8話:廃屋ティータイム
目の前に広がる、驚くほど美しく整えられたこの空間。先ほどまで見ていた外観――まるで今にも崩れ落ちそうな廃墟とは到底結びつかない。これは彼女、暦の力の一端によるものなのだろうと、なんとなく察しはついていたが、となると彼女がわざわざ俺を連れて来た「見せたい場所」とは、つまるところ、この“家”だったということになるのか?
「……これは、一体どういうことだよ?」
思わず口から漏れた俺の問いに、暦はなぜか得意げな顔をして、某有名寿司チェーンの社長がCMでよく見せる、あの腕を広げた自信満々のポーズを決めている。まるで「見てください」とでも言いたげな雰囲気だった。
「……玄関先でいつまでも話しているのも変ですので」
俺の動揺をよそに、暦はそう言って微笑む。どこか他意を秘めたような、でも冗談のようにも見えるその笑みに、俺はつい疑問符を浮かべてしまう。彼女の真意が見えてこない。それでも彼女は、「さあ、ついてきて」とでも言うように目配せをして、すっと奥の部屋へと歩を進めた。
言われるがままに、俺もその背中を追う。
彼女が案内したのはキッチンだった。家の造りは外から見た印象通り、広いとは言えない。玄関からそこまでの距離も短く、ドアを一枚隔てただけで空間が切り替わる。
部屋の隅には、可愛らしい模様のティーカップが並べられた食器棚が据えられている。そのひとつひとつが丁寧に整えられ、光を受けて小さく反射していた。ダイニングテーブルの上には、桃色のゼラニュームの花が小さなガラスの花瓶に生けられている。春のこの時期、街の花屋で安価に手に入る定番の花。けれど、それでも部屋に柔らかな彩りを加えるその存在感は侮れない。
「へえ……」
思わず、口元に微笑が浮かぶ。こいつも、こんなふうに季節の花を飾ったりするんだな。
街そのものである“彼女”に、こうした人間らしい――いや、むしろ女の子らしい趣味があることに、俺は少しばかり感心しながら椅子に腰を下ろした。
「……あまり、女の子の家の中をジロジロ見回すのは感心しませんよ。紅茶でいいですか?」
キッチンで準備をしながら、暦がこちらをちらりと見て言う。図星を突かれて、俺は気まずそうにうなずいた。
「あ、ああっ……それでいい」
確かに、ちょっと挙動不審だったかもしれない。
しばらくすると、彼女はティーポットと一緒に、白い皿に乗ったケーキを俺の前にそっと置いた。ティーポットの上には、まるで小さな頭巾のような、保温用のカバーがちょこんとかぶせられている。
「茶葉はフォートナム&メイソンのものを使いました。……まあ、ティーバッグですけど。あと少し蒸らすので、まだ触らないでくださいね」
手を伸ばしかけた俺の動きを見て、彼女が即座に睨みを利かせながら静かに制止する。
どうやら暦は、紅茶に並々ならぬこだわりを持っているらしい。いや、かなりの紅茶愛好家なのかもしれない。この街、神影にはそういうこだわりの強い連中もいるが、彼らは一度こだわりの話になると、熱量が沸騰してヤカンから溢れる蒸気の如く話が止まらなくなる。場合によっては、文字通り湯をかけられる危険すらある。俺は大人しく従うことにした。
(蒸らすって、どのくらい待てばいいんだ……?)
