先輩〜Wahrheit〜
人は皆、誰にも言えない痛みを、誰にも気づかれずに抱えて生きている。
中学2年の春。 教室の隅で、私は小さな鉛筆の音だけを聞いていた。
目立たないように、話しかけられないように、空気のように静かに過ごすことに慣れていた。 新しいクラス。新しい席。新しい人間関係。 でも、それは私にとって「恐怖」だった。
私のノートには、きちんと書かれた文字が並んでいるけど、頭には何も入ってこなかった。 ただ「周囲の気配」に過敏になりすぎて、黒板の内容よりも、後ろの笑い声、隣の息遣い、前の子の髪の香り
──そういうものの方が、何倍も強く刺さってくる。
(みんなが、私を見てる気がする)
(なんで? なにもしてないのに)
(また……嫌なこと、始まるのかな)
トラウマなんて、大げさな言葉だと思ってた。 でも、ある日から私は普通じゃなくなった。
小学校のある日
私は、仲良くなったと思っていた子に、突然無視された。理由は「なんとなくムカついたから」
それだけだった。
でも、それだけで、私は「人に嫌われるのが怖い人間」になった。
誰かと話す時、私は相手の目を見れない。 言葉を選びすぎて、沈黙してしまう。 そして、沈黙のあとには決まって、相手の笑顔が曇る。 「あ、また嫌われた」 そうやって、私の中に新しい「痛み」が増えていく。
ある日、授業が終わって教室を出ようとしたとき、私は不意に声をかけられた。
「……あの、紗奈さんって、一人なの?」
その声に、心臓が跳ねた。 振り返ると、クラスで明るいことで知られている女子が立っていた。 けれど、私はその笑顔の裏をすぐに疑ってしまった。
(なにかの罠かも)
(笑って、後で悪口言うのかも)
私は首を振ることも頷くこともできず、「うん」とも「ううん」ともつかない声を出して、足早に廊下へ逃げた。 背後で何かを言っていた気がしたけど、聞き取る余裕なんてなかった。
また、チャンスを逃した。 誰かと関われるはずの、一瞬。 私の中の「人間不信」は、日ごとに深く根を下ろしていった。
家に帰っても、私は心を閉ざしたままだった。 母は優しいけれど、私の心の奥には届かない。 「学校どうだった?」と聞かれて、「普通」と答える自分が嫌いだった。
本当は、普通なんかじゃない。 本当は、助けてって、言いたかった。
でも私は、「弱さ」を言葉にする勇気すら持てなかった。
「自分なんていない方がいい」
それが頭の中に、染みついた呪文のように繰り返されていた。 根拠なんてない。けれど、日常のすべてがそれを証明しているように思えて仕方なかった。
友達がいない。 話しかけられない。 集団に混ざると、視線が怖くて、呼吸が浅くなる。 無理して笑えば、あとで心が擦り切れる。 何かを発言すれば、他人の顔色が気になる。 誰かとすれ違えば、「あの子、変じゃない?」と陰で笑われている気がした。
1年生のとき、勇気を振り絞って読書会に参加したことがあった。 でも、感想を述べたときの一瞬の沈黙。 そして、それに続いた「……うん、まあ、そういう見方もあるよね」という乾いた返し。
それだけで、私はもう二度と自分の言葉を人前で話せなくなった。
あの一言が、ずっと頭の中で鳴り響いている。 『変わってるね』 それが、私にとっては「異物」「迷惑」「空気を読めない」という意味に聞こえた。
何度も何度も自問した。 私は、どうしてこんなにも人とうまく関われないのだろう? みんなみたいに、普通に笑ったり、話したり、できないの?
鏡の中の自分は、目元に影を落とし、表情を読めない少女だった。
私は自分を愛せなかった。 誰かに優しくされるたび、申し訳なさでいっぱいになった。 「ありがとう」と言うよりも、「ごめんなさい」と言いたくなった。
こんな私が、誰かの時間をもらうなんて、ふさわしくない
そう思い込んでいた。
春の風が窓を叩く。けれど、私の部屋には季節の匂いは届かない。 閉じきったカーテンの隙間から、細く差し込む光。埃が舞い、静けさがそれを飲み込む。
布団にくるまりながら、私は今日も学校を休んだ。 いや、「行けなかった」んだ。
着替えて、鞄を持って、靴を履く
ただそれだけのことが、どうしてもできなかった。 玄関まで行くと、吐き気がした。指先が冷たくなって、心臓が早鐘を打つ。
ドアの向こうには、世界がある。
人の声、視線、空気、責任、期待
それらすべてが、私の身体にのしかかる。
「また、ダメだったね」 心の中で誰かが呟く。 優しい声じゃない。責めるようでも、諦めたようでもなく、ただ事実を述べるような音だった。
私は、自分の人生を生きている実感がなかった。 まるで、誰かの後ろに隠れて、こっそり息をしているだけのようだった。
一度だけ、本気で消えたいと思ったことがある。
ベランダから外を見下ろしながら、風に髪を揺らしていた。 下には誰もいなかった。ただ道路と、小さな花壇。
「ここから落ちたら、どうなるんだろう」
死ねるほどの高さじゃないと、すぐにわかった。 でも、もし骨でも折れて動けなくなれば、学校に行かなくて済むかもしれない
そんなことを本気で考えた。
