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海風Re:fine〜街を語る少女と時をかける記憶〜  作者: 甘照すう
6章:街を語る少女と運命
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34話:再訪

 客間に通された俺と沙羽は、足を踏み入れた瞬間、わずかに漂う畳の香りと、どこか懐かしさを含んだ空気に包まれた。外の光が障子を透かして差し込むこの部屋は、さほど広くはないものの、手入れが行き届いている様子がうかがえた。

 中央にはガラス製の低いテーブルが置かれ、その両側に向かい合う形でソファーが設えられている。俺たちはその一方に腰掛け、思い思いに姿勢を整えた。どこか落ち着かない気持ちを抱えながら、俺はそっと視線を室内に走らせ、平静を装うように息を整えた。

 心の奥でざわつく何かを感じながら、俺は脳内にある過去の記憶を呼び起こす。確か、未来で出会った杉山は自分の父親も公務員だったと話していたはずだ。そして、その父親が44歳の時に彼を授かったとも。

 杉山と俺は同い年だったはずだから、単純な計算で、彼の父親は今ちょうど60歳前後になる。誕生日によってはまだ役所で勤務している可能性は十分ある。思考の中で数字を並べながら、俺は膝の上に置いた拳をゆっくりと握りしめ、自問する。

 これは、いったいどういう因果なんだ?

 そんな考えが胸の内に沈殿していく中、ふと、襖が音を立てて開いた。そこから入ってきたのは、湯呑みを載せたお盆を手にした少年だった。

先ほど出迎えてくれた杉山——。

未来の記憶にある彼によく似たその少年は、慣れない手つきで俺たちの前に湯呑みを置いていく。

 どこか緊張気味な彼の動作に微笑ましさを感じつつ、ペコリと頭を下げた彼は、早々に部屋を後にした。そのタイミングを見計らったかのように、今度は一人の初老の男性が姿を現す。

 白髪が目立つその人物は、柔和な笑みを浮かべながら、ゆったりとした歩みで俺たちの方へ近づいてきた。その佇まいからは、おっとりとした印象が滲み出ていた。


「お待たせしたね。杉山幸作だよ。二人の名前は息子から聞いているから、自己紹介は不要だよ」


 柔らかな口調でそう語る幸作さんの言葉に、俺と沙羽は自然と立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「本日はお忙しい中、お時間を頂き、ありがとうございます」


 俺がそう礼を述べると、幸作さんは一瞬驚いたように目を見開き、すぐに穏やかな笑みに戻った。そして、緩やかな動作でソファーへ腰を下ろし、俺たちにも着席を促す。


「ご丁寧にどうも。……うちの子も、君たちみたいにしっかりしてくれるといいんだけどね」


 軽い冗談を交えるようにして話すその表情には、どこか父親らしい優しさがにじんでいた。


「いえ、とても素敵な息子さんだと思います」


 俺は思ったままの言葉を口にした。未来の杉山は、真面目で誠実な人物だった。同僚としても信頼できる存在であり、彼との日々には多くの支えを感じていた。

 その言葉を受け、幸作さんの表情がほんの少し和らいだ。


「ありがとうね。さてと……平日にも来てくれていたそうだね。こうしてまた訪ねてきたということは、それなりの理由があるんだろう?」


 核心を突くようなその問いに、俺は頷き、覚悟を持って本題を切り出す。

 ようやく辿り着いた孤児院出身者だ。

どの様な結果であれ、何か次へ繋がる情報を得る必要がある。


「お察しかもしれませんが、僕は天戸右虎の孫です」


 その名を告げた瞬間、幸作さんの目がわずかに細まった。そして、彼は湯呑みに視線を落としながら、静かに言葉を紡いだ。


「君の名前を聞いた時、何となくそう思ったよ」


 まるで遠い過去を手繰るかのような声音だった。時間の重みを感じる口調に、俺も一瞬だけ呼吸を忘れたような気がした。


「生きていると、面白いこともあるもんだね。まさか右虎さんのお孫さんが訪ねてくるなんて……。右虎さんは、元気かい?」


 その問いに、俺は静かに首を横に振る。


「残念ですが、祖父はすでに他界しています」


 その言葉に、幸作さんの表情が陰る。悲しみと懐かしさが入り混じったような目をしばらく宙に漂わせたあと、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。


