4話:少女からの頼み
入学式から数日が経った。
特に何か目立った事件が起きるわけでもなく、日々は淡々と進んでいく。
俺自身も新しい環境に慣れ始め、気付けば、かつてのように普通に学校へ通う毎日が当たり前になっていた。
新入生向けの導入期間も、最初の数日で一通り終わった。
学校内の施設案内に始まり、校則や生活指導の説明、避難訓練や今後の行事予定についてのオリエンテーションなど──どれも特別なものではなく、高校生活のスタートには付き物の、ありふれた光景だった。
とはいえ、それも長くは続かない。
あっという間に、本格的な授業が始まった。
この高校では、1限から4限までを午前中に、5限と6限を午後に行うというスタイルだった。
朝からお昼までで4時間目までの授業を受け、昼休みを挟んだ後、午後に2時間授業をこなす。
すべて終わるのはだいたい16時頃。
まだ部活動も本格始動していないこの時期、授業が終わればそのまま帰宅することがほとんどだった。
教科ごとに教室移動することもほとんどなく、自分の席に座ったまま、国語、数学、英語、理科、社会……と順番に授業が進んでいく。
時折、隣の席の生徒と小声で話す程度の緩い空気が流れ、教室にはのんびりとした時間が流れていた。
そんな中、俺はというと、内心でしみじみとした思いを噛みしめていた。
未来で十年以上、公務員として働き続けた身には、今のこの環境がまるで夢のように快適に思えた。
50分間、ただ座って先生の話を聞いていればいい。
分からないところは、誰かに聞けばいい。
責任を背負うことも、誰かに詰められることもない。
ここは、守られた世界だった。
(……学校って、こんなに楽だったっけ)
心の中でそう独りごちながら、俺はぼんやりと窓の外を眺めた。
春の光がやわらかく教室に差し込み、まだ幼さの残るクラスメイトたちの横顔を淡く照らしていた。
*
「おい、天戸」
5時間目も中盤に差しかかり、春の暖かな陽気がじわじわと俺の意識を刈り取ろうとしていたその時、不意に背後から声をかけられた。
ぼんやりとした頭で振り返ると、すぐ後ろの席の男子生徒が、手に持ったシャーペンで俺の肩を軽く小突いていた。
「……なんだよ?」
眠気を引きずったまま訝しげに問い返すと、男子生徒は無言のまま黒板の方を顎でしゃくった。
その視線を追って黒板の方を見ると──。
担任の倉敷先生が、腕を組みながらこちらをじっと見つめていた。
しかも、明らかに怒りを孕んだ視線で、である。
「天戸君。このクラシキーの授業で、しかも一番前の席でおやすみモードに入るとは、なんたることですかっ!?」
声を大きく張り上げながら、彼女は自分を”クラシキー”と呼ぶ奇妙な一人称を使って言い放った。
「あっ、すんません……」
俺は反射的に、抜け落ちたような声で謝った。
すると、倉敷先生は満足したのか、すぐに黒板へ向き直り、何事もなかったかのように授業を再開した。
この倉敷洋子はとてつもない変わり者で、一人称がクラシキーなのだ。
初めて”クラシキー”などという自称を聞いたときは、誰もが「こいつ大丈夫か?」と疑ったに違いない。
だが二度目に聞いてもやっぱり変人だった。
きっと三度目でも、四度目でも同じだろう。
それにしても、午後の授業というのはどうしてこんなにも眠いのだろうか。
昼食後の満腹感と、春の陽気に包まれた教室の空気が、抗い難い眠気を誘う。
まだ受動的に話を聞くだけの授業が続くこの時期、脳内の活動意欲が落ちてしまうのも仕方ない気がする。
*
やがて放課後を告げるチャイムが鳴り、1日の授業がようやく終わりを迎えた。
今日からは”体験入部期間”と呼ばれる時間が始まるらしく、これから正式に部活動を選ぶための参考として、いろいろな部を自由に見学できるらしい。
とはいえ、俺には最初からそのつもりはなかった。
