31話:過去の観測
翌日の土曜日。
気がつけば、歴や未来の暦との邂逅から、すでに一週間が過ぎていた。
俺の都合などお構いなしに、無情にも流れていく時間。その速さに、俺は焦燥感を隠しきれずにいた。
今、俺は「神影電鉄」と呼ばれるローカル線の電車内にいた。鉄の車輪が線路を噛むたびに伝わる振動に身を任せながら、揺られている。
昨日、晴人たちに話した“あて”に向かっている最中だ。
電車は駅に止まり、また動き出す。その繰り返しが、やけに長く感じられた。
そんな車内で、俺は思い返していた。歴によって解凍された記憶の中、暦と口論していた彼女の言葉を。
──右虎の血脈にこだわる必要はないっ!! 別に血が絶えるわけではないんだぞ?
「右虎」という名前。歴の口から発せられたその名に、俺は聞き覚えがあった。
それを確かめるために、今日こうして電車に揺られている。
しばらくして、目的の駅に到着した。
土地の名は「鈴花台」。
神影市の北部に位置し、神影電鉄で中心街から約40分ほどかかる。六麓山を切り開いて造られた郊外エリアだ。
かつて日本全国で移住ブームが起きた時期があった。その際、行政はこのエリアの開発に力を入れた。
だが、ブームが過ぎると、中心街へのアクセスの悪さ、そして坂の多い神影市の中でもひときわ傾斜の激しいこの土地は、次第に人が離れていくようになった。
今では、神影市でも屈指の過疎地域。まるで衰退そのものを象徴しているかのような場所だ。
駅前のロータリーに出た俺は、ちょうどやってきたバスに乗り込み、さらに奥地を目指す。
バスの車内は中心街とは違い、乗客の姿はまばら。そのほとんどが高齢者だった。
やがて、目的地にほど近いバス停で下車。
そこから歩くこと約10分、俺は一軒の戸建ての前で足を止めた。
表札には『天戸』の文字が掲げられている。
俺はチャイムを鳴らす。すると、スピーカーから年配の女性の声が聞こえた。
「はーい?」
その声に、俺は答える。
「ばあちゃん、久しぶり。湊だけど、ちょっと聞きたいことがあって……上がっていい?」
「いいわよ? どうしたの?」
──右虎。
歴は確かに、そう言った。
「じいちゃんのこと、聞きたくて」
天戸右虎。
それは、俺の祖父の名前だった。
詳しい事は暦本人から聞こうと思っていたが、結果的にここに辿り着いてしまったのだった。
*
祖母に居間へ通された俺は、目の前に置かれた緑茶の湯呑みに視線を落とした。
少しして、彼女はゆっくりとした足取りでテーブルに着き、こちらに顔を向ける。
加齢によりやや薄くなった白髪。刻まれた皺は、その人生の長さを物語っていた。
未来の暦が観測してくれた記憶によれば、彼女は俺が26歳を迎えて間もなく、老衰で亡くなるはずだった。
享年92歳──まさに大往生だ。
人はいつか死ぬ。それは悲しいことだが、決して悲劇ではない。
それでも、まるで自分の記憶のように脳裏を駆ける“未来の記憶”に、俺は少しだけ表情を曇らせた。
暦を救い出し、俺の命が未来へと繋がれば、彼女が生きているうちにもっとここを訪れよう。
そう思いながら、込み上げる感慨を抑え、俺は話を切り出した。
「さ、さっきも言ったけど、じいちゃんのこと、少し教えてほしくて……」
「湊がそんなこと言うなんて珍しいわね」
祖母は、柔らかな口調でそう言った。
確かに、同居でもしていない限り、孫が祖父の過去に興味を持つことなど滅多にないだろう。
「でもね、湊があの人に関心を持ってくれるのは、きっと本人も嬉しいと思うわ」
そう言いながら、彼女はふと遠くを見るような目をしたあと、視線を仏間の方へ向けた。
そこにいるはずもない、亡き祖父──天戸右虎の気配を追うように。
祖父が亡くなったのは、今から約3年前のことだ。
もともと病気がちで床に伏せることが多かったが、ある日、病院で静かに息を引き取った。
苦しんだ様子はなく、どこか満ち足りたような穏やかな表情だったことを覚えている。
「ばあちゃん、じいちゃんが昔、孤児院に関わってたって話、知ってる?」