「……そうだったんだね。知らなかったとはいえ、ごめんね」


 しばしの沈黙を挟んで、彼は少しずつ口を開き始めた。


「何となく、君たちがここに来た理由は分かるよ」


 その一言に、俺の胸の奥で何かがピクリと反応した。思わず表情を整え直しながら、彼の言葉の続きを待つ。


「あの洋館のことかな?」


「……お察しの通りです。よく分かりましたね?」


 俺が問い返すと、幸作さんは落ち着いた口調で頷いた。


「君と右虎さんと私の共通点なんて、それくらいしか思い当たらないからね」


「あ、あたしたちっ!?」


 驚いた様子で声を上げたのは沙羽だった。そして、すぐさま自分の思いを口にする。


「あたしたち、再開発でその洋館がなくなっちゃうのを止めたいんです!」


 真剣な眼差しで訴える沙羽に、幸作さんは少し目を細めながら短く尋ねた。


「どうして?」


 その問いに、沙羽は迷いなく答える。


「天戸くんの大切な友達にとって、そこはとても大切な場所だからです。し、正直、あたしはその洋館にどれくらいの価値があるかなんて分からないです。でも、不思議と天戸くんの話を聞いて、協力したいって思ったんです」


 沙羽の真っ直ぐな言葉に応じるように、俺も口を開いた。


「祖父が、“希望の生まれる場所にしたい”と言って建て直した場所なんです。だから、残したいと思っています」


 そう言いながら、俺は懐から用意していた孤児院出身者のリストを取り出し、彼の前に差し出す。


「これだけ多くの子どもたちが、あの場所で戦後を生き抜きました。誰にも知られず、ひっそりと消えていくなんて……そんなの、嫌なんです!」


 幸作さんは目を見開き、そのリストに視線を落とした。


「驚いた……こんな記録を残していたんだね……」


 息を呑むように呟いた彼に、俺は深く頭を下げた。


「お願いします。孤児院出身者として、せめて洋館の保存が成るよう、力を貸していただけませんか?」


 しばらくの静寂。やがて、幸作さんは重たい口調で返す。


「申し訳ないけど、私はまだ現役の公務員なんだよ。……と言っても、あと数ヶ月で定年だけどね」


「そ、そうですよね……」


 俺はゆっくりと顔を上げた。正直、この答えは想定の範囲内だった。

 公務員という立場上、公平性を重んじるために政治的な活動や市政への直接的な干渉は厳しく制限されている。再開発の是非は極めて繊細な問題であり、彼が立場を明確にできないことも理解していた。

だから、俺はどうしてもはっきりさせておきたい事がある。


「……杉山さん」


 俺は慎重に言葉を選びながら、再び口を開いた。


「杉山さんは、再開発のことをどれくらいご存知ですか?」


 その問いに、沙羽が不思議そうに俺を見る一方で、幸作さんの目が細まる。


「どういう意味かな?」


「失礼ですが……杉山さんは地域振興課にいらっしゃいますよね?」


 その言葉に、幸作さんの表情が一変する。驚きを隠せない様子だった。


「そうだけど……それがどうしたんだい?」


「……変な意図はありません。ただ、この再開発を知った時、どう思いましたか?僕なら、きっと寂しいと思うんです」


 俺は未来の杉山と重ね合わせるように、自分の気持ちを正直に伝えた。


「僕が杉山さんなら、きっと上に何か言いに行くと思うんです」


 冷静さを保とうとしながら、続ける。


「……本当に何とも思っていないんですか?ただ、街のためだけにこうなったと?」


「……別に、私はどうとも思っていないよ。ただ、街のことを考えて決まっただけさ」


「だとしても、ちょっとおかしくないですか?こんな急に再開発のスケジュールが早まったりして……。行政内で、何かあったんじゃないですか?」


 そう問うた俺に対し、幸作さんは突き放すような口調で言い放った。


「も、もうやめにしよう。君たち子どもには分からないかもしれないけど、街を良くするってのも大変なんだ。それに、私はもうすぐ定年なんだよ。波風立てずに退職して、静かに余生を過ごしたい。それが正直な気持ちなんだ。……すまないが、私にできることは何もない」


