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海風Re:fine〜街を語る少女と時をかける記憶〜  作者: 甘照すう
2章:街を語る少女と日常
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5話:街を語る少女と登校

 平日の朝。

まだ眠気の残る身体を無理やり覚醒させながら、俺は学校へ向かうための準備を淡々と進めていた。

春とは名ばかりで、四月の朝の空気は肌に刺さるような冷たさを帯びている。そんな寒さが、着替えの手を遅らせる原因になっていた。

 カーテン越しに差し込む光は柔らかいが、空気の冷たさはまるで冬の名残を引きずっているかのようだった。手早く朝食を胃に収め、洗面所で歯を磨きながら、昨日の出来事がふと頭をよぎる。

——神影市を救ってほしい。

暦は確かにそう言った。そして、俺はそれに「協力する」と口にした。

だが。


(今の俺に……何ができる?)


 正直、わからない。

俺はただの高校生で、未来のように行政に関わっているわけでも、強い影響力を持った家に生まれたわけでもない。

どこにでもいるような学生にすぎない俺が、あの街——そして彼女の未来に、どれだけの役割を担えるのか。見えない不安が、脳裏に薄い霧のように広がっていく。

 そんなことをぼんやりと考えながら、俺はいつものように玄関を開けて、外へ足を踏み出した——その時だった。


「おはようございます」


 聞き慣れた声が、少しだけ上ずった調子で耳に届く。


「……え?」


 声の主を認識した瞬間、思わず間の抜けた声が漏れた。

 家の門を出てすぐの場所——そこに立っていたのは、制服姿の神戸暦だった。

朝の淡い光の中に佇むその姿はどこか儚く、それでいてどこか凛としていた。

風にそよぐ長い髪、胸元のリボンの揺れ、白いソックスに映える脚のライン。

朝一番に可憐な少女と目を合わせるのは、男としては確かに光栄なことだ。

だが、それよりもなによりも、思いがけないタイミングで現れた彼女に、俺は完全に意表を突かれていた。


「何してんだ?」


 そう声をかけると、彼女は小首を傾げ、いたずらを仕掛けた子供のような笑みを浮かべた。

桃色の唇がふわりと綻び、その隙間からは、まるで陶器のように整った白い歯が覗く。


「失敬な。湊さんのことを待っていたんですよ?」


 涼しげな声色でそう告げた彼女は、どこか得意気だった。

まるで“可愛いでしょう?”と自覚しているかのような、そんな挑発的な無垢さがあった。


「ふふっ。朝一番、ここで待ち伏せしていたら、湊さんはきっと驚くだろうな〜と思って……昨日の晩からずっとここで待ってました!」


「……う、嘘だろ……?」


 俺の背筋に寒気が走る。

え、マジで……? と一歩、無意識に後ずさってしまいそうになったその瞬間、彼女が間髪入れず口を開いた。


「嘘です♪」


「ですよねっー!安心しましたわ!」


 俺は無駄に威勢よく声を出し、彼女の前まで歩を進めた。そして、俺たちはそのまま登校のため歩き出した。 


「普通に登校するんだな」


 目指すは最寄りの栖吉(すみよし)という駅だ。この神影市を東西に貫く私鉄の路線であり、旧国鉄の線路の山側を並行に走る線路だ。

緩やかな神影市の特徴的な坂を登る足は、今日も地球の重力を感じている。


「さもありなんです。昨日言いましたよね、人間の姿を取る以上は移動もこうして徒歩です」


 なるほど、空を飛んだり瞬間移動したりはしないらしい。そう聞くとどこかホッとする自分がいる。

もっとも、それをされたところで今さら驚くことはないのだが。

 それにしても、こいつは一体どこに住んでるんだ?

