36話:最後の攻勢
ロナから説明会への参加を打診された日から、俺は駆り立てられる様に動き出した。
これは、ただのイベントじゃない。これまで進めてきた署名活動と並ぶ、いや、それ以上に――想いを行政に直接ぶつけられる、唯一にして最大の機会だった。言葉ひとつで、場の空気は変わる。俺の言葉が、この街の未来に小さな波紋を広げるかもしれない。
そう考えた俺は、すぐさま動き出した。迷っている時間なんてなかった。まずは自分の想いを整理するため、これまでの流れや関係者の意見を再確認する。会長に晴人、沙羽――これまで一緒に活動してきた仲間たちに声をかけ、意見を求めながら、説明会で話す内容を考えた。
人の心に触れるには、理屈だけじゃ駄目だ。感情と言葉の温度が必要だということを、ここ数ヶ月の活動で俺は学んでいた。
そして、ついにその日がやってきた。
今日まで継続してきた署名活動も、決して無駄ではなかった。数の上では決して多くはないが、それでも確かな手応えがあった。けれど、それと同時に限界も見えてきている。人手は依然として足りない。動いてくれる人間の顔ぶれも大きくは変わらない。
だからこそ、この説明会は重要だった。多方面からのアプローチを試みてきた俺たちにとって、この場は新たな突破口になる可能性を秘めている。声を上げる勇気と、その声を届かせるための準備。どちらも、今の俺にとって必要不可欠な武器だった。
「……暑いな」
思わず、独り言のように漏れた言葉に、自分自身で苦笑する。
6月も中旬に差しかかり、梅雨独特のまとわりつくような湿気が空気を支配している。今日に限って晴れ間がのぞく珍しい日だというのに、それが却って暑さを加速させていた。じっとりとした空気が肌に貼りつき、体の動きを鈍らせる。
説明会の会場は、再開発エリアにある古びた公民館。そこに向かう途中、俺は今、教会へと続く長い坂道を一歩一歩踏みしめながら登っていた。
足を進めるたびに、額から汗がじんわりと滲み出て、目尻を伝って流れ落ちる。シャツの背中も、湿り気で不快に張り付いてくる。それでも、行かねばならない。今日、この手で掴まなければならないものがある。
合流地点は教会だ。ロナたちと一緒に、そこから公民館へ向かう手はずになっている。
坂の途中で、ふと見覚えのある場所が目に入った。かつて暦と再会し、歴とも邂逅したあの公園だ。草木は以前にも増して青々と茂り、風に揺れる葉がサラサラと心地よい音を奏でていた。
足を止め、わずかな時間、目を細めてその風景に見入る。思い返せば、この数ヶ月は怒涛のように過ぎていった。俺が自分の意思で動き始め、周囲を巻き込み、声を上げた。以前の自分からは想像もできないほどの変化だった。
まさか、自分がこんなにも誰かのために、何かのために行動する人間だったなんて――。
「天戸湊」
公園の入り口を通りかかろうとしたその瞬間、不意に背後から声が飛んできた。聞き覚えのあるその声に、俺は反射的に足を止め、ゆっくりと振り向いた。
そこに立っていたのは、歴だった。
この暑さと湿気の中でありながら、彼女の表情は涼やかで、汗一つ見せていない。どこか空気に馴染まないその存在感は、まるで異物のようでいて、どこか幻想的だった。
「お前は、いつも急に現れるな……」
気怠げにそう呟く俺の言葉に、歴はわずかに眉をひそめ、不満げに唇を尖らせた。
「何だ? 私が出てくると困るのか?」
「いや、そうじゃない」
素直に否定すると、歴は鼻を鳴らし、入り口の鉄柵に腰を下ろした。動作の一つ一つが落ち着いていて、場に静かな緊張感を生む。
「ずいぶん努力しているようじゃないか」
「おかげさまでな」
皮肉混じりに返すと、歴は視線だけをこちらに滑らせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「そう邪険にするな。今日はお前を激励しに来たんだ」
「……そうなのか?」
予想外の言葉に少し驚き、俺は首を傾げた。
だが、歴はそれには答えず、まるで独白するように話を続けた。
「私、前よりお前に対するイメージを変えたんだよ」
「……どういう意味だ?」
「つまり、それなりに評価してるってことさ」
そう呟いた彼女の横顔には、わずかながら影が差していた。
「前にも言っただろう? お前は星に挑もうとしている。それは、私にはできなかったことだ」