 その言葉を最後に、幸作さんは立ち上がり、静かに部屋を後にした。


 残された俺たちは、無言のままお互いを見つめ合い、やがて静かに頭を下げ、杉山邸を後にした。



 杉山邸を後にして、俺たちは黙ったまま歩き始めた。初夏の空気は少し湿気を帯びていて、どこか気だるさを感じさせる。舗装された歩道を踏みしめながら、俺と沙羽は地下鉄の駅を目指していた。けれど、その静けさは長くは続かなかった。


 ぽつりと、沙羽が不満を口にした。


「むー……。ちょっとくらい協力してくれたらいいのにっ!!」


 頬を膨らませてふくれっ面を作り、長いまつ毛に囲まれた大きな瞳を細める彼女。その目元には諦めきれない想いが滲んでいて、ふっと唇をすぼめては、また不満げに歪めた。怒りというよりは、納得のいかないやるせなさがその声に宿っていた。


 そんな彼女を宥めるように、俺は肩をすくめて言葉を返す。


「まぁ、しゃーないだろう。杉山さんにも、杉山さんなりの事情があるんだよ」


 冷静を装いながらも、内心では少しばかりもやもやした感情を感じていた。けれど、それを言葉にすることはなかった。怒りよりも、確かめたい何かが俺の中にあったからだ。


 沙羽はじっと俺を睨みつけるように見上げてくると、不機嫌さを隠さず声を上げた。


「天戸くんは随分と冷静だね?もっと怒りなよ!?」


 そう言うなり、彼女は拳を軽く握って俺の肩をポカポカと叩いてきた。痛みはなかったが、その行動から伝わる彼女の苛立ちは十分すぎるほど伝わってくる。


「昔の思い出の場所が無くなるのにさ。見た目によらず、ドライだよねー?」


 ぶつけられた言葉に、俺は少し笑って、わざと軽い口調で返す。


「そうでもないと思うぞ?」


 予想外の返答に、沙羽は不思議そうな顔をして首を傾げた。


「何故に?why?」


 英語を混ぜて疑問をぶつけてくる沙羽。その反応が面白くて、俺は少し間を置いてからゆっくりと答えた。


「うーん……。ほら、俺が来た理由を当てただろ?あの人」


「うんうん」


 頷きながら、沙羽は俺の言葉の続きを待つ。


「確証はないけどさ?本当に何も思ってなかったら、あんなにすぐに察することなんてできないと思うんだよ。少しでも心に引っかかるものがあったから、ああいう反応になったんじゃないかって」


 そう告げると、沙羽は納得いかないという顔のまま、再び頬を膨らませた。


「ならさ!ならさ!何で最後あんなに冷たいのさ!?」


 声を上ずらせながら、彼女は地団駄を踏みたくなるような様子で地面を見つめた。怒りと戸惑い、そして悔しさが入り混じった、複雑な感情がその背中に現れていた。


「いや、アレでいいさ」


 俺がそう静かに言うと、沙羽は驚いたように俺を見つめた。


「何それ?よくないでしょうよ!!」


 ビシッと俺の腕に手の甲で軽くツッコミを入れると、彼女は大きくため息を吐いた。


「結構苦労したんだよー?出身者見つけるの……。またまた振り出しに出戻りじゃーん……」


 項垂れるように肩を落とし、がっくりと落胆の姿勢を見せる沙羽。その後ろ姿を見つめながら、俺は内心で思っていた。


 ――決して、振り出しには戻っていない。今日の出来事が、確かに何かを動かし始めている。


 その手応えを、俺は確かに感じていた。


「三宮、お前は今日はこの後どうするんだ?」


 静かに話題を変えると、沙羽は顔を上げて答えた。


「んー?署名活動の方に参加しに行くよ?こうなったら、意地でもやってやる!!」


 その瞳には、先ほどの怒りとはまた違った、まっすぐな決意の色が宿っていた。彼女の持つエネルギーに、俺は少し感心しながらも口を開く。


「なら、先に行っててくれないか?この後、ちょっと会っておきたい人がいるんだ」


 その言葉に、沙羽は眉をひそめ、怪しむような視線を向けてくる。


「いいけど、女?」


「んなわけねぇだろ」


 即座に否定すると、彼女はふっと笑って冗談だったと言わんばかりに言った。


「冗談、冗談!なら、先に行って会長さんには伝えておくね!」


 イタズラっぽく微笑んで、沙羽は手を振りながら地下鉄の階段の方へと駆けて行った。その姿が遠ざかっていく中、俺はその背中に小さく礼を言った。

 そして、静かになった道に一人残された俺は、そっとポケットに手を入れる。そこにはある一枚の紙切れがある。

 それを取り出すと確認するように指先で触れながら、俺はガラケーを取り出し、ゆっくりと開いた。通話履歴でも連絡帳でもなく、俺は直接番号を打ち込んでいく。そして、静かに通話ボタンを押した。



