38話:帰還
再開発の見直しが決まってから、少しの時が過ぎた。
そして俺たちは、学生にとって最大の苦行である期末テストをなんとか乗り越えた。
気がつけば梅雨は明け、空は突き抜けるような青さを取り戻していた。燃えるような太陽が連日降り注ぎ、空には巨大な入道雲が悠然と浮かぶ。それが時折、日差しを遮ってくれるのが唯一の救いだった。
蝉の声がまるで真夏のライブステージのように喧しく鳴り響く、そんな典型的な夏の日。
日付は7月20日。
終業式を終え、1学期最後のホームルームも終了した。
このあとは業者が教室に油引きをするとのことで、倉敷先生から速やかな退室を促される。
いよいよ明日から夏休み。
教室を出ていく生徒たちは皆、約40日間という長期休暇を前に、足取りも軽く浮かれている。
そのざわめきの中を抜けて、俺は廊下を歩いていた。
開け放たれた窓からは、海風が湿気を含んで吹き込み、掲示板に貼られた紙を揺らす。
俺は売店で飲み物を買い、それを手に校舎を登った。
ひんやりとした空気が流れる階段の踊り場を抜け、錆びた鉄の扉の前に立つ。そして、思いきり押し開けた。
扉は鈍い金属音とともに、鉄の匂いを残して開いた。
気圧の変化に押されるようにして、俺は屋上へ一歩踏み出す。
屋上は遮るものが何もなく、太陽の直射を容赦なく受けていた。照り返すコンクリートが陽炎のように揺れている。
「……」
言葉もなく、俺は給水タンクの影にあるベンチへ歩み寄り、腰を下ろした。
少しだけ和らいだ熱の中、ミルクコーヒーのパックにストローを差し、それを一口啜る。
口の中に広がる、甘くほろ苦い味わい。
それを飲み込みながら、俺は空を見上げた。流れる雲の輪郭が、どこか懐かしく見えた。
洋館の取り壊しという未来を阻止してから、もう一ヶ月近くが経とうとしている。
しかし、暦は未だ姿を現さない。
あの日以来、俺はほぼ毎日のようにこの屋上で、彼女を待っていた。
別にここで会おうと約束したわけではない。けれど、なぜかこの場所にいれば、会える気がしていた。
再びミルクコーヒーを啜る。
暦の状況を歴に聞きたいとも思うが、説明会の日以来、彼女の姿は一度も見ていない。ただ、今の俺にできることは、ただ待つことだけだった。
立ち上がり、日向へ出てフェンス越しにグラウンドを見下ろす。
この炎天下でも運動部の連中は元気に汗を流している。晴人の姿も、その中にあった。
耳を澄ませば、音楽室から吹奏楽の音色が聞こえてくる。沙羽は無事にコンクールの出場メンバーに選ばれたらしい。さすがだと思う。
あれから、みんな前へ進んでいる。
だけど俺だけは、あの時からずっと立ち止まっているような気がしていた。
とはいえ、暦の身を案じているわけではない。もし彼女に何か起きていたなら、俺は今頃、日光ではなく斎場で火に包まれているはずだ。
そのとき、風が吹いた。
夏の匂いをまとった心地よい風だった。
グラウンドの先に見える六麓山を眺めながら、俺は自然と声を発していた。
「……遅い。遅刻だぞ?」
「ご、ごめんなさい……」
耳に届いたその声に、胸の奥が熱くなった。
涙がこみ上げそうになるのを、必死に堪える。深く息を吸い、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、一人の少女。
金糸のような長い髪は陽光を受けて輝き、透き通るように白い肌、整った顔立ち、宝石のように澄んだ青い瞳、そして桃色の唇。
風になびく純白のワンピースが、彼女の存在をどこか儚く見せていた。
背中にあった青白く輝く四枚の翼は、感情を映すように静かに垂れ下がっている。
彼女は間違いなく、暦だった。
ずっと、会いたかった。
だが、どうしても素直にその想いを口に出すことができなかった。
「怒ってますよね……?」
俯き加減にそう尋ねる彼女に、俺は少しむくれた顔で答えた。
「怒ってない」
「う、嘘ですっ!顔が怖いです!」
唇をへの字に曲げ、胸の前で手をぎゅっと握りしめる暦。
そんな彼女に、俺は言った。
「帰ってきてくれて、よかった」
