第1章 悪夢と檻
「さあ、私を殺して」
耳をつんざくサイレンが静寂を切り裂くたび。
数メートル先で、私の眉間を銃口で狙うあの影。
心の底で、狂おしいほどに願う。
――どうか引き金を引いて。このすべてを終わらせてくれ。
だが、彼女は決して、私の願いを聞き入れてはくれない。
口元をほころばせ、慈愛にも似た残酷なスマイルを浮かべる。
ガンを下ろし、モデルの如き優雅な足取りで、ゆっくりと近づいてくる。
間合いが詰まった刹那。
軽いキスが私の頬に触れた。
次の瞬間、私の身体は名もなき暗闇のなかで、音もなく溶けていく。
あたかも、最初から存在しなかったかのように。
「うわあっ――!」
また、ナイトメアから飛び起きた。
私の悲鳴が、冷え切った監房に反響する。
「また悪夢、カレン?」
向かいのベッドから、優しい声が聞こえる。
収容番号110、エラ・ヴァンス。
彼女は私より数年早く、この『クロノス』と名付けられた鉄の檻に放り込まれた。
誰が想像できよう。
この、穏やかで親しみやすく、灰青色の瞳にいつも適度な気遣いを宿す女が、三人の男性を殺害した罪で投獄されているとは。
「もしかして……あの女の人?」
彼女は心配そうに、そう囁いた。
私はうなずく。
ハートはなおも激しく鼓動を打っている。夢から覚めるたび、あの体が溶けていく感覚が、恐ろしいほどに生々しく蘇る。
「大丈夫、あなたの罪状が死刑になることはないわ」
エラはベッドから降り、私の元へ寄ると、さわやかな石鹸の香りを運んできた。
「それにね」
彼女は軽く笑いながら、冷汗でびっしょりの前髪をそっと払いのける。
「キスひとつで人が溶けるわけないじゃない」
その通りだ。だが、あの夢はあまりにも現実的すぎて、気持ちの整理がつかない。
エラは、私の額に軽くキスをした。
長い間きちんと体を洗えていない私の汗の臭いなど、まったく意に介さずに。
そう。私たちは今、恋人同士なのだ。
この絶望的な刑務所で、互いを支え合い、生き延びている。
私は本来、婚約者と教会で式を挙げるはずだった。
だが彼は、祭壇の前で――神の見ている前で、私の手に握られたナイフによって、不慮の死を遂げた。
四人の心理医が、私が当時精神異常に陥っており、無意識状態で犯行に及んだと弁護してくれた。
そのおかげで、情状酌量を得て、ここへ送られ、エラと同室になり……やがて恋に落ちた。
刑務所はあまりに寂しい。
男性嫌悪の女が、数ヶ月の同居を経て、唯一自ら進んで彼女と同室した私を「愛す」ようになるのも、無理からぬことかもしれない。
では、私がなぜ彼女を「愛す」ようになったのか?
おそらく――私が悪夢に追い詰められるたび、いつも彼女が救ってくれたから。
孤独に飲み込まれそうになった時、いつも彼女が手を差し伸べてくれたから。
「もう一度、抱きしめて。エラ、お願い」
私は顔を彼女の首筋にうずめ、はかない温もりを吸い込む。
それ以上のコンタクトは嫌悪する。だが、抱擁とキスだけは、自分がまだ生きていると実感させてくれる。
「いいわ、カレン」
彼女は私を腕のなかに抱きしめた。その腕は優しいけれど、決して振りほどけない強さで。
「これで、少しは良くなった?」
私は彼女の抱擁に溺れた。
正直に言うと、私が今まで自ら命を絶たずにいられたのは、すべてエラのおかげなのだ。
「カレン、脱獄しましょう」
彼女の声はかすかだった。
しかし、それは私の耳元で、雷のように炸裂した。
「え?今?」
「ええ、もう準備はできているの」
「準備が?地下道を掘っているなんて、知らなかったよ……」
「いやいや」
彼女は楽し気な息遣いで言った。
「今どき、そんな原始的な方法を使う者はいないわ」
「じゃあ、どうするの?」
「よく見てて?絶対に、瞬きしちゃダメよ」
エラが手を伸ばす。
指先が、鉄格子に触れた。
――刹那!
鉄格子の表面が泡立つ。内部から、ジージーという異音が響く。
数秒後、鉄格子の一部が爆発し、溶けて暗紅色の鉄水の塊と化した!
「あなた……どうやって……」
私はあっけに取られる。
エラは答えない。ただ微笑み、沸き立つ金属溶液をものともせず、悠然と私へ歩み寄る。
この光景――なぜ、こんなにも見覚えが!