 沙羽を見送ったあと、俺は地下鉄に乗り、中心街の一駅手前で電車を降りた。ホームに降り立った瞬間、アスファルトの熱気が靴の裏越しに伝わってくる。日は少し傾き、照り返しは少しやわらいでいたが、空気にはまだ土曜の午後らしい喧騒が残っていた。

 改札を抜けると、人の流れに逆らうように足を進め、駅前ロータリーへと向かう。車のクラクションとアナウンスの音が交錯する中で、少し人通りの少ない場所に立ち止まり、俺は待った。じきに、一人の男がこちらへと歩いてくる。


「やあ、天戸君」


 呼びかけられて顔を上げると、涼しげな表情で手を上げる灘さんの姿があった。白いワイシャツの袖を軽くまくり、ネクタイは少し緩めている。その佇まいは、どこか余裕と鋭さを併せ持っていた。

 俺は軽く頭を下げ、礼を述べる。


「土曜日なのに、急にお呼びしてしまってすみません」


 灘さんは肩をすくめながら、口元に笑みを浮かべた。


「いいよ、別に。もともと今日も仕事が休みってわけじゃないしね」


 その言葉に、俺は苦笑を返す。さすが新聞記者。平日も休日も関係なく、常に情報を追いかけているのだろう。時代に埋もれない熱意のようなものが、彼の全身からにじみ出ていた。

 俺たちは軽く言葉を交わした後、駅の近くにある喫茶店へと足を運んだ。店内は落ち着いた雰囲気で、木製の家具が並び、少し古めかしい洋楽がBGMとして流れている。空いていた窓際の席に案内され、互いに腰を下ろした。

 水の入ったグラスがテーブルに置かれると、すぐに俺たちはそれぞれコーヒーを注文した。注文を終えると、灘さんは胸ポケットからタバコを取り出し、吸っても構わないかと視線で問いかけてきた。俺は小さく頷く。

 彼は慣れた手つきで火を点け、紫煙をゆっくりと吸い込み、しばらくの間、吐息とともにそれを空中へ流した。煙がゆらゆらと揺れて、まるで空気ごと思考を撹拌しているかのようだった。

 俺は少し背筋を伸ばし、テーブル越しに彼を見据えながら、口を開いた。


「早速なんですが、今日お時間を頂いたのは、ちょっとお話したいことがありまして──」


 言いかけたところで、灘さんが微笑みを浮かべて口を挟んだ。


「地域交流フェスタのとき、君にはいろいろ驚かされたよ。あの記事も、結構評判が良かったんだ。次はどんな話を持ってくるのか、楽しみにしてるよ」


 軽く冗談めかしながらも、目の奥には鋭い光が宿っていた。そんな彼の言葉に俺は表情を引き締め、真剣な声で切り出す。


「実は今、俺たちの高校では、とある地域の再開発に対して、行政への反対運動を起こそうとしています」


 静かにそう告げると、灘さんの目がわずかに見開かれた。手にしていたタバコを灰皿の縁に軽く叩き、ぱさりと灰を落とす。


「それはまた、どうして?」


 促されるように、俺は洋館の歴史について語った。なぜそれを残すべきだと思うのか。聞こえの良い様に学校での活動を通じた学びにあることも丁寧に説明した。

 しばらく話を聞いていた灘さんは、言葉を吟味するように静かにタバコの火を消し、運ばれてきたコーヒーに口をつけた。その仕草一つひとつが、経験に裏打ちされた重みを持っていた。


「なるほど。君たちの活動を取り上げてほしい、ということかな?」


 俺が小さく頷くと、彼は少し目を細め、現実的な口調で言った。


「まず、気持ちとしては協力したいと思ってるよ。でもね、行政側にも事情があるだろう?一方的に君たちに肩入れするような記事を載せるのは、やっぱり難しい。そして正直、読者層の関心を引けるかどうかという点でも、慎重にならざるを得ないんだ」


