3話:入学式でこんにちわ
「わたしを助けてください──」
神戸暦と名乗った少女は、確かに俺にそう言った。
帰りのバスの中、俺は暦との再会を何度も思い返していた。
『お願いです、湊さん。時間が、あまり残されていないんです!』
暦は噛み締めるような声で懇願していた。
今にも泣き出しそうな表情に、俺は思わずたじろぐ。
『……どういうことだ? 何をしろって言うんだ』
『この神影市を……救ってほしいんです』
『神影市を……救う?』
『はい。……今の神影は、少しずつ、確実に……死に向かっています』
その言葉に、俺の脳裏には、かつてデスクに山積みになっていた、企画倒れの地域活性化計画の書類たちが浮かんだ。
──死に向かっている。
確かにそうだ。
俺は、資料を腐るほど見た。
神影市の人口減少は、20年以上前から始まっていた。
それでも行政は、どこか現実逃避じみた「期待込みの人口予測」を掲げ、無理に予算だけを取り続けた。
癒着した企業へ流れる無意味な公共事業、
後手後手に回された子育て支援策、
そして、隣市へと流出する若い世代。
最後には、誰もが口には出さずとも見放していた。
『……悪いけど、神影市をどうこうするなんて、俺には無理だ。それとも何だ?救えば、元の時代に戻してくれるのか?』
『……それは難しいです』
なんだ、それは──。
非常に自分勝手で俺のメリットがないではないか。
俺は、暦に背を向けた。
まぁ、幸いにも15歳の自分に戻っているだけだ。普通に生活していれば、いずれあの頃には戻る。
そう考え、俺は言った。
『悪いが、他を当たってくれないか?』
『ま、待ってくださいっ!』
『俺は高校生だぞ!? 20年後の公務員の俺ならまだしも、今の俺に何ができる!地域活性なんて、おままごとじゃないんだ!』
怒鳴るように言い捨て、俺は踵を返した。
* * *
バスから降りた俺は、夜道を一人歩いていた。
「……全く、いきなりタイムリープさせたと思ったら、ありゃなんだよ……」
思わず独り言が漏れる。
──強く言い過ぎた、か。
時間が経つにつれ、内心では後悔が膨らみ始めていた。暦のあの必死な目。何もできないと言い切った自分の情けなさ。胸の奥が、妙にざらつく。
家に帰り着き、俺は小さくため息をついた。
玄関の扉を開けると、リビングから母さんの声が飛んできた。
「おかえり。遅かったわね」
「ちょっと、道に迷った」
「何それ」
母さんは苦笑しながらも、特に深く追及はしてこなかった。今の俺にとって、それがありがたかった。
二階の自室に戻ると、俺はベッドに倒れ込んだ。
未来の俺は、こんな日常にもう戻れないって思ってたっけな。
昔馴染みの天井を見上げながら、ぼんやり考える。
けれど、タイムリープしてきた実感は、まだどこか現実味がない。
神戸暦。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。
そして、言っていた。
「この街は、少しずつ死に向かっています」と。
「でも……俺には、何ができるっていうんだよ」
そう小さく呟いて、俺は目を閉じた。
*
春の柔らかな光が、カーテンの隙間から部屋に差し込んでいた。どこか懐かしい香りの混じった風が、ゆっくりと空気を撫でていく。
「……ん……」
重たい瞼を持ち上げると、見慣れた天井が視界に映った。ここは、20年前の俺の実家──。
高校生活がこれから始まる、そんな朝だ。
ベッドから起き上がった俺は、ぼんやりとした意識のまま窓の外を見やった。
白い雲が、風に押されて静かに流れていく。
俺は今日、制服に袖を通し、新たな人生を歩み出す。
……いや、正確には「二度目」の人生だ。
身体は少し重たかった。
きっと、未来で経験した20年分の疲労や記憶が、未だ身体のどこかに沈殿しているのだろう。