まるで当然のように制服を着て、校門を潜り、教室に座っているが……その裏にある“暮らし”の風景が、どうにも想像できない。

 まぁ、突然学校にねじ込まれてきたような存在だ。必要とあらば、住居ぐらいすぐ用意する能力はあるのだろう。考えても仕方ない。俺が気にするようなことじゃない。


「むぅ〜……」


「ど、どうした?」


 俺が考えごとをしていると暦は白い頬を膨らませ、こちらを恨めしそうに睨んでいた。

柔らかそうな唇を尖らせた彼女は、そっぽを向いて言う。


「女の子と登校ですよ?普通ならもっと嬉しそーというか鼻の下を伸ばすとかそういう年頃の男子っぽい反応を期待してました」


 不満をぶつけてくるその声には、どこか拗ねたような響きがあった。

そして、唇を尖らせた彼女の横顔は、まるでアニメの一幕のように、絵になっている。


「悪いな。あいにく俺は精神年齢35歳の枯れたおっさんなんでな」


「うわぁ……すっごくつまらない答え……」


 心底ガッカリした様子で肩を落とす暦。

だが、それでもどこか楽しそうに見えるのは彼女の性質だろうか。

とはいえ、こっちだって女性と二人で登校して嬉しくないわけではない。

 ただ、それを顔に出すほど、俺は若くもなければ、経験が浅いわけでもない。

公務員時代に鍛えたポーカーフェイスは、意外とこんな場面で役に立つ。


「……そういう暦は何歳なんだよ?」


 何気ない反撃のつもりだった。

だが、その瞬間、彼女の足がピタリと止まり、表情が凍りつく。


「うるさいですねぇ……」


 そう口にする彼女の表情は恐ろしさがあった。目に生気が宿っていない。


「い、いやぁ……まぁ……そ、そうだよなっ!?女性に年齢を聞くのは野暮ってもんだなっ!!」


 慌てて話を収めようとしながら、俺は電車の時間を理由に彼女を促す。

暦はふいっと顔をそらすと、そのまま先ほどより早いペースで歩き出し、すぐに俺を追い抜いていった。


「わ、悪かったよ!ごめん!」


 その背中に向かって謝ると、彼女はちらりとだけ振り返り、鼻で笑うようにして言った。


「許します。あとで図書館か何かで見ておいてください」


「……はいはい、調べておきますよ」


そうWikipediaでな。


ん?Wikipedia?


 そういえば。

この時代——2005年の現在、俺の家にはまだインターネット回線が引かれていなかった。

ブロードバンドが普及し始めたとはいえ、まだ全家庭にネットがあるわけではない時代。

つまり、俺はいまだこの時代で“ネットの海”に触れていなかったのだ。

 スマホも無く、検索もできない。

情報が欲しければ、図書館か、あるいは——ネットカフェか。 


今度、行ってみるか……。


 そう決意すると同時に、先を歩く暦の後ろ姿を追って、俺は足を速めた。

小さな背中は、どこか楽しげに揺れていた。


……今度、あいつも誘ってみるかな。


 そんなことを考えながら、春の坂道を俺たちは歩いていった。


            *


 高校の最寄り駅に電車が滑り込むと、俺たちは車内から流れ出す人波に乗るようにしてホームへと降り立った。通勤・通学のピークを少し過ぎたとはいえ、駅構内にはまだ朝の喧騒が残っており、周囲にはビシッとスーツに身を包んだサラリーマンたちの姿が目立っていた。彼らの手には新聞や文庫本、あるいは通勤中に読み込んでいたであろう時刻表や資料の束。スマートフォンなどはまだ影も形もない時代、片手にPHSや折りたたみ式の携帯電話を握る人はごく一部だ。

一方、制服姿の中高生たちは少しばかり自由な雰囲気をまといながら、グループを作って改札を目指している。どこか懐かしいその光景の中を、俺と暦も並んで歩いた。

 改札を抜けると、背後ではさっき乗ってきた黒みがかった茶色の車体が特徴的な電車が、低く唸るようなモーター音を響かせながら再び走り出していった。金属の車輪がレールを噛む音と共に、ゆっくりと駅を離れていくその姿を見送りながら、俺たちは自然と学校へ向かう歩を進める。