紅茶自体は俺は好きだが、自分でこだわった淹れ方をする事などない為、検討がつかなかった。
時計も見ずにそんなことを考えていると、30秒ほどで彼女は「もういいかな」と呟きながら頭巾をそっと外した。すると、ふわりと芳醇な紅茶の香りが室内に広がり、一気に空気が豊かになる。まるでアロマのように、鼻から喉、肺へと滑り込んでくる。
艶やかで琥珀色に近い、べっこう飴のような輝きを放つ紅茶。彼女はそれを慎重にカップへ注ぎ、俺の前へと差し出した。
「どうぞ」
俺は「いただきます」と礼を言ってから、そっとカップを口に運んだ。
──美味い。
あまりにも華やかで香り高い風味に、一瞬、本当に言葉を失った。まるでフレーバーティーかと思うほどに、フルーティーで柔らかな口当たり。朝に母さんが適当に淹れてくれる紅茶とは比べ物にならない。
「……美味いっ!」
「ふふ、さもありなんです。このわたしが淹れた紅茶ですから」
得意げに微笑む暦は、どこか照れ臭そうでもあった。だが、その誇らしさは隠しきれないようで、すぐに本音もこぼす。
「ほ、本当は……ティーバッグじゃなくて、ちゃんとリーフ缶から淹れたかったんですけどね。でも、今日の本題は紅茶じゃないので……今回はこれで我慢してください」
彼女の口ぶりから察するに、もっと美味い紅茶を淹れることが出来るのだろう。そして自分の紅茶に対して、相当な自負があることもわかった。
ちなみに、“フォートナム&メイソン”とは、かの英国で誕生した名門紅茶ブランドで、創業からすでに300年以上の歴史があるという老舗中の老舗だ。
「俺、そんなに紅茶にうるさい方じゃないし。英国人ほど気にしないから大丈夫だよ」
そう言うと、彼女はほんの少しだけ残念そうな表情を見せた。
(あ、まずい……)
その空気に気づいた俺は、慌てて言葉を繋ぐ。
「い、いや!本当に美味かったぞ!マジで!!初めてTWGを飲んだとき、かなり感動したけど……今の方が美味いって思ったくらいだ!」
その言葉を聞いた瞬間、暦の肩がぴくりと反応する。しまった、何か地雷でも踏んだか?と焦ったが──。
「……なに、それ!?TWGって何ですか!?詳しく教えてください!」
目を輝かせてぐいっと顔を寄せてきた彼女を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「シ、シンガポールの紅茶ブランドだよ。えーと……ただ、すまん……創業は2008年だ……」
俺が申し訳なさそうにそう言うと、暦の目から一気に光が消えた。
「……残念です。もう帰ってください」
「おいっ!?なんだその雑な追い出し方!」
「冗談ですよ」
くすっと笑いながら鼻を鳴らす彼女に、俺は呆れながらも、少し安心する。妙に心地よい空間だった。
咳払いを一つして、俺は改めて口を開いた。
「……えと、さっき、“ここが自分の家だ”って言ったよな?あらためて聞くけど、これは一体どういうことなんだ?」
言葉を選びながらも、俺は問いを口にした。不可解な状況に頭は混乱しつつも、目の前の彼女――暦の、どこか自信に満ちた態度が不思議と問い質す勇気をくれた。
暦は、琥珀色の紅茶を覗き込むように目を落としたまま、静かに答える。
「勿論、外見と内部で大きく違うのは、わたしの“星の奇跡”によるものです。ありのままをお話しすると、この建物の内部空間を、1950年代のある一点――正確には、1951年10月21日で固定化しているんです」
「……1951年10月21日って、随分ピンポイントな日付だな」
少し眉をひそめながら聞き返すと、暦は「ふふ」と小さく笑って肩をすくめた。
「その日に固定しておくと、わたしにとって都合が良かっただけです。深い意味はありません。ちょっとした趣味のようなものですよ」
なるほど――つまりこの場所は、外観は廃屋の建物でありながら、中に足を踏み入れた時点で、半世紀以上前の“時間”を逆行する事になる。時間が進まず、変化のない、凪のような空間なのだろう。