この数日間、現状についてお思いを馳せていたのだが、状況としては決して悪い物ではないだろう。
35歳までの記憶を持った状態での高校生活とはどんなものになるのか少しばかりの期待があった。
「よし……」
そう呟いて、俺はベッドから降りた。
床に触れる足の裏がひんやりとして、妙に現実感を覚えた。
制服に着替えながら、鏡の中の自分をふと見つめる。
15歳の俺。
若いゆえに代謝が良いのか少し痩せている気もするが、まあ、元々地味な顔立ちに変わりはない。
ネクタイを締めるのに手間取っていると、廊下から母さんの声が聞こえてきた。
「湊ー!朝ごはんできてるわよー!」
「ああ、今行く!」
声を張り上げて返事をすると、制服の襟を整え、部屋を後にした。
キッチンには、湯気を立てる味噌汁と焼き魚、そして卵焼きが並んでいた。
どこにでもある普通の朝食。
だけど、俺にとってはどれもこれも眩しいくらいの贅沢だった。
「ちゃんと食べなさいよ。入学式で倒れたら恥ずかしいからね」
「大丈夫だよ」
椅子に腰掛け、箸を手に取る。
母さんは、ちらりと俺の制服姿を見て、にこりと笑った。
「……似合ってるじゃない」
「……ありがと」
何気ないやり取りに、胸の奥がじんわりと温かくなった。暦には悪いが、もう一度青春を楽しませてもらおうと思う。
食事を終えると、母さんは少し寂しそうな顔をして言った。
「気を付けて行くのよ。友達もちゃんと作るのよ?」
「ああ、わかってる」
安心してくれ、母さん。
割と友達は出来た記憶がある。成人式まで付き合ったやつはわずかだったが……。
少し照れくさくなりながらも、玄関で靴を履く。
母さんは俺の背中をポンと軽く叩いた。
「いってらっしゃい、湊」
「……行ってきます」
扉を開けると、春の匂いが俺を迎えた。
白い息はもう出ない。
けれど、心の中には確かな緊張感と、小さな期待があった。
*
体育館に入ると、真新しい椅子が並べられ、壇上には「祝 入学式」と金色の文字が掲げられていた。
式の開始を待つ新入生たちが、緊張と期待を入り混ぜた空気を作り出している。
係の教師に案内され、俺も指定された席に座った。
周囲を見渡すと、同じ制服を着た顔ぶれが、緊張した面持ちで黙って座っていた。
「……緊張してるのは俺だけじゃないか」
小声で呟き、胸の内で少しだけ安堵する。
どこか懐かしい、でもやっぱり新しい。そんな空気だった。
やがて、式が始まった。
校長の長い挨拶に耐え、教頭の紹介、担任の発表と続く。正直、未来の記憶が邪魔をして、どうしても「またか」という気持ちが湧いてくる。
だが、今回は違う。
これは「やり直し」じゃない。
「新しい人生」だ。
そう自分に言い聞かせ、背筋を伸ばした。
そして──。
壇上に、新入生代表として一人の少女が立った。
制服に身を包んだ彼女は、金色の髪を陽に輝かせ、凛とした立ち姿をしていた。
瞳は、澄んだ湖のような青。
「……!」
心臓が跳ねた。
間違いない。あれは──。
神戸暦。
俺が未来で、そして先日再会したあの少女だった。
暦はマイクの前に立つと、静かに深呼吸をしてから、原稿に目を落とした。
「新入生代表、神戸暦」
その声は、以前よりもずっとしっかりしていて、体育館に澄み渡るように響いた。
『本日は、私たち新入生のためにこのような素晴らしい式を開いていただき、誠にありがとうございます。……』
型通りの挨拶文を読み上げる暦。
けれど、その表情や仕草には、ただの形式だけではない、何か強い覚悟のようなものが滲んでいた。
スラスラと挨拶文を口にする暦を眺めていると一瞬、視線が交差した。
思わず俺は俯き、視線から逃れるような動作を取った。
いったい暦は何を考えている?