 駅前のロータリーを越え、街路樹の並ぶ歩道に差しかかったところで、暦がぽつりと声を上げた。


「湊さんのその……ピッとするやつ、何なんですか?」


「ん? ああ、これか?」


 俺は立ち止まると、鞄の中に手を入れてICカード式の定期券を取り出してみせた。つややかなプラスチック製のカードには、薄く学校名と名前が印字されている。まだ磁気定期券が主流のこの時代ではやや珍しい、新しい技術だった。


「これはICカード。改札にタッチするだけで通れるやつだよ」


 俺の説明を聞いた暦は、目を丸くして感心したように頷く。そして、制服のポケットからそっと小さな紙切符を複数取り出して見せた。今朝の改札でも、彼女はそれを投入して通っていた。

 ICカード定期のの利便性をさらに簡単に説明してやると、暦は目を輝かせて声を上げた。


「ほほぅ〜……! 今の時代はそんなものがあるのですねぇ! 鉄道の切符といえば、駅員さんが慌ただしく“カチカチ”と鋏を入れていた光景を思い出してしまいました」


「……お前、それ一体いつの時代の話してんだよ」


 思わず苦笑が漏れる。今や鋏の音を聞く機会なんて、ほとんどない。自動改札機が当たり前になりつつある時代で、そんな光景はもはや昔話の中のようだ。

 神戸暦という存在にインストールされている記憶領域は、どうやら相当にレトロな情報で満たされているらしい。古びたカセットテープを再生しているような、どこか懐かしくて、不思議な感覚だった。


「てか、定期持ってねぇの?」


「はい、持っていません」


 あっかからんとした返答に俺はずっこけそうになった。俺の呆れた姿を認めた暦に笑いながら続けた。


「でも大丈夫です。知りましたから次からはそれを用意して電車に乗ります」


 景色に高校の校舎が見えてくる。


「街の変化って、春夏秋冬の季節よりも早いものですから。ちょっと目を閉じていたら、知らない土地に来てしまったような気分になるんです」


 暦がぽつりと呟いたその声は、風に乗って俺の耳に届いた。

その響きは、まるで長い眠りから覚めた誰かの独白のようで──妙に心に残った。

 また、年寄りくさいことを言いやがって──

そう思ったけれど、口には出さず、そっと飲み込んだ。そんな言葉をきっと暦の逆鱗の上でタップダンスを踊るようなものだろう。


           *


 校門を潜った俺は、そのまま迷いなく教室を目指して歩き出した。まだ始業には時間があるが、校内の空気はすでに生徒たちのざわめきで満ちている。靴音が廊下に反響し、油引きをしたフローリングは特有の芳香が鼻をつく。

 余談だが、これは大人になってから知ったことだ。

世の中の多くの学校というものは、どうやら「土足厳禁」というルールが一般的らしい。要するに、昇降口で外履きから上履きに履き替え、決められた内履き用の靴で教室へと上がる、というのが“普通”のスタイルなのだという。

だが、俺が通うこの神影市の、少なくとも市立の公立校ではその限りではない。土足のまま校舎に入り、そのまま教室で授業を受けることが当たり前だった。俺にとってはそれが常識であり、特別に意識することもなかったのだ。

 思い返せば、子どものころに見たドラマやアニメ、小説などで、昇降口にある下駄箱に「ラブレター」だの「殺人予告」だの、何かとドラマチックなイベントが仕込まれている描写が頻出していた。それらを見ていた当時の俺は、それをいかにも創作らしい舞台装置のひとつだと勝手に思い込んでいたり