「わたしは本来なら三次元に実体を持たない存在です」
「実体を持たない……?えっと、それって、幽霊みたいなものとは違うのか?」
俺の疑問に、暦は少し困ったような笑みを浮かべる。
「違います。都市星霊としてこの神影市に誕生し、この街全体に浸透する意識体のような、実体のない星霊という概念だけが街を覆うようにあるだけです。ごめんなさい、この感覚は三次元世界で生きている湊さんには理解できない感覚ですので、何となくでイメージしてもらって構いません」
「そうなのか?」
心優しい暦がはっきりと理解出来ないと言い切ったのだ、そういうことなのだろう。
俺はそれについてはこれ以上言及することはしなかった。そんな俺の様子を認めた彼女は続けた。
「本来、都市星霊はそこに住まう者たちに干渉することは出来ません。基本的に成り行きを見守るだけです」
随分と放任主義な存在のようだ。
俺は黙って彼女が言葉を紡ぐのを待った。
「ただ唯一、都市星霊が人々に干渉する方法があります。それが実体化することです」
「今の暦みたいにってことか?」
「さもありなんです」
「多くの星霊は、必要に迫られた時だけ姿を得て、人々と関わり、歴史の一端に手を差し伸べてきました。過去の偉人たちの中にも、星霊の助力を受けた者は少なくありません。もちろん、全てではありませんが……」
つまり、歴史に名を刻むような人物たちの背後には、彼女のような存在が関わっていたかもしれないということか。英雄の陰に導き手がいたという話は色々と気になってしまう。
「……けれど、本来実体を持たない星霊が“形”を持つには、星の奇跡の力が必要なんです。だから、長期間実体を維持するためには触媒のような場所が必要なんです」
「つまり、この家そのものが、暦のための拠点ってことか」
「さもありなんです」
彼女の口から飛び出す、独特の言い回しというか口癖。その響きはどこか上品で、可愛らしくもあり、どこか古風な響きをまとっていた。
「けどな、一つ疑問があるんだが……暦って、ずっとこうして実体化してるだろ?寝る時も、食事の時も、そのまんま」
「はい。寝室でちゃんとベッドに寝ていますよ。寝言は言いません、多分」
「じゃあさ、必要に応じて実体と非実体――その、概念的な状態ってのを切り替えたりできないのか?」
俺の問いに、暦はふっと視線を落とし、静かに紅茶を見つめた。艶やかな液面には、俯いた彼女の顔が揺らめいて映っていた。
「……出来るには、出来ます。けれど、しないんじゃなく、出来ないんです」
その声はどこか弱々しく、言葉の奥に切なさを滲ませていた。彼女の視線はティーカップに満ちた琥珀色の湖面に落ちたままだ。水面を横に流れる気泡がゆっくりと消え、その度に僅かにそこを揺らす。
暦の背後に見えるキッチンに隣席したリビングには木製の大きな振り子時計が見えた。
カチリ、カチリと秒針が揺れる音がする。しかし、その針はその場で揺れるだけで時を刻まない。
彼女の言葉だけでなく、空間も固定化された時間を語っていた。
しばしの静寂の後、暦は桃色の唇を開いた。
「奇跡を熾すには原則、大量の星の希望を消費します。中でも実体を得る奇跡は莫大な星の希望が必要です。今の弱ってきている神影市では何度も状態の切り替えは存在を消滅させるリスクになります。実体化を維持するのにもコストかかっていますが、切り替えをただ行うよりはマシです」
彼女の発言で俺は1つの確信に至る。
暦のタイムリミットは確実に20年後より前になっていると──。
未来で会った暦は今の彼女と違い、息絶え絶えだった。それはきっと限界が訪れて、最後の力で実体化し、俺の前に現れたからだ。
そして、今の彼女すでに実体化し、何度か奇跡という力を使っているわけだ。直感的に20年も持たないと分かる。それは恐らく彼女も理解している。故に俺はあえて口には出さなかった。
「なるほどな、言うなればエネルギーの温存のためにずっと今の状態をキープしてるわけか。……その概念状態に戻りたいとは思わないのか?」