「さあ」
彼女は私の耳元で、震えが走るような声でささやく。
「私を殺して」
「いや……そんなこと、できない」
私の返答は、夢のなかで交わしたものと、まったく同じだった。
本能のままに、エラを強く抱きしめる。自分の「忠誠心」を、行動で示す。
「ぷはは、できないって分かってるよ、ダーリン。冗談だよ~」
彼女の笑い声は軽やかだ。だが、どこか冷たい余韻を残しながら。
「その冗談、寒すぎるよ」
私はぼそりとぼやく。それでも、彼女の腰を抱く腕は緩めない。
「でも、効果は抜群でしょ?」
確かに、抜群だ。全身の毛が逆立つ。彼女の言葉は、いつだって私の心の奥底にある恐怖と渇望を、巧みに揺さぶる。
「まずはここにいて、カレン。私から、『協力』してくれる人を助けに行くから」
「気をつけて。私は、見張りてるから」
彼女のキスが、再び私の頭頂に落ちる。
そして、彼女は影のように、監房から抜け出した。
私は約束を守り、檻のなかで見張り役を務めた。
彼女の身のこなしは、並外れて素早い。高層の鉄柵から軽々と地面へ飛び降り、その動作は重力の束縛を逃れたかのように優雅だった。
数分後、巡回のガードが時間通りに現れる。
金属ドアが開く、耳障りな音。静寂が、再び引き裂かれる。
まずい。
「来たわよ!早く!」
私は声を張り上げて叫んだ。
「停止しなさい。誰だ、お前は?」
ガードの注意は、一瞬で私に向けられる。
その瞬間――
ほとんど見えない冷たい光が、闇から放たれる。
極小の、三日月形の異物。それが、一人のガードの頬に、正確に突き刺さった。
だが、次の瞬間、恐るべき光景が起こった。
その異物は、ガードの顔で狂ったように成長し、内側から外側へと広がり、寄生する蔦のように、彼の顔全体を覆っていく。
鋭い角質が皮膚を突き破り、血が滴る。
凄まじい悲鳴。
二人のガードは、次々とひざまずく。彼らの顔は、無数に増殖し続ける硬い爪によって、飲み込まれ、歪められていく。
「エラ、あなたのアイデア、効き目抜群だよ~へへへ~毎週爪をコレクションしてたんだからね~」
だらしなく囚人服を着た人影が、跳ねながら現れた。
ヴィナ・レッケン――私は彼女を、天真爛漫で鈍く、重ね言葉を好むおバカさんだと思っていた。
今の彼女は、鼻歌を歌いながら、手際よくガードの装備を剥ぎ取る。そして、うち一人のタトゥーに視線を奪われる。
「このタトゥー、すっごく綺麗、エラ!剥ぎ取っていい?ね、いいでしょ?いいでしょ?綺麗なもの、ずっと集めてなかったんだから!」
「それじゃあ、あなたがやったってバレるわ、ヴィナ。我慢して」
エラの冷静な声が聞こえる。彼女はもう、ガードの制服に着替えていた。
「わかったわかった~、我慢するしかないね~」
ヴィナは口をとがらせて一歩下がる。だが、その視線は、未練げにタトゥーから離そうとしない。
「ダーリン、出ていいわよ」
エラは見つけてきた鍵で、手際よく監房のドアを開けた。
囚人たちは、決壊した洪水のように溢れ出る。自由を求めて咆哮しながら、突き進む。
耳をつんざくアラームが、クロノス全体に鳴り響く。
さらに多くのガードが押し寄せる。重装備に、特製のシールド。出口は、完全に塞がれた。
「全員、直ちに元の区画へ戻れ。警告は一度だけだ。」
ガードチーフの声には感情がこもっていない。
「本当に邪魔!邪魔なんだよ!」
ヴィナは爪の破片を再び投げつけ、尖叫する。だが、今回はシールドによって、ことごとく跳ね返されてしまう。
群衆は、パニックに陥る。
しかし、その時――
刑務所の放送設備から、所長の落ち着いた声が流れた。
「逃がせ」
場内は、愕然とする。
ガードたちでさえ、呆然とした。
「何ですって?!本当でございますか?」
ガードチーフは、信じられないという調子だ。
「命令だ」
ガード隊は困惑しながら、ゆっくりとシールドを下ろし、通路を開けた。
私たちはこの機に乗じ、狂ったように外へと突き進んだ。
エラは終始、私の手を強く握りしめ、人混みのなかを私のために道を切り開いてくれる。
刑務所を飛び出し、冷たい夜風が顔を打つ。
連絡地点には、一隻の輸送船が、静かに待機している。
そして、船首に立つ、所長の制服を着た人影――まさに、さきほど放送で命令を下した本人だ!
ありえない……!
「ははは~」
エラは、得意げな笑いを爆発させた。
「今回の脱獄大作戦、お気に召したかしら、ダーリン?」
「どうかな」
私は周囲を見回した。
「すべてが、綿密に仕組まれたように感じるよ」
「もちろんよ」
彼女は近づき、狡猾な光を煌めく目をして、ささやく。
「私たちが一緒になって110日目の記念に、ずっと準備してきたんだから」
「エラ」
船首の「所長」が突然、口を開いた。その声は、高低や感情の起伏が少なく、聞き手に性別を特定させない、奇妙に中立的な響きだった。
「報酬だ。確かに受け取った。」
次の瞬間、「所長」の皮膚、顔立ち、そして衣服さえもが、溶ける蝋のように色あせ、剥がれ落ち、再構成されていく。
数秒のうちに、切り揃えた銀色のショートヘアが特徴の、見知らぬ女が私たちの前に現れた。
ヴィナは歓声を上げ、船に飛び乗る。
エラは私の手を引いて、それに続いた。
エンジンが轟音を上げ、船は暗い水面を切り裂き、クロノス刑務所を後方に追いやっていく。
エラはそっと、私の肩を抱く。
そして、耳元で、危険な甘さを帯びた声で、ささやいた。
「さあ、ダーリン。そろそろ、あなたの『能力』について話す時ね……」
彼女は、わずかに間を置く。
その言葉は、氷の柱のように、私のハートを刺し貫いた。
「……それと、あなたの夢のなかで、いつもあなたに銃を撃てない『私』は、いったい誰なの?」
私の血液は、一瞬で凍り付いた。
なぜ、彼女が知っている――
夢のなかでしか会ったことのない、もう一人の彼女のことを。
読者の皆様、いつもご愛読ありがとうございます!
カレン、エラ、ヴィーナ、カミラによる、狂気と闇が渦巻く逃避行がクライマックスへと向かいます!
ダークな心理描写とガールズラブの群像劇にご興味のある方は、ぜひ「しおり」や「いいね」をよろしくお願いします!
絶賛更新中です!




