、準備はいい?」
「やったー!」
ヴィナが歓声を上げ、ドアへ駆け出す。
私は立ち尽くす。手足の冷たさを感じながら。
エラが背を向けた瞬間、端末画面に一瞬表示された文字を読み取る。
『プロジェクト番号:P-07『マリオネット』-ステータス:アクティブ。処理優先度:最上位』
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