その言葉に、暦の青い瞳がわずかに見開かれる。
「おかえり」
そう続けると、彼女はふわりと笑った。
その笑顔は、涙が出そうになるほどに、愛おしかった。
「はいっ!ただいまです!」
「……でも、遅刻の罰は受けてもらうぞ」
俺はそう言って、彼女の額に指を伸ばす——が、直前で思いとどまった。
そういえば思い出した記憶の中で、彼女に平手打ちをしようとした歴の手が吹き飛んでいた事を思い出したからだ。
それに気づいた暦は、クスリと笑って言った。
「大丈夫ですよ。今は星を包む防層は展開してません」
見ると、背中の翼はもう消えていた。
安心して俺は軽く彼女の額をデコピンする。
「あうっ……」
わざとらしく頭を後ろに傾けて痛がる仕草に、思わず吹き出しそうになる。
「よし、これで遅刻の件は帳消しだ。ったく……お前を取り戻すのにどれだけ苦労したと思ってるんだよ」
そう言うと、暦は少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「湊さんのことは、四次元から見てました。ご心配をおかけしました……。本当に感謝しています」
「見てたのか?」
「はい。一部、観測できない部分もありましたが……ほとんどは」
なんとも言えない感情が胸にこみ上げてくる。
つい口にしてしまった。
「もしかしてその……歴と公園で話した時のとかも……?」
暦は視線をそらし、うつむいた。
「は、はい……。その、あれは……ちょっと情けなかったですよね」
ああ、穴があったら入りたい。
「で、でもっ!」
俺が頭を抱えていると、暦は急に真剣な顔になり、力強く言った。
「……嬉しかったんです。誰かにあんなふうに心配してもらえるのは。とても、嬉しいです」
少し赤くなった顔で、指先をもじもじと絡める彼女の仕草に、胸がぎゅっとなる。
「……と、とりあえず、座ろうぜ?」
照れ隠しのようにそう言って、俺はベンチへ腰を下ろす。
暦も隣に座った。風が通り抜け、日陰の空気が心地よい。
俺はカバンからもう一つのミルクコーヒーを取り出し、彼女に手渡す。
「ありがとうございます」
暦は結露で濡れたパックを撫でながら、柔らかく笑った。
「もう……これも、飲めないと思ってました」
「よかったな。また飲めて」
そう言うと、暦は少しムッとした顔をして、ぶっきらぼうに返した。
「これはあくまで“許容範囲”のものです。好物というわけではありません」
「おい、貰っといてそれか?嫌なら飲まなくていいぞ?」
冗談めかして取り返そうとすると、彼女はそれを胸に抱え込み、防御の構え。
「喫します。これは湊さんがわたしに献上したものです」
「なんだよ、それ」
「嗜好品とは、時に味ではなく記憶で味わうものです」
「……思い出の味ってことか?」
そう尋ねると、彼女は片目を閉じて、唇に指を添えて言った。
「さもありなん、です」
その声、その仕草——。
ようやく戻ってきた彼女という存在を実感し始める。
しばしの沈黙が、俺たちの間に静かに流れた。
ストローを啜る暦はコーヒーを嚥下すると、口を開いた。
「その歴の事を嫌いにならないであげてください」
「別に嫌いになんかなるかよ」
俺の言葉に暦は少しホッとしたように胸を撫で下ろす。
「むしろ、あいつには感謝してる」
実際、そうだった。
歴がもし俺の前に現れなければ、俺は今の結果に辿り着けていない。感謝こそすれど、嫌うなだ御門違いだ。
それに最後に会った時の歴の言葉に引っかかり覚えた。
——お前の助けになれていると、いいんだがな……。
そう言い残し姿を消した彼女。
これは俺の勝手な推察だが、灘さんたちが汚職についての真相にすぐに辿り着けたのは、他でもない彼女の手助けがあったのではないだろうか。物事があまりにも都合良く進んでいた気がした。
本当に俺は色んな人に助けられていたわけだ。そして、最も礼を言いたい相手もここにいる。
「……今まで、本当にありがとう」
「気にしないでください。むしろ湊さんは、わたしが秘匿していたことを叱るべきです」
暦は少し視線を下げると、申し訳なさそうに呟いた。彼女の言葉の後、すぐに俺は答えた。