この三年間、部活動に参加する気などサラサラ無い。
俺はさっさと帰宅するつもりで、鞄に教科書をしまい、帰り支度を進めていた。
「うっす!アマミナ!」
無遠慮なほど明るい声とともに、ひとりの男子生徒が俺に声をかけてきた。
声の主は、桂木晴人。
少しばかり生意気そうな顔立ちは恐らく性格から来るものだろう。短めの髪を雑誌なんかで紹介されている最近流行りの髪型にスタイリングしており、清潔感が感じられる。制服のブレザーも早速着崩しており、いかにも高校生といった雰囲気を感じる。
クラスメイトであり、現在の席順では俺の右隣、同じく最前列という最高に最悪なポジションを共有する同志でもある。
彼とは、かつての高校生活でも友人となった人物だった。卒業後には自然と疎遠になってしまったが、こうしてまた、同じように声をかけてくるあたり、やはり彼の性格は変わっていないらしい。
「……そのアマミナって呼び方、やめない?」
眉をひそめてそう言うと、晴人は全く気にした様子もなく、むしろ楽しそうに笑った。
「えー? いいじゃん、あだ名! 呼びやすいし!」
「いや、なんか……恥ずかしいっていうか、落ち着かないんだけど」
「いいっていいって! アマミナ、定着させようぜ!」
屈託のない笑顔で、満面の歯を見せながら晴人は言い切った。その明るさに、俺はなんとなく押し切られる形で、それ以上反論する気力を失ってしまった。
(……まあ、こいつ相手に真面目に否定しても無駄か)
そんなふうに心の中で小さくため息をつきつつ、俺は晴人の無邪気な笑顔に微笑み返してしまったのだった。
「天戸のあだ名、アマミナって、いいと思うよな?」
俺が項垂れながら小さくため息をついていると、隣の晴人は、後ろの席で帰り支度を進めていた生徒に声をかけた。どうやらこのあだ名を俺に定着させたいらしい。今回は阻止してやるがな。
「はい、いいと思います」
間髪入れずに返事をしたのは、他でもない神戸暦だった。名前順の席ということで、ある程度は予想してと思うが、やはり晴人のすぐ後ろの席に座っていたのは暦だったのだ。
「てかさ、神戸ってどこの中学出身なの?」
晴人は陽気な調子のまま、自然な流れで話題を変える。それに対して暦は、ほんの一瞬だけ戸惑うようにまばたきを繰り返し、ややぎこちない動きで口を開いた。
「け、県外の中学校なので……た、多分、知らないと思います……」
声がわずかに震えていた。
そのうえ、視線があっちこっち泳いでいて落ち着かない。
わかりやすい嘘だ。
──青いな、と思う。いや、青すぎる。右往左往しすぎだ。
晴人は特に気に留める様子もなく、さらにいくつかの質問を重ねる。
「どこに住んでるの?」とか、「趣味は?」とか、他愛ないものばかりだが、暦はにこにこした笑顔を崩さないまま、どこか要領を得ない返事を続けた。
その様子はまるで、はじめてのおつかいに送り出された子どもが、道行く人に助けを求めるような、そんな初々しさと必死さに満ちていた。
そして──。
彼女の大きな青い瞳が、ちらちらとこちらを向いてくる。
まるで「たすけて……」とでも言いたげに、潤んだ目で俺にアイコンタクトを送ってくるのだ。
暦の頼みに答える気はないが、別に嫌っているわけでないし、可愛い女の子からのヘルプコールを無視するほど俺も子供でない。
「晴人、神戸が困ってるだろ」
俺は軽く肩をすくめながら、助け船を出した。
晴人は「ん?」と不思議そうに俺を見たが、すぐにそれ以上の追及はしなかった。
そのときだった。
隣で小さく縮こまっていた暦が、そっと手を合わせるような仕草をして、さらに小さな声で続けた。
「……暦でいいです」
一瞬、間抜けなほど間が空く。
今、それを言うか!?
心の中で思わずツッコミを入れた。
この子、ちょっと状況判断力が弱いんじゃないか?
