あなたの「かけら」
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こーちゃんは、自分の「かけら」というものを意識したことがあるかい?
よく、間接キスをしたのしないので、若いものがキャーキャーさわぐが、あれもまた自分のかけらの受け渡しといえる。
皮膚と触れ合うそのとき、何と何が行き来するかというのは、ちょっと科学に興味を持った人ならば分かるだろう。何万、何億……いや下手したら兆単位に行くかもしれないな。
おっと、それで極端に嫌がるのもどうかと思うぞ。それは人間の免疫その他もろもろの機能への冒涜ということになる。生き物として自信を持ちたいのであれば、とがったことばかりじゃなく、地に足の着いたことへも目を向けて身体を大事にすることだな。
と、何が言いたいかというと、我々の肉眼で見えないレベルでのミクロのやりとりが、行われ続けているということだ。こうして垂れる汗ひとつぶをとっても、そこには無数の原子が存在している。
我々もまた、数億個ある父親の精子の中から一個しかない母親の卵子とめぐり合った、いわば選ばれしもの。それがこうも、世の中に満ち満ちているのだ。
ならば、そこかしこで選ばれしものにより選ばれた事件が起き続けても不思議ではあるまい。出会える確率もまた、高くないかもだがな。
私が以前に出会ったと思しきレアケース、聞いてみないか?
私の家では、自分用のコップが決まっていて皆がそれぞれ自分のものを使い続けるようになっている。
湯のみもそうだな。食事がひと段落ついてお茶を入れるとき、家族全員分それぞれの名前がかいてある湯のみを並べたうえで、ついでいく。
普通に飲むときも、もちろんマイコップ式。それが夏場ともなると、出動回数が増える上に扱いがぞんざいになってくるものだ。自分だけが使うのだから、たいしてお手入れしなくていいじゃん、と。
私もそのような無精派だったもので、コップはせいぜい水洗いをちゃちゃっとやって、定位置にほい。どうせすぐ使うのだから、洗い物かごの中へひっくり返したままでいいだろと、
そうやって何日、何年過ごしていたものだから、油断だって生まれる。いや、仮に気を抜いていなくてもめぐり合わせだったのかもしれない。
私のコップは、何年も前のガラス細工体験の折りに作成したものだ。
多少、形はいびつだし、模様だって底の部分から数ミリ程度のところに青みがかった水玉模様がいくつかまぶしてあるのみで、凝った技巧はない。
ただ、その容量は350ミリ缶の中身を丸まる移しても、あふれないほどのもの。若い私にはうってつけのものに思えたんだ。
ゆえに飲み終わったら、飲み口をささっと水洗いしてふきんのたぐいで拭うだけ……を何度も繰り返していたんだが、ある年の夏のこと。
夜中に目が覚めた私は、強いのどの渇きを覚えた。
ある程度までは無視する私も、つばを飲み込んで痛みを感じるほどとなると看過しきれない。風邪をひく兆候として、よくあらわれるもののひとつだからだ。
これはのどをうるおしておいたほうがいいかもと、家の明かりをつけながら台所までたどりつく私。いつものようにコップを取り上げてみて、「ん?」と思う。
飲み口の一部。もともとは向こう側がのぞけるくらい透き通っていたガラスのそれが、黒く汚れていたんだ。
私が口をあてがうと、ちょうど覆えるほどの面積となれば、私の飲み方が原因かとも疑いたくなる。嫌だなあ、と思いつつも私は水道水をせっせこ流す。
夏場のパイプの中には、生暖かい水が溜まっているもの。すぐさまコップにつぐと、半端に生ぬるい水を味わう羽目になる。ある程度流して、奥にある冷たさを保った水が出てくるのを待った方がいい。
まださほど生きてはいなかった私だが、その中の数少ない学びのひとつだった。実際に指で触れて、すっかりぬるま湯を追い出したのを確かめ、コップに水をついでいく私。
なみなみとついだそれに口をつけ、ぐびぐびと一気飲み……するはずだったのだが。
いざコップにつけた口に、次いだ水がぶつかったとたん、ぐっと声が漏れそうになるのを押さえながら、顔を離す羽目になった。
私が最も苦手とする、トマト系の青臭さ。それが唇越しに酸味を覚え、触れもしない鼻腔に特徴的な刺激を訴えてくる。
ジュースならば、なんとかいける私でもこれはいただけない。ミキサーにさえかけず、ダイレクトに潰したトマトを、そのまま流し込めといっているような代物だ。これは無理だ、とあらためてコップの中身を見る私だが、そこにあるのは確かに水道から出たばかりの透明な水。
ナス科な味も香りも帯びることができそうな気配なし。試しに、手でじかにすくって飲んでみると、なんということはなく、かすかな消毒の香りを帯びた水が口へ、のどへ注がれる。
――だとすると、コップそのものに原因が?
そう思い、あらためて脇に置いたコップへ目をやった私。
先ほど、私が口をつけたところ。そこもまた、いつの間にか黒ずんでいたんだ。
それだけじゃない。先ほどは避けた、元より黒くなっていた部分。そこが生き物であるかのように、すすすっとガラスの表面を横へ滑っていくんだ。
まともに反応することが間に合わないほどの、なめらかさだった。それは私が口をつけ、新たに生まれた黒ずみに触れると、一気にその大きさを増した。
黒ずみはたちまちガラスコップすべてに広がり、真っ黒に染め上げたかと思うと、ふっとその場から姿を消してしまったんだ。ご丁寧にも、置いていたテーブルの一角をきれいにまあるく削り取った上でね。
コップはなくなってしまったが、このことを家族に話しても信じてもらえず。テーブルの損傷によって、えらく怒られたのを覚えているよ。
ガラスそのものか、あるいはガラスにたまたまそのときくっついていたものか。
それが私のキスという「かけら」を受け続けて、ああもやっかいなものに変質してしまったのかもしれない。再現性もないし、また同じようなことが起こりやしないかと心配でもあるんだよ。