涼しい風が、湿気を含んだ空気をわずかに揺らした。葉のざわめきが、二人の沈黙を優しく包み込む。
「天戸湊。私も、暦には戻ってきてほしいと本気で思っている。廃棄された星霊の末路は、想像を絶するほど悲惨だ」
その声には、確かな痛みと祈りが混ざっていた。俺は言葉を挟まず、ただ歴の声に耳を傾けた。
「お前を見ていると、不思議な気持ちになるんだよ。自分の存在の意味、本当の価値――そんなことを、つい考えたくなる」
それは彼女が、ずっと胸の奥に秘めていた感情なのかもしれなかった。
「天戸湊……いや、湊」
彼女は改めて俺の名前を呼び、真っ直ぐに続けた。
「頼む。暦を星から取り戻して欲しい。これは、今のお前にしかできないことなんだ」
そう言い切ると、彼女は深く頭を下げた。その姿に、俺はしばし言葉を失った。何を返すべきか、正解が分からない。でも、心に最初に浮かんだ言葉だけは、はっきりと確信を持っていた。
「――必ず、暦は取り返してやる」
その言葉に、歴はふっと笑みを浮かべた。年相応のあどけなさが顔を覗かせたその笑顔は、初対面の時に感じた冷たさとはまるで違っていた。
「ありがとう、湊」
そして彼女は、静かに立ち上がった。
俺が再び教会に向かって歩き始めたその背中に、彼女の声が届く。
「お前の助けになれていると、いいんだがな……」
振り返った時には、もう彼女の姿はなかった。
「……歴」
その名前を呟いた声は、夏の空気に溶けるように消えていった。
空を仰ぎ見て、俺は目を細める。
暦は今、この状況をどこかで見ているのだろうか。街を救うという漠然とした目的から始まった俺と暦の関係――それが、いつの間にか、こんなにも大きなものになっていた。
俺は胸元のシャツをぎゅっと握った。彼女がこの命を繋ぎ止めてくれている。許されざる行為を、自らを犠牲にしてまで続けてくれている。
歴の話では、今の状況を維持することは暦自身の消滅に繋がっているという。俺が命を諦めれば、彼女は助かる。だが、それを暦は望まない。絶対に。
だからこそ、俺は取り戻さなければならない。
あいつが戻ってきたとき、俺の想いを伝えるために俺は再び足を踏み出した。
*
教会の敷地に足を踏み入れた俺は、思いがけない人物の姿に思わず目を見張った。そこには灘さんがいて、到着した俺に対して、あいも変わらず柔らかな笑みを浮かべていた。
「おはよう、天戸君」
その穏やかな声に、俺は少し気圧されながらも返事を返す。
「お、おはようございます」
内心の驚きが表情に出ていたのだろう。彼はその様子を見て、すぐさま言葉を続けた。
「例の件、まだ取材中だけどね。今日はその流れで、僕も記者として説明会を取材することになったんだ」
淡々としたその口調に、俺は無理もないと頷く。再開発という一大事に、地方紙が関心を寄せないはずがない。おそらく彼の今日の同行は、以前俺が感じた違和感を伝えた件とは直接関係がなく、あくまで職務の一環なのだろう。
それでも、やはり一つだけ気になることがある。
「……それなら、どうしてここに?」
説明会は公民館で行われる予定だ。取材のためなら、真っ直ぐそこへ向かう方が自然だ。それなのに、なぜピンポイントでこの教会に足を運んでいるのか。俺の問いに対し、灘さんは特に焦る様子もなく、胸ポケットからタバコを取り出し、火を点けた。
ぱちり、とライターの火花が弾ける音と共に、立ち昇る煙が湿った風に乗って鼻をくすぐる。喫茶店で会った時には気づかなかったが、その紫煙にはどこか甘ったるい、鼻腔に絡みつくような香りが混じっていた。
「君たちのやっている反対運動について、少し調べさせてもらったんだよ。で、調べているうちに、どうやらこの教会も一枚噛んでると聞いてね」
成程。確かに、表向きの情報を少し追えばすぐに行き着く結論だ。記事にする可能性のあるネタであれば、それに関連する背景も当然チェックしておく。それが記者という職業の基本姿勢だ。
俺が納得したのを見て取ったのか、灘さんは目を細め、口元に含み笑いを浮かべた。
「君には感謝しているんだよ。何かあれば、これからも話題を提供してくれたら嬉しいな」
その言葉に、俺は少し首を傾げた。確かに、以前ボイスレコーダーの話や、いくつか気になる点を伝えた記憶はあるが、核心に迫るような情報を提供した覚えはない。それでも、そう言われるのは悪い気はしなかった。