 自分の“当たり前”が、実は全国的には少数派だった──。

そんな経験は誰にでも一度くらいはあると思うが、まさかこんな身近なことがその一つだとは、長らく気づかなかった。

 教室の前まで辿り着くと、引き戸を開けて中に足を踏み入れた。


「うっす、アマミナ」


 目に飛び込んできたのは、俺より先に登校していた晴人の、いつも通りの人懐っこい笑顔だった。太陽みたいな声で、軽快に挨拶してくる。


「おう」


 俺は短く返しつつ、淡々と自分の席へと向かった。鞄を机の脇にドサリと置き、椅子を引く音がガタンと鳴る。何気ない朝の一コマだが、それが日常というものだ。


「おはようございます。桂木さん」


 俺のすぐ後ろから教室に入ってきた暦も、軽く会釈しながら晴人に挨拶を投げかけた。穏やかな声音と丁寧な口調が、どこか品の良さを感じさせる。

 その瞬間、晴人の目がほんの少し細められる。口角を上げ、俺の方へと顔を寄せてきた。


「……親しくしてないんじゃなかったんですか〜?」


 耳元で囁かれるその声には、明らかに探りとからかいが混じっていた。


「さっきそこで会っただけだ」


 俺は咄嗟に、実にベタで怪しげな言い訳を口にする。だが他にもっともらしい言葉が浮かばなかったのだから仕方がない。そそくさと椅子に腰を下ろす。

 それでも晴人は、どこかニヤついた表情を浮かべながら、ぶつぶつと何かを呟いていた。きっと脳内では勝手な妄想でも展開しているに違いない。

その時──。


「あたし、見ちゃったんだよね〜」


 突如として、やや甲高く元気な声が教室内に響いた。軽やかで勢いのあるその声には、まるで「見逃してなるものか!」といった自信すら感じる。


「見たって……何をだよ? 幽霊か?」


 俺が振り返ると、そこには焦げ茶色のミディアムヘアを軽く揺らしながら立つ少女がいた。前髪には小さなヘアピンをつけ、瞳の色は髪と同系のやや薄め。暦ほど色素は淡くないが、彼女もまた肌が白く、整った顔立ちをしていた。

 彼女の名前は三宮沙羽(さんぐうさう)。このクラスを飾るメンバーの1人だ。

 その沙羽が、水色のブラウスの襟元を人差し指でちょんと直しながら、どこか得意げに微笑んだ。目尻にはいたずらっぽい光が宿っている。


「天戸君と神戸さんが一緒に“急電”から降りてくるのを、バッチリ見ちゃったの!」


 言い終えた瞬間、晴人の顔から笑顔が消える。

彼は、信じられないものを見たような真顔でこちらを見つめていた。

 ちなみに、“急電”とは俺たちが日々の登校に利用している私鉄の愛称だ。黒みがかった茶色の車両が特徴で、地元の人々にはその呼び名で親しまれている。

 その後──。

始業のチャイムが鳴るまでの十数分、俺は晴人と沙羽から執拗な尋問を受ける羽目になった。


           *


「まぁ、一応納得はしておいてあげる」


 昼休み、学食にて。

沙羽は杏仁豆腐のカップを手に持ち、プラスチックのスプーンで白く柔らかなそれを口に運びながら、片目をつぶって“仕方ないなあ”とでも言いたげに呟いた。やたらと上から目線なのはご愛敬だ。

俺たちは学食の四人掛けテーブルに集まり、それぞれ昼食をとっていた。メンバーは俺、晴人、暦、沙羽の四人だ。

 尋問を受けた俺は色々と説明したが、どれもロクに信用されず困り果てていた。

そんな俺を見かねたのか、暦がさりげなく助け舟を出してくれたのだ。

 曰く──。

『湊さんとは昔、住んでいたところが近くて、父方の家族同士が仲良かったので、昔から親しくしていたんです』

つまり、俺と暦は“幼馴染”ということになったらしい。

 だが、納得できないのはこいつらの態度だ。

俺がどれだけ言葉を尽くしてもまともに取り合わなかったくせに、暦のたった一言にはあっさりと頷いたではないか。


……これが、容姿という名の“説得力”の差か?