ちらりと暦を見ると、本人は恥ずかしそうに頬を染
めつつ、ちらちらと俺の様子をうかがっている。
あざといわけでもないのに、自然と守ってあげたくなるような、そんな空気を纏っていた。
本当にこいつが、俺をタイムリープさせるほどの異能を持ってるのかだろうか。
改めて疑問に思う。
しかし、そんな考えを吹き飛ばすくらい、今の暦は無防備に可愛かった。
なんだかんだで俺は、少しだけ口元に笑みを浮かべてしまったのだった。
「なんだよ、アマミナ。てめぇ、神戸といつの間に仲良くなってたんだよ?」
教室の片隅で鞄を手にしたまま、晴人が不満げな声を投げてくる。
声色にじわりとした驚きと疑いが混じっていた。目は細められ、完全に俺を睨んでいる。
「……別になってないけど?」
俺は肩をすくめ、つっけんどんに返す。これ以上話を広げる気はなかった。だが、そんな俺の意に反して、隣から柔らかく、しかしはっきりとした声が飛んできた。
「はい。湊さんとは……親しくさせてもらってます」
それを聞いた瞬間、晴人はビクリと大きく体を揺らした。
「なっ!?な、なななな……なんだってぇぇ!?」
声は完全に裏返り、教室中に響き渡る勢いだ。
晴人は手にしていた教科書を落としかけ、それを慌てて拾い上げながら俺と暦を交互に見つめる。
「アマミナ、お前……そんなに手が早かったのか!?入学してからまだ数日しか経ってねぇだろ!?
それなのに!なのにッ!俺、2人が会話してるとこ一度も見たことないぞ!?いつの間にそんな……!ふ、ふざけんなよぉぉ!!」
彼のテンションは完全にスイッチが入ったようで、まるでドラマの失恋シーンでも演じているかのような大げささだ。
まあ、実際は演技でもなんでもなく、素で取り乱してるのが晴人らしいところだが。
とてつもなく面倒なことになってきた気がする。
普通なら、暦のような誰が見ても“美少女”と呼べる女の子からあんなことを言われたら、男としては光栄この上ないはずだ。
クラスメイトたちから多少噂されるとしても、鼻高々にしてもいいくらいの状況だろう。
だが──俺は違う。
この女、神戸暦は、ただの女子高生なんかじゃない。
俺が認知しないところで俺のことを知っており、タイムリープの引き起こした存在だ。
関わらないと心に決めた以上、余計な誤解は避けたい。
「ん?」
そのとき晴人がワタワタと騒いでいる隙を縫うように、暦が小さく折りたたまれたメモを俺の机へ滑り込ませてきた。
まるで魔法のようなスムーズな動きに、一瞬何が起きたのか理解が追いつかなかった。
こっそりとメモを開いてみると、そこには丸っこく柔らかい文字でこう書かれていた。
『落ち着いたら屋上に来てください。待ってます』
可愛い文字と丁寧な文面に一瞬、気が緩みそうになるが、やられた感が半端ない。
俺の意思とは無関係に、完全に暦のペースに巻き込まれている。
わざとだ。これは絶対に、確信犯だ。
まるで何気ない仕草で、こっそりと“次の一手”を打ってきたその様は、小悪魔と呼ぶにふさわしい。
このまま放っておいても、もっと面倒な展開が待ち受けていそうな予感がしてならない。
*
状況を整理しよう。
俺は、放課後の静まり返った校舎を背に、屋上へと続く階段をゆっくりと登っていく。
すでに授業はすべて終わり、生徒たちの大半は下校し始めている時間帯だ。廊下には人気がなく、窓から差し込む夕焼けの光が、長い影を作っている。
そんな中、俺の足音だけが冷たいコンクリートに反響し、妙に耳に残った。
一歩、また一歩と階段を踏みしめながら、思考を深める。神戸暦が言っていたことが、どうしても気になっていた。
暦の発言では俺を過去にタイムリープさせたのは、あくまで未来の暦と事だ。
つまり今、この瞬間に存在する暦も恐らく『出来る』のだが、そのような行いはしていない。
それなのに俺がタイムリープしてきた事を認識している。