その問いに、祖母は驚いたように目を見開いた。
「あら?誰から聞いたの?お父さんも知らないことよ?」
彼女の言う「お父さん」は祖父のことではなく、俺の実の父のことだ。
俺はその質問には答えず、さらに問いを重ねた。
「ばあちゃん、“神戸暦”って人のこと、知ってる?」
俺は目を細めた。
暦が語っていた「俺に似ている人物」。
マザーが「俺に似ている」と言っていたその人物。
小さい頃から、俺の顔は祖父によく似ていると周囲から言われていた。
──もう、答えは出ている。
かつて暦と関わり、戦後の神影市で暗躍したのは、間違いなく祖父、右虎だ。
ならば、その妻である祖母も、暦のことを知っている可能性がある。
みんなが暦の存在を忘れていても、マザーは覚えていた。
つまり、過去に存在した暦は、消えていない。
そこに何か手掛かりになるものがあるかもしれない。
俺の問いかけに、祖母は少しだけ視線を落とし、やがてゆっくりと語り出した。
「ごめんね……その人のことは知らないわ」
予想とは異なる返答に、俺は思わず表情を曇らせた。
それを見てか、祖母は言葉を継ぐ。
「でもね、孤児院のことは知っているわ。戦争に関わった人間としての“役目”だって、あの人は言ってたわ」
「ばあちゃん、その孤児院にいた人たちのこと、何か覚えてる?」
俺の質問に、祖母は首を横に振った。
「私があの人と出会ったのは、あの人が25歳の頃だからねぇ……」
俺は年代と年齢から、彼女と祖父が出会ったのが1952年であると推測した。
孤児院が閉鎖されたのはその一年前──つまり、祖母はその活動を知らない可能性が高い。
ここで手詰まりか……と、苦い顔を浮かべかけたその時、祖母がふと口を開いた。
「そういえば、あの人が亡くなる前に、『絶対に捨てるな』って言ってた物があるのよ」
その言葉に、俺はハッとして顔を上げた。
「それって……?」
「錆だらけのブリキの箱よ。遺品は好きに処分していいって言ってたくせに、それだけは『絶対に捨てるな』って。だから、ちゃんと取ってあるわ」
そう言うと祖母は立ち上がり、廊下の奥へと姿を消した。
しばらくすると納屋の方から小さく独り言のような声が聞こえ、その後、目的の品を手に戻ってきた。
彼女の手にあるそれは、話の通り、錆まみれのブリキの箱だった。
サイズは一辺が20センチにも満たない程度で、さほど大きくはない。
「はい、これよ」
そう言って祖母は俺に箱を手渡した。
俺はひんやりと冷たい箱を受け取り、その軽さを確かめた。
「中身、見たことある?」
俺が尋ねると、祖母は首を横に振った。
「見てみようと思ったんだけどねぇ……開かないのよ、それ」
俺は試しに、箱の蓋に力を込めてみた。
すると、祖母の言葉とは裏腹に、それはあっけないほど簡単に開いた。
「……あれ?」
「まぁ……?」
俺たちは、まるで血の繋がりを証明するかのような間の抜けた声を揃えて漏らした。
ブリキ箱の中には、一冊の日記帳のようなものが入っていた。
かなり古びたそれは、紙が黄ばみ、わずかにカビ臭い匂いを漂わせている。
俺は慎重にそのページを開いた。
「これって……」
まだ内容を精査したわけではないが、おそらくこれは、孤児たちがどこへ引き取られていったのかを記したリストだと、直感した。
無駄足にならずに済んだ──俺は安堵の息を漏らした。
「ばあちゃん、ありがとう。探してたもの、見つかったよ」
そう告げると、祖母はふんわりと微笑んだ。
「それなら良かったわ」
そして、俺がリストを食い入るように見つめていると、彼女はゆっくりと言葉を継いだ。
「……まぁ、勝手に見るなって天国のお爺さんが言ってるのかもね」
祖母はそう言って口元に手を添え、ふふっと笑った。そして、俺に告げた。
「それ、湊にあげるわよ」
「えっ?本当に?じいちゃんの形見……だろ?」
「いいのよ。あの人も、孫になら文句は言わないと思うし、なんだか湊に見せたかったのかなと思ったのよ」
「……ありがとう」
俺は、その言葉に甘えることにした。
ありがたくそれを受け取り、大切に鞄に仕舞い込んだ。