世の中は理不尽だ。


「でもね、神戸さんとは一度ちゃんとお話してみたかったんだ〜!」


 沙羽が明るく声を弾ませた。言葉には裏がなく、まっすぐな好奇心が込められている。


「ありがとうございます。わたしも、もっとお友達が欲しいと思っていたので……この機会は嬉しいです」


 暦もまた、にこやかに、そして丁寧に答える。その声はどこまでも優しく、まるで空に浮かぶ雲のように軽やかだった。

 こうして、沙羽の興味の矛先は俺と暦の関係性というよりも、神戸暦という存在そのものへと移っていった。


「神戸さんのそれって……地毛なの?」


 唐突に放たれた沙羽の質問は、けして突飛なものではなかった。

むしろ当然といえば当然だろう。

入学して間もない教室の中で、ひときわ目を引く存在──金糸のように輝く髪を持つ少女が、当たり前のように制服を着て授業を受けているのだから。

 年頃の女子として、その髪色がどうしても気になってしまうのも無理はない。

オシャレに敏感になる年代特有の好奇心が、沙羽の背中を押したのだろう。


「流石に、地毛ってことはないだろ?」


 その問いに、隣の晴人が口を挟む。

さも常識的な判断であるかのように言う彼の表情に、沙羽は明らかに不満げな顔を見せる。

唇をへの字に曲げ、目元にはじとりとした疑いの色が浮かんでいた。


「いや、生え際から全部、金色なんだよ?どう考えても地毛じゃん。それに東奏高校うちでも流石にカラーは禁止なんだから」


 もっともな反論だった。

その理屈を聞いた暦は、ふっと小さく笑いを漏らす。

その声音は柔らかく、どこか余裕を含んでいた。


「ご明察です。これは地毛なんです。生まれつきこの髪色で……わたし、ハーフなので」


 さらりと告げられたその一言に、沙羽の表情がパッと明るくなる。

目を輝かせ、手を打たんばかりの勢いで叫んだ。


「やっぱりね! どうりであんなに綺麗な色してると思った~っ!」


 思わず納得の声を漏らす彼女のリアクションを見て、俺は内心で小さく頷いた。

暦の説明は、嘘ではない──少なくとも、完全な虚偽とは言えないはずだ。

 神影市は、かつて港街として栄えた歴史を持っている。開国の時代には西洋文化の流入地点となり、当時の建築様式を色濃く残したハイカラな街並みは、今も中心街に点在している。現に、いくつかの洋館は文化財として保存されているほどだ。