「時空を超えて、未来の存在と何かしらの通信を行っていてもおかしくないな」
ただこれなら発言の一部に矛盾が生じる気がする。
暦は『湊さんがこの時代に来たということは──未来の私は、もうこの世界にはいない、消滅したということです』と言った。
この言い回しはどこか他人事というか……。
推測が入っている気がしてならない。
この仮説が正しければ、暦は未来についての情報を知らない事になる。
なら、俺の名前を知っているというのは──。
もし、未来の暦と今の暦とで記憶の共有がなされていないとしたら──
彼女は、未来で何が起こったのかは知らない。だが、俺の存在を知っている。
「俺は暦に会ったことがあるのか……?」
思えばそうだ。
暦は夜の公園で会った時、俺に『久しぶりです』と声をかけてきた。
その時はタイムリープ前に泣き付かれた時のことを指した言葉かと思ったが、未来の暦と過去の暦が記憶や情報を共有していない場合は、過去に何かしら形で接触いる可能性が高い。
関わらないようにしとうと思っていたが、向こうからアクションを起こしてくるならば、一度はっきりさせた方がいいかもしれない。
俺は力強く屋上へ通じる扉のノブを掴み、それを回した。少し錆びついた扉は不快な摩擦音を鳴らし、動いた。
錆びた匂いがわずかに鼻をつく。
屋上に出ると暖かく草の匂いが騎乗した風が頬を撫でた。
「待っていました」
夕焼けに照らされた屋上の中央に、彼女は立っていた。
神戸暦──長い髪を風に揺らしながら、校舎の向こうにそびえる六麓山を静かに見つめていた。
光の加減で彼女の髪は金色にも銀色にも見え、その姿はまるで映画のワンシーンのようだった。
身につけているのは、真新しい紺色のブレザーに学年カラーの青いリボン、そして薄桃色のブラウス。
この高校ではブラウスの色に派手なければ白色を着用しなくともよい。彼女のコーディネートは不思議と上品で目を引く。
風に揺れるチェック柄のプリーツスカート。
その先に覗く細い脚も、どこか儚げで、彼女の雰囲気を強調していた。
その姿はムカつくほど可愛いかった。
俺が何も言わずに立ち尽くしていると、暦はゆっくりと振り向き、微笑んだ。
「来てくれて、嬉しいです」
その笑顔は、どこか安心したようで、やはり少し寂しげでもあった。
彼女の立ち姿を見ていると、胸の奥がほんの少しだけ疼いた。
「お前……やっぱり、わざとだろ。あんなメモ」
俺がそう言うと、暦は肩をすくめ、口元に小さな笑みを浮かべた。
「だって、湊さん。放っておいたら絶対に来てくれないと思ったんです。……ちょっとだけ、強引にでもと思って」
「……まぁ、正直言えば避けてたしな」
俺の言葉に、暦は肩を落とし、目に見えてショックを受けたようだった。
「わかってはいましたが……あらためて言われると、来るものがありますね……」
静かな時間が流れる。
まだ西の空は橙色に染まり、校舎の影が長く伸びている。
このまま他愛もない会話を続ければ、日が沈むまで屋上にいることになりかねない。
だが、今日はそれではいけない。はっきり聞かねばならない。
俺の問いに彼女は表情を変えた。さっきまでの可愛らしい仕草様子とは違い、凛とした表情だ。
「この神影市、この街を救って頂きたいのです」
「救うって何なんだ?」
「この街は今まさに衰退の道を歩み始めています。これはわたしもずっと前から気付いています。それを少なくとも現状を維持する状態にしたいと思っています」
俺は未来の神影市の様子を想起した。
涙を浮かべ、謝罪の言葉を口にした無力な少女の姿だった。
「未来の私は湊さんに何と言いましたか?」
「……知らないのか?」
「はい、申し訳ありません。わたしは未来のわたしと湊さんのことを知りません」
そうだとは思っていたが、本当だとは……。
「この前は悪かった」
俺の言葉を聞いた暦は、ポカンとしたように目を丸くしていた。