暦を取り戻すことができたとしても、すべてが終わるわけではない。これからも続いていく闘いと、その先にある社会との交わり。その中で彼のような記者と良好な関係を築いておくことは、悪いことではないだろう。
「面白い話も色々と聞けたよ。ただ……3980円を奉納するように、ちょっと強く勧められてしまったけどね」
苦笑しながら肩をすくめる灘さんの様子に、俺は思わず笑みをこぼした。そういえばロナやマザーから、以前に似たようなことを言われた記憶がある。妙な共通点に内心で苦笑を漏らしつつ、灘さんはゆっくりと歩き出した。
その背を見送っていると、不意に背後から聞き慣れた声が投げかけられた。
「エロ羊、来てたのだ?」
振り返ると、そこにはいつもの修道服姿ではなく、黒いワンピースを身にまとったロナが立っていた。いつもと違う装いに、俺は言葉を詰まらせた。
「ロナ……どうしたんだ、その格好は?」
彼女が修道服以外の服を着ている姿を見るのは初めてで、戸惑いが隠せなかった。もちろん、四六時中あの服を着ているわけではないのだろうが、それでも目に映る印象があまりに違っていた。
「暑いのだ。あの服は」
彼女は当然のように答える。全身を包むような修道服が、この蒸し暑い季節には堪えるというのは想像に難くない。
「……似合ってるな」
思わず口をついて出た俺の言葉に、ロナは一瞬驚いた表情を見せた後、にやりと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「やっぱりミナトはこういう女が好みなのだ?」
「ち、違うって!」
必死に否定する俺をよそに、ロナは機嫌よくワンピースの裾をつまみ、左右にひらひらと揺らしてみせる。
「いいのだ、いいのだ!暦から乗り換えるのだ!」
「乗り換えるわけないだろ!!」
俺の必死の抗議にも構わず、彼女はどこか楽しげに笑った。その笑顔を見ていた俺は、ふと我に返る。
「ぐふふなのだ。言質取ったのだ!ミナトはやっぱり色に狂っているのだ!!」
「ち、違っ……それはただの言い回しだってば!」
いつもの調子で振り回される俺は、思わず頭を抱える。これから大事な説明会が控えているというのに、こんなにも精神をかき乱されていいのかと内心で焦りを感じていた。
だが、そんな俺の様子を察したのか、ロナは静かに手を差し伸べ、俺の目線の高さに合わせるように動いた。そして、彼女の人差し指と中指が、そっと俺の額に触れる。
「緊張は、解れたのだ?」
「……そんなに見えてたか?」
「さもありなん、なのだ」
彼女は、どこか懐かしさを思い起こすように瞳を伏せながら、暦の口癖を真似て呟いた。その仕草に、俺はようやく気づく。彼女の軽口も、ふざけた態度も、すべて俺を気遣ってのことだったのだと。
それに気づけなかった自分が、少し恥ずかしい。だが同時に、彼女への感謝の気持ちが胸の奥から湧き上がる。
ロナは、出会った時からずっと俺に協力的だった。それは彼女の持つ慈愛の精神から来るものかもしれないし、あるいはもっと別の理由があるのかもしれない。だが、俺はそれを詮索するつもりはない。聞いたところで、彼女はきっと笑ってはぐらかすだけだろう。そして、言いたくなればきっと、自分のタイミングで打ち明けてくれる。
それだけの信頼を、俺は彼女に抱いている。
「ありがとうな、ロナ」
俺がそう口にすると、ロナは満足げに笑みを浮かべ、両手を腰に当てて胸を張った。
「良いのだ!ミナトは子分なのだ!」
「いつの間に子分になったんだよ……」
呆れながらも、俺は笑いを漏らす。お気に入り扱いされていたはずが、いつの間にか舎弟扱いされているようだ。それでも、こうして軽口を交わしているうちに、確かに胸の奥にあった緊張の糸はほぐれていた。
その時、不意に別の声が割って入る。
「お揃いね」
声の方に顔を向けると、マザーがいつもの修道服姿で微笑んで立っていた。暑さに包まれたこの日差しの中でも、彼女の笑みは涼しげだった。
その姿を見たロナは、舌を出して悪態をついた。
「うげぇ、マザー……見るからに暑苦しそうなのだ」
「うふふ、そうでもないわよ」
相変わらずのふたりの掛け合いを背に、俺たちはついに公民館へと歩を進める。