 そうした土地の記憶が結晶化した存在である彼女が、「ハーフ」という設定をまとうのは、むしろ自然なことかもしれない。


「入学式のとき、びっくりしたのよ!」


「あ、あははっ……」


 暦は乾いた笑い声となんとも言えない表情だった。

恐らく俺に自分の存在を誇示するために分かりやすい方法をとったのだろう。後先は考えてはいないはずだ。


「だよな。結構噂になっていたんだぜ?すげー子がいるって」


 晴人も暦の方にちらりと視線を投げかける。

その言い草から察するに、どうやら彼の耳にも相当な数の評判が届いていたらしい。


「そこまで噂に?」


 俺は2人の言葉を聞き、口を挟む。

2人の反応からある程度は予想することは出来たが、俺はその噂話の類の詳しい事情は知らなかった。

俺自身が昨日まで暦を避けていた節があったため、そのような話題に参加しなかったせいだろう。


「そりゃな、初めはすげー不良がいるから、めっちゃ可愛い子がいるとかな!」


「同じクラスだったとき、驚きだったわ!」


 似たような言葉を並べる晴人と沙羽。何もおかしなことはなく、当然の反応だろう。

暦は随分と話題の中心だったようだ。


「驚かせてしまって……ごめんなさい」


 暦はほんの少し眉を下げ、気まずそうに、それでも優しげな表情を浮かべる。


「私も……その、三宮さんとお友達になれたら嬉しいです。だから、よかったら仲良くしてください」


 それに対して、沙羽は目を丸くしたあと、満面の笑みを浮かべた。


「何言ってんのよ、神戸さんっ! 一緒のテーブル囲んで、ご飯食べて、こんな風に過ごしてたら、それはもう立派な“友達”って言うのよっ!」


 沙羽の友達の定義は随分と広い窓口をしている。

彼女のその開かれた心でいけば、富士山の山頂で友達を100人量産し、その場でおにぎりを分け合えてしまえそうだ。


「でもよかったわ!神戸さんって、近寄り難いねぇ〜って皆言ってたからさ。こうしてお話してみると全然そんなことなかった!」


 まぁ、暦が他の生徒と会話しているところなんぞ、ほぼ記憶にない。

そんなイメージを持たれていたのか。

 すると、その様子を眺めていた晴人が、唐突に言い出した。


「んじゃ、俺たちも友達だよな?」


「……え、えぇ〜……?」


「んだよ!? 三宮っ! その反応おかしくないか!?」


 肩を落としながら、涙目で訴えるような目を向けてくる晴人に、俺は思わず吹き出しそうになった。仕方ない、少し加勢してやるか。


「ソウダ!ソウダ!」


「アマミナっ! 棒読みすぎだろっ!?」


 やや自虐気味な晴人のツッコミに場が和む。沙羽も苦笑を漏らしながら、スカートのポケットから携帯電話を取り出した。


「ふふっ、冗談よ。桂木くんも、天戸くんも、ほら携帯出して。連絡先、交換しときましょ?」


 沙羽の気遣いに、晴人もすぐに携帯を取り出す。懐かしい折りたたみ式の携帯同士を近づけて、赤外線の通信準備に入った。

 実に懐かしい光景だった。スマホが普及してからというもの、QRコードでの交換が当たり前になっていた俺にとって、この“赤外線”という文化は、すでに忘れかけていた記憶のひとつだ。手紙のようなアイコンが送信中と表示され、画面の中で小さく踊る。

 テストメールもすぐに届く。晴人からはぶっきらぼうに『オッス』と一言だけ。対して、沙羽からのメールはやたらと容量が重かった。ようやく開いた画面に表示されたのは、ポップなフォントで飾られた『よろしく〜!』の文字だった。


「デコメかよ……」


「えへへ、可愛いでしょ〜?」


「ほんと女子はこれ好きだよなぁ」


 晴人が苦笑交じりにそう言って、次に視線を暦へと向けた。


「ほい、神戸も!」


 携帯を差し出された暦は、きょとんとした顔を浮かべ、視線を俺へと移した。


「これ……なんですか?」


 戸惑いと困惑。その表情は、まるで初めて見る道具に出くわしたようだった。


「あれ? 暦ちゃん、もしかして携帯持ってないの?」


 沙羽が少し気まずそうに問いかける。だが、暦は静かに俺の手元へと視線を落とし、伸ばした指先で携帯を差し出すように促してきた。


「いえ、少しだけ見せてください」


 素直に差し出すと、暦は折りたたみ式の携帯をまじまじと眺め、開いては閉じ、また開いてみせた。そしてしばらくし、無言でそれを俺に返す。

 すると、今度は自身のポケットに手を入れ、さらりと言った。


「それなら……持っています」


 ポケットから現れた携帯電話を見て、俺は思わず息を呑んだ。


「なんだ〜! 持ってるじゃ〜ん!」


 沙羽は気にせず赤外線通信の準備に入っている。だが、俺は完全に違和感の渦中にいた。彼女の持つ機種は、俺のそれと完全に同じモデルだった。

 いや、待て。さっきまでの彼女の口ぶりと、今のこの行動。どう考えても、辻褄が合わない。

 それでも、沙羽と晴人は気にする様子もなく、にこやかにアドレス交換を進めている。そんな様子を見て、暦が俺に微笑みかけてきた。


「湊さんも、どうぞ」


「お、おう……」


 促されるままにアドレスを交換する。画面に表示された暦の情報を確認して、俺は目を細めた。

……キャリアまで、俺と同じかよ。

これはもう、やってるな。

 俺は内心でそう呟きながら、何も言えずに携帯をしまった。

 そんな小さな波紋の中、昼食会は穏やかに、そして確かに、終わりの時間を迎えた。



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