「怒るつもりはない」
その言葉に嘘はなかった。
今、俺がこうして生きていられるのは間違いなく彼女、神戸暦の存在があってこそだ。
彼女は平然とした顔をしているが、未だに莫大な星の希望を代償に、俺の命を支えている。その事実だけは、決して忘れようがなかった。
だからこそ、俺にはどうしても聞きたいことがあった。
「……なあ、どうして俺を助けた?」
その問いに、暦はふと空を見上げ、少しの思索を挟んでから答えた。
「右虎さんとの約束だったんです。彼の血脈に何かあった時は、必ず助けると」
あまりにあっさりとした回答に、俺は思わず眉をひそめた。
そんな俺を一瞥して、暦は話を続ける。
「右虎さんは、どんな人間にも存在する意味や価値があると信じていました。当時のわたしには、それがどういう意味なのか、よく分からなかったんです。でも、そんなわたしに彼は“約束”という形で、それを定義してくれた。だから、湊さんを助けたのは、その信念を証明するためです」
「つまり……どういうことだ?」
「はっきり言えば、自己満足です」
拍子抜けするほどあっけらかんと答える暦に、思わず肩の力が抜けた。
もっと壮大で理由めいたものを期待していたわけじゃない。けれど、何か特別な感情があったのではないかと、そう思っていた自分に苦笑した。
「でも……今は思っていますよ。助けてよかったって」
「それなら、よかった。……たださ、記憶まで封印する必要はなかったんじゃないか?」
そう抗議すると、暦はどこか吹っ切れたような顔で答えた。
「念のため、です。自分が死んでいたなんて聞かされたら、普通は精神に異常をきたしてもおかしくないですから。まあ、湊さんの場合は完全に杞憂だったみたいですけど」
少しだけ笑う暦。その横顔に、俺はさらに一つ、踏み込んだ質問を投げかける。
「なあ、暦。……ちょっと聞いていいか?」
「はい? なんですか?」
首を傾げ、青い瞳でこちらを見つめる彼女に、俺は意を決して問いかけた。
「……暦にとって、その……じいちゃんは、どういう存在だったんだ?」
その言葉に、暦は一瞬ぽかんとした顔をして、そして、すぐに悪戯っぽく笑った。
「もしかして……湊さん、妬いてるんですか?」
「なっ!?ち、ちがっ……!」
「いいんですよ? 気になるなら気になるで、追求しても」
暦は面白がるようにくすくすと笑いながら、ふいに視線を外し、穏やかに言った。
「ご安心ください。右虎さんは、ビジネスパートナーのような存在です」
「そ、そうか……」
「はいっ」
朗らかな笑顔を見せる彼女に、俺は話題を切り替えることにした。
「ところでさ、暦……みんな、お前のことを忘れてるみたいだけど……今後、どうするんだ?」
「そうなんですよね……」
暦は肩を落とし、しょんぼりとした声を漏らす。
彼女にとって、築き上げた人間関係が一瞬にして白紙に戻るのは、やはり堪えるものがあるのだろう。
「記録を幽閉する錠前を解除すると、色々と辻褄が合わなくなるので……しばらくは現状維持でいようかと思っています」
記録を幽閉する錠前。
かつて暦が俺に施していた記憶の封印だ。つまり、皆が彼女のことを完全に忘れてしまったわけではないと分かり、ほんの少しだけ安心する。
「明日、転校生として戻ってきます。……その時は、よろしくお願いしますね」
その言葉に、俺は淡々と返す。
「悪いけど、明日から夏休みだ」
「……なんと」
暦はぽかんと目を見開いた。
俺は軽く肩をすくめながら言う。
「戻ってくるのが遅かったな。何してたんだよ?」
「むぅ……。四次元に戻されたついでに、ちょっとした野暮用を済ませてたら、こっちの時間が進んでただけです……」
深くは追及しなかった。
暦にも暦なりの事情があるのだろう。
そう考えていると、彼女は軽く背伸びをして、ぽつりと呟く。
「でも……夏休みが終わってからまた転校って、ちょっと面倒ですね」
「まあな。でも、三宮たちともまた友達になれるさ」
俺はその点については、何も心配していない。
だが、暦はもっと別のことを思い出したようで。