まるで、何を言われたのか一瞬理解できなかったかのような表情だ。
その反応に、今度は俺が戸惑う番だった。
「……怒ってないのか?」
問いかけながら、心の中に微かな罪悪感がじわりと広がるのを感じる。
これまでの俺の態度を振り返れば、彼女を一方的に突き放してきたのは明白だ。
暦がどれだけの覚悟でこの場を設けたのかを思えば、胸が少しだけ痛んだ。
彼女は俺に協力を求めてきた。その願いを、俺はほとんど聞く耳も持たず拒んだ。
学校で出くわしても、まるで存在しないかのように接し、心の距離を置き続けてきた。
今日こうして話す機会を強引に作ったのは暦の方だが、俺にだって後ろめたい気持ちはある。
拒むにしても、せめて一度くらい真剣に話を聞いてやるべきだったんじゃないか──そんな思いが心の奥底に渦巻いていた。
実際、暦の話は幾度となく脳裏をよぎったことがある。
否定しながらも、考えずにはいられなかった。
何より、俺は別に暦が嫌いなわけじゃない。むしろ──。
そんな俺の内心を読んだように、彼女はふっと微笑んだ。
「さもありなんです。……わたしも、湊さんがすぐに協力してくれるなんて、微塵も考えていませんでした」
淡々としたその言葉には、どこか茶目っ気のような、優しさが滲んでいた。
気負いすぎることもなく、責めるでもなく、ただ受け入れるように。そんな彼女の姿に、少しだけ気持ちがほぐれていくのを感じた。
暦はゆっくりと屋上のフェンス際に置かれたベンチへと歩み寄る。校舎にしてはやけに立派で、過剰なほど高く設置されたフェンスが風を遮るようにそびえている。
彼女はそのベンチに腰を下ろすと、隣を軽く叩いて俺に座るよう促した。
俺は少し迷ったあと、彼女の示すままにその隣に腰を下ろす。
陽が傾き始めた夕暮れ時、日中の温もりをまだ残しているベンチの表面は心地よく、吹き抜ける春の風も穏やかだった。
思った以上に、落ち着ける場所だった。
「先日もお話しましたが、湊さんを過去に送ったのは、未来のわたしです」
柔らかい口調で、暦が再び口を開いた。
その声は、春風の流れに乗って自然と耳に届く。
ふんわりと香ってくる彼女の匂いは、どこか落ち着きを与える安心する香りがした。
まるで、淹れたての紅茶の彷彿とさせる優しい花の様な香りだった。
「湊さんがこの時代にやってきたのは、3月30日の朝の時点で気付きました」
俺の方へ顔を向け、暦は続けた。
「わたしは、湊さんの魂の根幹と接続しています。だから、現在の湊さんに“異常”が組み込まれた瞬間、すぐに察知できたんです。まるで、2つの量子がもつれ合って、スピン運動を始めたような……そんな感覚で」
その言い回しには一瞬戸惑ったが、要は──俺がタイムリープした“瞬間”を、彼女は感知したということだ。
“量子もつれ”などという比喩を使ってくるあたり、本当に光速より速く察知したと言っているようなものだ。
だが、それよりも気になる言葉があった。
「……魂の根幹?」
思わず問い返すと、暦は少しだけ肩をすくめて、表情を和らげた。
「はい。訳あって、私はずっと前から湊さんの魂と、自分自身という存在を“接続”させています」
「……了承とか取ったのか?」
「……いえ」
その答えは、あまりにも歯切れが悪かった。
視線を泳がせ、どこかバツの悪そうな顔をして、はっきりと俺の目を見ることを避けた。
「……お前、俺に黙ってそんな訳わかんないことをしてたのか」
口調に少しだけ棘が混じったのが、自分でも分かった。
だが彼女は、それに怯むこともせず、静かに言葉を紡いだ。
「神影市は、少しずつ……確実に、力を失いつつあります。わたしはこの街を救うために──湊さんのお力を借りると決めました」
「勝手に?」
「……はい。勝手に……です」
まるで罪を認めるように、彼女はそっと目を伏せながらそう答えた。
その言葉に、俺はひとつの結論に辿り着く。