「はい。……でも、わたしはこの姿が気に入っています。たしかに、“概念状態”でいれば、湊さんがどこで何をしているのかすぐ分かります。でも、そうしたらこうして……一緒に紅茶を飲むこともできないですから」
暦はそう言って、そっとポケットから携帯電話を取り出し、俺の前で掲げて見せた。
「それに、これもありますし。もし寂しくなったら、いつでもお電話くださいね?」
ニヤッと、いたずらっぽく笑う彼女に、俺は苦笑しながら応じる。
「……考えとくよ」
その返事に、暦はわずかに唇を尖らせ、紅茶を一口すすった。優雅で柔らかな仕草だった。
そして、ふいに彼女は話題を切り替えた。
「実は……わたしも、ずっと聞きたかったことがあるんです」
「ん? なんだよ?」
彼女はティーカップで口元を隠すようにしてから、少しだけ視線を逸らした。頬がわずかに紅く染まっていた。
「湊さんって、20年後……恋人とか、奥さんはいなかったんですか?」
唐突な質問に、俺は一瞬言葉を失った。そしてすぐに、呆れたように溜息をついた。
「……いたと思うか?」
「……ごめんなさい。未来に帰りたいってマトモに言ってたことがないので、もしかしてとは思ってはいたんです」
「その通りだよ! 嫁どころか彼女すらいなかったよ! ああ!その哀れみの目をやめろっ!!」
「べ、別に哀れんでなんていませんよ? ほ、ほんとに」
明らかに目が泳いでいるくせに、そう言い張る彼女に、俺は怒りとも照れともつかぬ感情をこらえて、顔を逸らした。
暦はくすくすと笑いながら、言った。
「失礼しました、愚問でしたね。でもこれで気兼ねなくこの時間でお願いができますから」
「鬼かお前はっ!!」
叫びながら、俺は手元のケーキをフォークで切り取る。ほろりと崩れるスポンジは、甘くやさしく、少しだけ泣きたい気分の俺の心に沁み渡った。
*
「思ったより、長居しちまったな……」
誰に聞かせるでもなく、そんな独り言が口をついて出た。
薄暗い車内、揺れるバスの窓越しに流れる夜景を眺めながら、俺はようやく日常に帰ってきた気がした。暦の家――あの昭和の空気で凍結されたような、どこか現実味の薄い空間で過ごした数時間は、思いのほか心地よく、時間の感覚さえ曖昧になっていた。
だが当然、そんな都合のいい“時間停止”など現実には存在しない。
玄関を出たとき、街はすでに夜の帳に包まれていた。闇に浮かぶ街灯の光が、まるで「現実へようこそ」と告げるように冷たく煌めいていた。
バスを降り、街の中心部に戻ってきた俺は、ポケットから携帯を取り出し開くと、画面に届いた通知を確認する。「帰りが遅くなるなら連絡を」と、いつもと変わらぬ内容。それを見た瞬間、どこか胸の奥がチクリと痛んだ。少しだけ、悪いことをした気分になる。
時刻は20時を少し回った頃。条例が定める“青少年の門限”までは、まだ2時間の余裕がある。母さんの夕食のことを気にしなければ、別に急ぐ必要もない。
俺は背後から聞こえる笑い声。これから夜の街に繰り出す大人たちの足音を背にしながら、ゆっくりと歩き出した。
通学定期の範囲を考慮し、高校の最寄りの駅から電車に乗ろうと考えている。中心街にある駅は定期の圏外で、乗れば料金が発生してしまう。そんな小さな出費すら気にしなければならないのが、バイトもしていない今の俺の現実だった。
財布の中には、親から月に一度だけもらえる小遣い。それをやりくりしながら、たまの買い食いやジュース一本でさえ、慎重に計算して過ごしている。
油断すれば、俺の活動予算はあっという間に底をつき、財政破綻を迎えてしまう。
そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、不意に前方に見覚えのある後ろ姿が目に入った。
「おい、晴人」
「ん?……おっ! アマミナじゃん!」
俺の呼びかけに、晴人が振り返る。相変わらず能天気そうな笑顔を浮かべたまま、こちらに手を軽く振ってきた。
「帰りか?」
「まぁな」