 言われるまでもなく、俺にもそれは分かっていた。新聞は慈善事業ではない。より多くの読者の関心を集める話題こそが記事として価値を持つ。今の俺たちの活動がそれに足るかどうか、自信を持てるとは言えなかった。

 小さく息を吐き、俺はポケットに手を入れた。そして、そこから黒く小さな録音機を取り出し、そっとテーブルの上に置いた。サイズはガラケーほどで、上部には小さな集音マイクが付いている。


「……録音機?」


 灘さんがそれを見て、眉をひそめる。俺は静かに頷いた。


「そうです。今、俺は孤児院の出身者たちを訪ね歩いて、反対運動への協力をお願いしています。その中で、もしかしたら有用な情報が手に入るかもしれないと思い、常にこれを持ち歩いて録音しているんです」


 俺は録音機を手に取り、少しだけ掲げるようにして言葉を続けた。


「ついさっきも、ちょっと気になる話が聞けました」


 そう言ってから、俺は話の核心へと切り込んだ。


「もともと、洋館周辺の再開発はもっと先の予定だったんです。でも、最近になって急に前倒しされて、行政は一年後には工事を始めると言い出しました。しかも、職員が休日を使ってわざわざ対象地域に出向いて、説明までしているんです」


 灘さんは黙ったまま、俺の言葉に耳を傾けていた。その表情は、先ほどまでの高校生に向けられていた穏やかなものではなく、記者としての顔に切り替わっていた。


「どう考えても不自然だと思いませんか?住民の移転を伴う再開発なんて、もっと慎重に進めるべき案件のはずです。しかも洋館のある場所は、山の坂の途中。決して立地条件が良いとは言えません。街の利益を考えるなら、他に優先すべき地域があるはずです」


 俺はそう言いながら、持参していた資料をカバンから取り出し、テーブルの上に並べた。再開発に関する説明会の日程、検討開始のタイミング、関係者の発言録など、調べ得た限りの情報をまとめたものだ。

 さらに、録音機にイヤホンを差し込み、それを灘さんへと差し出した。


「核心を突くような発言はありませんが、これは現役の公務員の言葉です。慎重に話そうとしていたけれど、明らかに何かを隠しているような言い回しでした」


 灘さんは無言でイヤホンを受け取り、それを耳に装着した。そして、再生ボタンを押す。ゆっくりと目を閉じ、集中して録音内容に耳を傾ける。その姿を見つめながら、俺は唇を引き結んだ。

 正直に言えば、自分がしていることが正しいとは言えない。無断での録音、そして第三者への提供。こうした手段が、他人の人生にどんな影響を及ぼすか、わからないわけじゃない。

 それでも俺は──やるしかないと思っていた。たとえそれが、幸作さんや杉山の未来を変えることになっても。俺には、守りたいものがある。俺にとっては、彼らの未来よりも──暦の未来の方が大切だった。

 もしそのために、誰かを犠牲にしなければならないなら、俺は迷わない。そう覚悟を決めていた。

 数分後、灘さんはイヤホンを外し、録音を停止した。


「……これだけじゃ、確かなことは言えないけれど──」


 ぽつりとそう言ってから、続けた。


「でも、確かに違和感はある。君の言うように、前倒しの決定と、核心から逃げるような話し方。始めと終わりで明らかに態度が違っていた」


 彼は再びタバコを取り出し、火を点ける。煙をゆっくりと吸い込み、今度は天井へと長く吐き出した。


「僕も、それなりに記者をやってきた。確かに──これは、何かあるかもしれない」


 俺はうなずき、言葉に力を込める。


「俺は、絶対に何かあると思ってます」


 未来で知った断片的な記憶が、俺の確信を後押ししていた。行政が使う業者の選定が常にクリーンだったとは限らない。今回も、きっと同じだ。


「……いいだろう。こちらでも少し調べてみるよ。何かわかったら、君にも連絡しよう」


「ありがとうございます」


 深く頭を下げた俺を見て、灘さんは苦笑しながら言った。


「君は、普通じゃないと何となく思っていたけど……本当に恐ろしい子かもしれないね」


 冗談交じりのその言葉は、俺の胸の奥深くに沈んだ。だが、その一言が、俺の中の覚悟に火を灯した気がした。

──俺は、暦を救うためなら、どんな手でも使う。

 その誓いを、改めて心の中で固く結んだ。


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