なるほど。
彼女は、遥か昔から俺を“この街の切り札”として見込んでいた。それも、ずっとずっと前から。
少し沈黙が落ちたあと、俺は率直に問いかけた。
「……暦、お前は一体何者なんだ?」
その問いに、暦はゆっくりと顔を上げ、茜色に染まった空を見上げた。
夕日が雲の隙間から溶け出すように射し、彼女の髪を黄金色に照らす。
少し間を置いてから、彼女は唇を開いた。
「わたしは……この神影市そのものなんです」
唐突にも思えるその答えに、俺はまばたきを一つ落とした。
「神影市という街。そこに暮らす人々、動物、文化、歴史──その全てが何億、何兆、何京という情報となって折り重なり、星の意思の基に誕生した存在。
有り体に言うならば、“この街という概念”が、人の姿を取っている。それが……わたしです」
驚くかと思った。
けれど、正直なところ──もう驚きはなかった。
タイムリープだの、高校に突如として“存在”をねじ込んできただの、これまでの言動の時点で彼女が常識の外側にいることは明らかだった。
ならば、街の化身──という設定にも、納得はできる。
「……人間じゃないってことか?」
俺の問いに、暦は緩やかに首を振った。
「いいえ。今は……“人”だと思っています。この姿を取っている間は、わたしは人間として生きているつもりです。実際、お腹も減りますし、呼吸もします。触れることも、会話することも、できます」
暦は少しだけ言い淀んでから、顔を赤らめながら小声で呟いた。
「それに……その……排泄もありますし……」
最後の部分はほとんど聞き取れないほどの声量だったが、それだけは人間としての“実感”に強くこだわっている証にも思えた。
彼女は少し息を整えてから、はっきりと告げた。
「わたしは──湊さんと対等でありたいんです」
夕焼けに照らされながら、そう言った彼女の言葉は、どこまでも真摯で、どこか切なげだった。
沈黙がふたりの間に落ちた。
言葉は交わさずとも、春の風だけが遠慮なく吹き抜けていく。
校舎を見下ろす六麓山の木々は、風に撫でられたようにざわめき、その葉がさらさらと踊っていた。
世界は音を失い、まるで時間が止まったような錯覚を覚える。
この静けさを最初に破ったのは、隣に座る暦だった。
「……湊さん、怒っていますか?」
彼女は、消え入りそうな声でそう尋ねた。
俯いたままのその顔は影に隠れて表情までは読み取れない。
けれど、彼女の震える声の端々には、不安と戸惑いが確かに宿っていた。
別に怒ってなどはいない。言葉を口にしなかったのはどう答えていいものか分からなかったからだ。
何の了承もなくそのなんだ?魂の根幹とやらを接続されているという事実は驚きを隠せないが、別に体調が悪いや不幸体質になったなどといった不都合は起きてない。ならば、別に怒る理由にはならない。
「対等でありたいと言いながら……結局、お願いばかりしてしまっていること、自覚しています」
言葉を選ぶように、慎重に、でも真っ直ぐに。
暦は自分の膝に視線を落とし、スカートの端から覗く白くて細い太ももにそっと指を這わせながら話を続けた。
「湊さんが協力してくださらなくても、わたしは……きっと、大丈夫なんです。街の栄枯盛衰というのは、自然の摂理ですから。本来、それを救うのはわたし自身の責任です。……未来のわたしも、きっと誰の助けもなくその役目を果たしていたはずですから」
声にはどこか強がりのような響きがあった。
彼女は、自分に言い聞かせるようにそう言った。
下界のグラウンドからは、運動部が新入生に向けて簡単な練習を見せる声が聞こえてくる。
どこか気恥ずかしそうな歓声が、春の風に紛れて屋上まで届いてきた。
校舎のどこかからは、吹奏楽部が奏でる不安定な音色聞き覚えのあるメロディーの断片が聞こえている。
けれど、この屋上だけは別世界のように静かで、外の喧騒から隔てられているような、不思議な空間に思えた。