そもそも俺の記憶では高校の同級生にあのような金髪碧眼の女はいない。
それにだ、中学でもないため定員数という概念がある。
俺を20年後からタイムリープさせることが出来るような奴だ。何らかの方法で生徒1人の存在を消し去り、そこに自身を捻じ込んだとでも言うのだろうか。
そんなこと考えているうちに入学式は終わりを告げた。
*
場所は変わり、教室。
俺の割り当てられたクラスは、記憶通りの「1年B組」だった。
教室の空気、陽の差し込み方、机と椅子の並ぶ。しかし、懐かしさは不思議と感じなかった。
教室を見渡すと、座っている顔ぶれもおおむね覚えがある。とはいえ、さすがに二十年も前のクラスメイトの顔をすべて鮮明に記憶しているわけじゃない。
担任の教員も、予想通りの人物だった。
黒い髪は腰に届くほど長く、落ち着いた雰囲気を醸し出す女性であり、また美人な部類に入る顔立ちをしている。歳は20代後半であり、程よいマスクはまさに教師といった風貌だ。
「では、あらためて。今日から皆さんの担任を務めます、国語の倉敷洋子です。よろしくお願いしますね~」
声も喋り方も仕草も記憶の通り。
この人はなぜか高校三年間、ずっと俺のクラスの担任だった人物だ。
教師としてのスキルがあるのかはさておき、妙な性格をしていたはずだ。
自己紹介を終えた倉敷先生が、教卓の前で手元の名簿を見ながら言った。
「じゃあ今度は、皆さんの自己紹介を聞いていきましょうか。出席番号順でいきますねー。トップバッターは……天戸くん、お願いできますか!?」
……当然だ。
苗字が『あ』で始まる以上、どんな順でも俺は最初に名前を呼ばれる運命にある。
立ち上がった俺は、教室中の注目を浴びながら、簡潔に言った。
「天戸湊です。好きなものはモロゾフのプリンと、ヨックモックのシガールです。将来の夢は……公務員です。よろしくお願いします」
特に面白味も捻りもない、あっさりとした自己紹介だった。だが、目立ちたくもなければ、妙なキャラを立てたいとも思っていない俺にとっては、これで充分だった。
倉敷先生が軽く手を叩き、他の生徒たちもそれに倣って拍手する。
それに促されるように、俺は静かに席に腰を下ろした。
そのあとは順番に、生徒たちが一人ずつ自己紹介を始めていく。
最初は堅い雰囲気だったが、次第にちょっとした笑いが起きたり、軽いツッコミが飛んだりして、空気が和んでいく。
自己紹介を聞きながら、俺はゆるやかに時間が流れていくのを感じていた。
そして──。
「では、次は……神戸さん」
「は、はい!」
ぱっと立ち上がったその少女の姿に、俺は息を呑んだ。そう俺のクラスには当たり前のような顔をして、あの神戸暦が居座っていた。
このクラスには絶対にいるはずのなかった人間が、一人だけ紛れ込んでいた。
「神戸暦です。好きなものは……神影市です。えと、あと紅茶ですっ! 将来的な夢は……神影を盛り上げること、です!」
一気に言い切った彼女は、ぺこりと頭を下げた。
その姿を見て、先日の再会の場面が鮮明に蘇る。
『この街は、少しずつ死に向かっています。だから、救ってほしいんです』
あの夜、彼女が懇願してきた言葉。
その目に宿っていた真剣さと、声ににじんでいた切実さ。
だけど、実のところ、あの願いはあまりに漠然としすぎていた。
神影を救うって、一体何をどうすればいいのか。
街のどこが、どう「死に向かっている」のか。
具体的な方法も道筋も示さないまま、ただ「お願いです」と言われても──。
いや、もし本当に協力する気があるのなら、あのときもっと詳しく聞くこともできた。
けれど、俺はそれをしなかった。
それが、彼女を期待させないためだった。
そんな思考を辿っていくうちに、もっと単純な疑問がふと胸に浮かぶ。
そういえば……神戸暦は、どうして俺のことを知っていたんだ?