その後も祖母にいろいろと話を聞いてみたが、このリスト以外、有益な情報を得られなかった俺は、祖母の家を出た。
*
家に戻った俺は、祖母の家で手に入れた古びたリストを、改めて丁寧に確認していた。
あのブリキ箱の中に大切に保管されていた、日記帳のようなそのリスト。ページの端は擦り切れ、紙は時間の経過を物語るかのように黄ばんでいる。
一枚一枚を慎重に捲りながら、俺は自分の予感が的中していたことを確信した。
これは間違いなく、孤児たちに関する記録だった。
そこには名前、引き渡し日、受け入れ先の家の住所や家主の名前が、達筆な文字でびっしりと書き込まれていた。
だが、これで一安心──と浮かれるわけにはいかなかった。
このリストがどれだけ貴重な手がかりであろうとも、それだけで出身者にすぐ辿り着けるような簡単な話ではない。
記録にある引き渡し日は、どれも遥か昔のものだった。一番古いもので1946年、一番新しくても1951年。
つまり、今から50年以上も前の話だ。しかも神影市は、わずか10年前に大規模な震災に見舞われている。あのとき多くの家屋が倒壊し、それを機に他所へ移り住んだ人々も少なくない。
記載されている住所が今もそのまま機能している保証はないし、家主の名前も既に変わってしまっているか、あるいは亡くなっている可能性だってある。
情報はある。だが、そこから「今」へ繋げるのは並大抵の作業ではない。俺はそんな現実に頭を抱えながら、ページをゆっくりと捲っていった。
「木村さんって子供は……佐藤さんの家に引き取られた……。で、この子は杉山さん家に行ったのか……」
小さな声で呟きながら、俺はリストに目を走らせ続ける。
いつの間にか部屋の静寂が心に重くのしかかり、時間だけが無情に流れていく。
最後のページの杉山さんの部分まで追い、息をつく。そして同時に、肩にどっと疲れがのしかかってくる。
これは……正直、骨が折れる作業だ。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
俺は小さく呟いた。
「暦を助けるためだ」
そう、自分に言い聞かせるように。
彼女の未来を救うという決意。それが俺の原動力だった。
そのとき、不意に日記帳の間から何かが滑り落ちた。小さな音を立てて床に舞い落ちたそれを、俺は緩やかな動作で拾い上げた。
手に取ってみると、それは一枚の黄色がかった光沢のある紙だった。角には小さく折れがあり、「昭和26年」と、見事な筆致で記されている。
裏返すと、そこには古い白黒写真があった。銀塩写真特有の、ややぼんやりとした質感がある。
写っているのは、どこか見覚えのある洋館を背景に、並んで立つ二人の人物。
一人は祖父、天戸右虎。若かりし頃の彼の姿がそこにはあった。
そしてその隣には、暦の姿。色までは分からないが、彼女はシンプルなワンピースを着て、帽子をかぶっていた。
けれど、なぜか彼女は写真の中で仏頂面をしていた。笑っているわけでもなく、怒っているようでもない。
ただ、不満げに唇をへの字に曲げていた。
「ホントに変わってないんだな……」
俺は思わず、苦笑を漏らす。
撮影されたのは昭和26年。今から54年前の写真だ。だというのに、そこにいる彼女は、俺の知っている暦と寸分違わない。
時を超えて、変わらず存在している彼女の姿。
それがどこか愛おしく、どこか切なかった。
「はぁ……」
俺は深く、溜め息を吐いた。
自分の手で未来を変える。その使命感が、時折こうして形になって俺の胸に重くのしかかる。
写真の中の彼女の姿に、俺は言い知れぬ安心感を覚えた。けれどそれと同時に、手が届かない何かに対する虚しさもあった。
「じいちゃんと一緒にいたときの暦ってどんな感じだったんだろうな」
俺は椅子に深くもたれかかり、首をぐっと仰け反らせて、天井を見上げた。
心の奥で、静かにひとつの言葉が漏れる。
──ああ、これは重症だな。
その呟きは、苦笑とも溜め息ともつかない。そして空気を揺らすことなく俺の心中にある部屋の静けさに溶けていった。