「……泣いてたんだ」
ぽつりと、俺は呟いた。
「……え?」
暦が小さく聞き返す。
「泣いてたんだよ、お前は」
俺は彼女を見ずに、ただ夕陽に照らされたフェンスの影をじっと見つめたまま、そう告げた。
「20年後、俺は神影市の地域振興課で働く公務員だった」
その言葉に、暦がはっとしたようにこちらを見た。
「ただこれといって神影のために何か出来ていたわけではない。ただ目の前に山積みにされた書類に向き合い、日々を忙殺されていた」
「……何だよ、笑うなよ」
少し照れながら尋ねると、暦は小さな手で口元を隠し、くすくすと笑いをこらえながら答えた。
「ごめんなさい。でも……お忙しそうにしている湊さんの姿が、なんだか目に浮かんじゃって」
その様子がなんとも可愛らしくて、俺は思わず見惚れてしまった。
儚げな表情も、たしかに彼女にはよく似合う。けれど、やっぱり笑っている顔の方が、ずっと──愛おしい。
でも、そんな感情を口に出すことなんてできなくて、俺はただ黙ってその笑顔を胸にしまい込んだ。
「そんな時に俺はお前に出会った。その時だよ、泣いていたんだ。もう時間がないってさ……そのお前と俺の時間がって」
その言葉に、暦の大きなコバルトブルーの瞳が大きく開かれた。澄み渡るようなその目に、冴えない俺の顔がしっかりと映っていた。
「やっぱり……」
彼女は静かに呟いた。
「なあ、暦。“時間がない”ってどういう意味なんだ?」
俺の問いに、暦は一度目を伏せ、深く息を吸い込んでから、はっきりと答えた。
「時間がないというのは、神影市としてのわたしの存在が消えてしまうことです。その時が来れば、わたしという存在は消滅してしまう。つまり死んでしまうのです」
あっさりそんなことをいう彼女に俺は驚いてしまう。
やはり人間とはどこか違う精神性をしている気がした。
「……湊さんが“今”に戻ってきた時点で、それは察していました。だって……この計画は、かつてのわたしが立てた復活の計画ですから」
語る口調はどこか淡々としていて、まるで感情を封じ込めているようだった。
「未来のわたしは、きっと……本当に頑張ったんだと思います。でも、どうしてもどうにもならなかった。
だから──最後の、最後の賭けに出た。湊さんを過去に飛ばしたのです」
彼女はそう言って、ぐっと小さな拳を握るような仕草を見せた。子どもみたいに、少し得意げな、でもちょっとだけ恥ずかしそうな笑顔を浮かべて。
「過去に人を戻すなんて行為、普通出来ませんよ。わたしという存在そのものを代償にわたしは湊さんをここに飛ばしたのです。どうせ待っていても滅びがきてしまうのならやっしまえってですね」
そう言うと暦は力拳を作るような仕草を取り、少しだけ誇らしげな表情を浮かべた。
そんな彼女に俺は問いた。
「神影市が衰退すれば、暦が消えてしまうのは分かった。ただ俺の時間ってのはなんだ?」
俺の問いに、暦は一度考える素振りを見せてから、小さく首を振った。
「……ごめんなさい。それは……わたしにも分かりません。
お、恐らくは……未来で起こった何かが関係しているのだと……思います……」
その答えには曖昧さが残っていたが、彼女が分からないと言うのなら、それ以上追及しても意味はないだろう。
「……暦。神影市を救うってのは、具体的にはどうすればいいんだ?」
その問いに、彼女は一瞬だけ黙り、そして唇に指をあてて、深く息を吐いた。
「……“救う”というのは、単に物理的な話ではないんです。この街に住む人々が、ここに生きることに希望を抱き、文化や記憶や未来に、繋げたいと願うこと──。それが、わたしを……この街を、生かすことに繋がるのです」
「……街に対する“期待”か」
俺が呟くと、彼女はぱっと明るい笑顔を浮かべて、勢いよく俺を指差した。
「さもありなんですっ!」
コロコロと、実によく表情が変わるヤツだった。