あの夜、彼女は確かに俺の名前を呼び、迷いなく俺に話しかけてきた。
こちらの事情も、未来のこともすべて知っているような目をしていた。
俺はその疑問を胸に抱きながら、すぐに頭を振って打ち消した。
……いや、考えるな。関わるな
考えれば考えるほど、深みにはまってしまう。
彼女がどこから来たのか、なぜこのクラスにいるのか──そんなことを掘り下げても、俺の平穏には何一つ繋がらない。
だから俺は、強引にその思考を切り捨てるように、意識の奥へと押しやった。
抹消しろ。考えるだけ、無駄だ
けれどその言葉は、自分自身に言い聞かせているようで、どこか虚しく響いた。
*
次の日を迎えた。
入学して間もないこの時期は、まだ授業は本格的に始まっていない。
そのため今日は、朝から体育館に集合し、学校全体の紹介や部活動のプレゼンなど、いわば“顔見せ”のような催しに半日を費やすこととなった。
時計の針が昼を告げる頃、ようやく解放される。外は春の陽気に包まれており、空を仰げば霞のかかった青に、柔らかな日差しが注がれていた。
せっかくの心地よい天気だ。
俺は、母さんが早起きして作ってくれた弁当を手に取り、ふらりと中庭へ向かうことにした。
子供のころは、わざわざ外で食事をすることに特別な意味を感じたことはなかった。
ただ座って、ただ食べる。それだけのことに、何の魅力があるというのか――そんな風に思っていた。
だが、大人になり、仕事をして、日々の生活の中で擦り減っていく自分を感じるようになると、その“当たり前”の風景が妙に恋しくなる。
喧騒を離れた静かな空間で、自然に囲まれて取る食事には、確かに癒しという名の価値があるのだと、いつからかそう感じるようになっていた。
購買へ、あるいは学食へと向かう生徒たちの波をすり抜け、俺は校舎の合間にある中庭へと足を運んだ。
「……懐かしいな」
呟いたその声は、自分でも驚くほど自然に漏れ出ていた。
四方を校舎に囲まれた中庭は、どこか記憶の奥にしまわれていた風景と酷似していた。
赤茶色のレンガで舗装された通路、その両脇に広がる手入れの行き届いた芝生。
時折、春風に揺られて舞う桜の花びらが、空中でしばしの滞空を経て、静かに地へと落ちていく。
完璧な満開ではないにせよ、それでも春という季節の 豊かさは、この場に充分すぎるほど溢れていた。
木漏れ日が差し込むベンチにはすでに数人の生徒が座っており、その多くはどうやら上級生らしい。
ひと組のカップルが、肩を寄せ合いながら弁当をつついている姿も目に入った。まだ付き合いたてなのだろう。互いの距離感に初々しさが滲んでいる。
「……流石にあの近くに座るのは気が引けるな」
そう呟きつつ、視線はベンチの空きを探す。
校庭の一角に独立して設置されたベンチは幾つかあるが、並列して置かれているため、どうにも“空気を読め”と言われているようで気まずい。
邪魔するつもりなど毛頭ない。俺だって、空気くらいは読む。
周囲をキョロキョロと見回し、少し離れた位置にぽつんと空いているスペースを見つけた。
人の気配もない。そこならゆっくりと弁当を広げられそうだ。
──あそこにするか。
そう決めて、一歩を踏み出す。
が、その足取りにはどこかためらいがあった。
なぜかって?
大人になると、どうしても“出入口に近い場所”を無意識に求めてしまうクセがついているからだ。
たとえば商業施設の駐車場では、少しでも入り口に近い区画を狙って車を停めようとする。
別に足が悪いわけでもないし、歩くのが嫌というわけでもない。
ただ、それが“効率的”だと信じてしまう、ある種の職業病のようなものだ。
ましてや仕事となると、上司を連れての移動ではその“入り口近くに停める”という判断ひとつが、時に機嫌を左右する。
くだらない、とは思う。だが、そのくだらなさに付き合えない者は、“気が利かない”とレッテルを貼られるだけなのが現実だ。
そうして積み上げられる社内評価。
ああ、まったく、世知辛いにも程がある。
そんな思考の渦に巻かれながら歩を進めていた俺は、ふと、足を止めた。
「……ん?」
視界の先、植え込みの影にあるベンチ。
陽の角度によって生まれた影に隠れていたせいで気づかなかったが、そこにはすでに先客がいた。
柔らかな春の風に揺れる、絹のような金の髪。
静かに佇みながら、手にしたサンライズを小さな口元に運ぶ──神戸暦だった。
その姿はまるで、画の中から抜け出してきたかのような静謐さを湛えていた。
そして彼女は、こちらの存在に気づいたようで、ちらりと視線を寄越す。
その瞳が、何も語らずとも“こっちにおいで”と告げていることを、俺はなぜか直感的に理解してしまった。
しかし俺は踵を返す。
関わらないと決めた以上は、余計な接触は避けるべきだ。先日のやり取りが脳裏に過ぎると、胸の奥に微かなざわめきが走ったが、それを意識の底に沈めるようにして、俺は教室へと戻る足を速めた。
それが最善だと、自分に言い聞かせながら。