簡単な会話を交わしながら、自然と俺たちは並んで歩き出す。俺に合わせて、晴人もゆっくりとした歩調に切り替えてくれた。
「どうせなら、生元まで定期あればなぁ」
「分かる」
二人同時にため息めいた言葉が漏れる。どうやら晴人も、俺と同じ理由で高校の最寄り駅まで歩くつもりらしい。
「アマミナは何してたんだ?」
賑やかなネオンが少しずつ背後に遠ざかり、騒がしかった通りも、徐々に静寂を取り戻していく。
「ああ、ネカフェに行ってたんだ」
俺が答えると、晴人がクスッと笑った。
「すげぇな。パソコンなんて、授業くらいでしか触らねーよ!」
「今のうちに慣れとけば、将来役に立つって」
「必要になったら覚えるさ」
あっけらかんとした調子でそう言って笑う晴人は、どこまでも自由だ。その気楽さに、少しだけ羨ましさを覚える。
「で?お前は何してたんだよ?」
今度は彼が俺に問いを返してきた。その目はどこか探るような光を宿している。
「遊んでた!」
あっさりと言い切った晴人の顔には、いたずらっ子のような笑みが浮かんでいる。
「だろうな! 女か? 女のか?」
茶化すように返すと、彼はにやにやしながら肩をすくめる。
「まあまあ、それはどっちでもいいだろ?」
俺はその言葉に眉をひそめつつも、これ以上は突っ込まないことにした。羨ましさと、ほんの少しの嫉妬。けれど高校生の恋愛に本気で突っかかっても仕方がない。
そんな時、彼がポケットから何かを取り出し、俺の前に差し出してきた。
「ほい、やるよ」
手のひらに乗せられたのは、ボウリングのピンの形をしたストラップ。懐かしさが、胸の奥をくすぐった。
「……こんなもの、あったな」
確か、大型アミューズメント施設の景品だったはずだ。
「今日もらったんだけどさ、俺これもう腐るほどあるから」
「ふーん、まあ、ありがたくもらっておこう」
そう言って受け取ったストラップを、俺はその場で自分の携帯に取り付けた。しばらくはこれを引っ張って携帯を取り出すことになるのだろう。けれど、こんな細い紐、いつまで持つのか……そんなことをぼんやり考えてしまう。
俺たちはその後、特に目的もないまま、取りとめのない話を繰り返しながら、駅を目指して歩き続けた。
周囲の喧騒はいつしか途絶え、すれ違う車の数も目に見えて減っていく。街灯の灯りだけが頼りの公園では、数人の外国人が大声で笑い合い、ラジオから流れる異国の旋律に耳を傾けている。どこか遠くの国の民謡だろうか。その光景はどこか異質だった。
やがて、視界の先に商店街のアーケードが見えてくる。天井には穴が開き、看板の明かりもまばらで、営業している店の方が少ない。かつては神影の台所とも呼ばれた場所。それは今ではシャッター通り――そんな言葉がぴたりと当てはまる景色が広がっていた。
看板に描かれた葉っぱのケミカルなロゴを掲げる正体不明な喫煙具を扱う店。意味不明な日本語が並ぶ怪しいエステサロンのピンクの看板……。どれも場違いで、異様な空気を放っていた。
「20年前からこうだもんな……」
ぽつりと、俺は呟いた。記憶に残る、かつての商店街の面影が頭をよぎる。
「ん? 俺は知らねーけど、20年前はこの辺もすごい発展してたんじゃなかったか? こうなったのは10年前からって、親が言ってたぞ?」
晴人の言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。
彼にとっては当たり前の“過去”に、俺が違和感を覚えるのは当然だ。……タイムリープする以前の記憶が、無意識のうちに口をついて出ていた。
「あ、ああ……そうだな」
曖昧に肯きながら、俺は目を逸らし、寂れた商店街から視線を外す。
その時、不意に暦の顔が脳裏をよぎった。
彼女の未来を守るには、どれほどの活気がこの街に戻ればいいのだろう。変わらない現実のままでは、彼女の終わりを変えることはできない。
俺は空を見上げた。
そこには、昼間にはなかった厚い雲が、静かに広がっていた。まるで俺の胸の内を映すかのように、どこまでも重たく、沈んだ空だった。