まるで天気のように目まぐるしく、その感情の振れ幅は予測不能。
けれど不思議なことに、そのどれもが嘘くさく見えなかった。
泣きそうになったかと思えば、すぐに笑う。
沈んだ声で語ったかと思えば、冗談のように肩をすくめる。
その無邪気な姿は、時に場違いにすら思えるほどで、けれど……たぶん、そこにこそ彼女の「強さ」があった。
将来、いずれ確実に“消えてしまう”と自ら語っていたというのに、今の彼女にはそんな影など微塵も感じさせない。
心が壊れてもおかしくないはずの現実を、あえて見ないふりをしているのではない。
むしろ、その運命さえも背負って、なお真っ直ぐに立とうとする姿勢が、そこにはあった。
その胆力──いや、覚悟とも言うべき芯の強さに、俺はただ感嘆するしかなかった。
「……暦」
その名を、気づけば口にしていた。
自分でも、少し唐突すぎたかもしれないと思ったが、心の底から自然に湧き出たものだった。
ベンチから静かに立ち上がる。
風が、春の匂いを含みながら俺の制服の裾を揺らした。数歩、彼女に背を向けたまま歩き、そして立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
視線の先には、変わらずベンチに座ったままの彼女の姿があった。
夕陽の光が差し込む中、暦はきょとんとした顔で、まるで状況が飲み込めていないように俺を見つめていた。
その瞳は大きく、どこまでも澄んでいて、何かを期待しているようで──少しだけ怯えているようでもあった。
「その……神影市を救うって話、協力するよ。俺も力を貸す」
その一言を口にした瞬間、時が止まったかのような静寂が辺りを包んだ。
そして──。
「……ホ、ホントですかっ!?」
まるで弾かれたように、暦が立ち上がった。
驚きと喜びがない交ぜになった表情で、思わず胸元で両手をぎゅっと握りしめるようにして、俺を見つめる。
唇が震え、目元にはほんのりと涙が浮かびそうになっていた。
けれど、それ以上に彼女の顔を満たしていたのは、希望だった。
「湊さん……っ! 本当に、協力してくださるんですね……?」
何度も確認するように問いかけてくるその様子は、まるでずっと押し殺していた不安が一気に溶け出したようだった。
少し潤んだ目元には、確かな希望の光が灯っていた。
「ああ、男に二言はない」
「……ありがとうございますっ!」
彼女の顔が、ぱあっと明るくなる。
花が咲いたように、それはもう眩しいほどの笑顔だった。
ただの笑顔ではない。
心の底から嬉しいと感じた時、人はこんなふうに笑うのかと思うほど、無垢で、まばゆいものだった。
「そうと決まれば、わたしも全力でサポートしますっ!湊さんとなら、きっと……きっとこの街を救える気がします!」
「ありがとうございますっ! 本当に……ありがとうございますっ!」
彼女は小さく何度も頭を下げ、そしてふらりと俺のもとへ駆け寄ってくる。
風に揺れる髪、制服のスカートの裾がふわりと舞い、頬を夕陽が優しく染めていた。
まるで、光の中から現れた幻のようで、ほんの一瞬、俺はその姿に言葉を失った。
そして、暦はそっと俺の手を取った。
小さく、やわらかなその手のひらが、俺の手に重なる。
そして、ほんの少しだけ、力がこもる。
「頑張りましょうっ、湊さんっ!」
彼女はそう言って、まっすぐに俺を見つめた。
その瞳には、不安も恐れもない。あるのはただ、希望だけ。
こんなふうに全力で感謝されるのは、決して悪い気分ではなかった。
いや、むしろ、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていくのを感じる。
果たして俺はこの神影市を救えるのだろうか。
先日門司港に車で行こうとしたのですが、
行っても焼きカレー食べるくらいしかないと考え、
結果家でモンハンしてました。