けれど、その程度の覚悟すら、私にはなかった。 私は本気で死にたいわけじゃない。ただ、生きるのが、どうしようもなく怖かった。
誰かが「どうしたの?」と訊いてくれたら、泣き出してしまいそうだった。 でも、それを望む一方で、誰にも見つけてほしくなかった。
矛盾ばかりだった。
助けてほしい。でも、誰にも迷惑かけたくない。 抱きしめてほしい。でも、そんな資格ない。 愛されたい。でも、自分が大嫌い。
私の心は、ずっとそんなジレンマに引き裂かれていた。
「紗奈、今日は来れそうか?」
そのメッセージがスマホに届いたのは、午前8時過ぎだった。 送り主は担任の中島先生。昔から、私のことを気にかけてくれる数少ない大人の一人だ。
返事は、できなかった。
もう何度も「今日は行けそうか?」って訊かれて、そのたびに「無理です」って返した。 返せる日はまだマシだ。本当にダメな日は、スマホさえ手に取れなかった。
返事をしないと、罪悪感がじわじわと喉元まで上ってくる。 まるで鉄の味がするような、重たい後悔の塊。 でも、返事をすれば、期待されてしまう。それが、怖かった。
期待されることが、ずっと苦手だった。
期待されたら、それを裏切るのが怖くて、結局逃げ出してしまう。 期待されなくなったら、それはそれで悲しくて、もっと自分が嫌いになる。
いつからだろう。私は、人との関係の中で、どうやって生きればいいか分からなくなった。
「いい子だね」って言われるたびに、笑って頷いてきた。
でも、本当はずっと叫びたかった。
──私はいい子なんかじゃない。 ただ、怒られたくないだけ。 ただ、嫌われたくないだけ。
その小さな嘘が、いつの間にか自分自身になって、私は自分の顔さえわからなくなった。
夕方、ベッドから起き上がると、空が淡い赤に染まっていた。
カーテンを少しだけ開けて、風を入れる。 部屋の中のよどんだ空気が、外の風に押し出される。
久しぶりに深く息を吸った。 肺が痛いような気がした。 それでも、ほんの少しだけ、胸の奥が楽になった気がした。
このままじゃ、ダメだ。
そんな言葉が、心の奥から浮かんできた。 でも「じゃあ、どうすればいいの?」という問いに、私はまだ答えを持っていなかった。
そして夜。
天井を見つめながら、私はふと思い出していた。 小学校の頃、誰にも見せずに描いていたスケッチブックのこと。 中学の時、こっそり読んでいた詩集のこと。
その一つ一つが、今の私とどこか繋がっている気がして、胸の奥に火種のようなものが残っていた。
「自分のままで、生きていくこと」 それがどんなに難しいか、少しだけ知っている。
でも、あの頃の私が好きだったものたちは、たしかに今も私の中に残ってる。
だから、明日すぐに変わらなくても、私はそれを忘れずにいたいと思った。
ある春の午後、私は図書室の一番奥、窓際の席にいた。 まだ少し冷たい風が窓の隙間から入り込み、古い本の紙の匂いと混ざって、妙に落ち着く空気を作り出していた。
開いた本の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。 読んでいるふりをしながら、私はただ、誰にも気づかれずに、この場所にいられることを願っていた。 教室も、廊下も、外のグラウンドも、どこも居場所じゃない。 ここだけが、まだ私を責めない。
それでも、心の奥底では、どこかに「誰か」が現れてくれることを、ほんの少しだけ願っていたのかもしれない。 そんな矛盾した希望を、認めるのは怖かった。
ページをめくる手が止まったときだった。 トントン、と軽く机を叩く音がして、私は肩をびくりと震わせた。
「……隣、いいですか?」
顔を上げると、そこには見知らぬ女の子が立っていた。 柔らかそうな黒髪、少しだけ困ったような笑顔、でも目はまっすぐに私を見つめている。 その視線は、どこか私の中の「痛み」まで見透かしてくるようで、息が詰まりそうになった。
「……どうぞ」 ようやくそう返せたのは、数秒後だった。
彼女は静かに腰を下ろし、自分の本を開く。 それだけなのに、心臓がやけにうるさかった。
しばらくの沈黙のあと、彼女がぽつりと呟いた。
「ここ、落ち着きますよね。私も、教室よりずっと好きです」
私はその言葉に、答えることができなかった。 でも、少しだけ顔を上げた。 彼女は笑っていた。あたたかくて、どこか寂しさも抱えた笑顔で。
「……あの、私、水嶋未波っていいます。」
そのとき、ようやく私は言葉を返した。
「私は…」 久しぶりに、自分の名前を誰かに伝えたような気がした。
「……紗奈。秋月紗奈」
その瞬間、世界が少しだけ動いた気がした。
今まで誰にも届かなかったはずの「わたし」が、たった一言で、誰かに触れた気がした。 未波。 その名前は、まだ私の中に何の意味も持っていない。 だけど、
いつか
いつか、この出会いが、私を少しずつ変えていく。 でもそれは、まだ先の話。
今の私は、ただ静かにページをめくる。 隣に、初めて自分から目を向けたいと思った誰かがいる。
春の風が、窓からそっと吹き込んで、本の端を揺らした。
─終わり