「……また呼び出されて、お付き合いを要求されるのは面倒です」
「モテる奴は言うことが違うな」
「湊さんは、何も分かっていません……」
暦はやや不機嫌な表情を浮かべる。
「断る方も、精神的にきついんですよ? お分かりですか?」
「悪いけど、モテるやつの気持ちなんて分からん」
俺の返答にため息をつくと、彼女はしばらく黙り、何かを考えるような顔をして、それから、ぽつりと口を開いた。
「……そ、その、湊さんさえよければ……次、転校してくる時……わたしと付き合ってる、ってことにしませんか?」
その言葉を口にする暦は、どこか感情を押し殺したような表情で、青い瞳は落ち着きなく泳いでいた。
その提案に、俺は即座に否を突きつける。
「俺を虫除けに使うな」
「め、名案だと思ったんですが……」
「名案じゃねぇよ。愚案だ、愚案」
しょんぼりと肩を落とす暦に、俺は言葉を重ねる。
「そんな張りぼて、すぐにバレるに決まってるさ」
すると彼女はふっと笑って——。
「……そうですね」
その笑みに、俺はそっと声をかけた。
「俺は、お前が戻ってきてくれて嬉しかったよ。……久しぶりに会って、うまく言えなかったけど……やっぱり、お前がいないと寂しいって思った」
「そう言ってもらえると、わたしも嬉しいです。正直……今回は、本当にもう二度と、湊さんに会えないかもしれないと思ってましたから」
そう言って彼女は立ち上がり、風に金色の髪を揺らしながら、振り返った。
「湊さん」
「なんだ?」
暦はこちらをじっと見つめて言った。
「わたし、忘れてませんよ。……わたしのこと、湊さんには、どんな風に見えていますか?」
それは、暦がいなくなる前に投げかけてきた、未だ保留にしていた問いだった。
俺は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「本当は、今すぐにでも答えてやりたい。答えだって、もう決まってる。……でもまだ言いたくない。お前の未来が、本当に救えた時に伝えたいんだ」
その答えを聞いた暦は、どこか困ったように微笑んだ。
「いいんですか? また、いなくなるかもしれませんよ? その時、後悔するかもしれませんよ?」
「大丈夫だ」
彼女は驚いたように目を丸くする。
「もしまた星に暦を奪われても——俺が、何度だって取り返す。必ず、暦を助ける」
「っ……!」
暦は、ハッとした表情のまま背を向け、小さな背中を震わせた。
「さ、流石に、それは……は、反則です……」
そう呟いた後、一呼吸置いて振り返り、俺の隣に腰を下ろした。
そして、そっと言葉を紡ぐ。
「湊さん……歴から聞きましたよね? わたしには、致命的なバグがあると」
「……ああ」
グラウンドや校舎からの音が、遠くに感じられる。
風は優しく流れ、暦の声だけを、俺の耳元へと届けてくれるようだった。
「バグがあるということは……時に、異常な行動をとることもあるということです」
「ど、どういう意味だ……?」
顔を赤らめた彼女の瞳が潤んでいた。
手を胸に当てながら、ゆっくりと肩を上下させて、震える声で言う。
「……湊さん、わたしの存在を担保してくれますか? いえ……わたしが、湊さんに担保されたいんです」
「……どういう意味なんだ?」
問いかけるが、彼女は答えない。
そして、小さく息を飲みながら——。
「これ……バグです。異常動作なんです。……でも、少しだけ、気にしていてください」
その言葉と共に、暦はそっと俺の頬に触れた。
そして、ゆっくりと唇を重ねた。
——へ?
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
それはおそらく一秒にも満たない、短い口づけ。だが、その短い時間は、俺にとって妙に長く感じられた。
ふと気がつけば、顔を真っ赤に染めた暦が、泣き出しそうな表情でこちらを見つめていた。
そして顔を逸らしながら、悪戯っぽく呟いた。
「神影市とキスをした人なんて、後にも先にも……湊さんだけですね」
「……それは、光栄なことだな」
唇に残る、彼女の温もりを感じながら、俺はそう返した。