29話:運命の星
諸事情により、次回投稿が1週間ほど遅れます。
申し訳ございません。
「何か得るものはあったのだ?」
静かな廊下に、ロナの少し不機嫌そうな声が響いた。
マザーの書斎から出てきた俺を待っていたのか、ロナは教会の赤煉瓦の廊下に立ち、やや頬を膨らませたような表情でこちらを見ていた。
煉瓦の床に立つローファーが、コツンと乾いた音を立てる。待ちくたびれたのだろう。腕を組み、体を少し揺らすその仕草には、どこか年相応の少女らしい不器用さがにじんでいた。
俺は苦笑を浮かべながらも、感謝の気持ちを込めて言葉を返した。
「ああ、助かった。ロナには感謝しかない」
その一言で、ロナの表情がわずかに和らぐ。口元に浮かんだ微笑みは、どこか照れくさそうで、けれど嬉しそうでもあった。
「それなら良かったのだ」
素直な笑顔を見せながら、彼女は身を翻し、俺を出口の方へと導くように歩き出した。陽の光がステンドグラスを通して床に投げかける七色の模様の上を、彼女の影が静かに滑っていく。
しばらく歩いたところで、ロナがふとこちらに顔を向け、首をかしげるように問いかけた。
「ミナトは、どうしてそんなに色に狂っているのだ?」
唐突な言葉に、俺は一瞬きょとんとし、すぐに苦笑して首を横に振った。
「狂ってない」
即答すると、ロナは何か可笑しかったのか、小さく肩を揺らして笑い始めた。口元を押さえているが、笑いがこらえきれていない様子だ。
「今はそういうことにしておくのだ」
彼女の瞳が楽しげに細められ、陽の光に照らされた琥珀色が一層あたたかく輝いて見えた。そのままの流れで、ロナは少しトーンを落とし、静かに続けた。
「ならどうして、その暦のために頑張るのだ?」
それは、どこか核心を突く問いだった。ロナの真剣な視線を感じながら、俺は言葉を選び、ゆっくりと答えた。
「暦は俺の恩人なんだ」
「恩人?」
ロナは小首をかしげ、目を丸くする。普段の不思議めいた雰囲気とは裏腹に、その時の彼女の表情は年相応の少女そのもので、まっすぐな驚きをたたえていた。
「ああ、恩人だ。俺のことを、いつも助けてくれていた。俺はまだ、暦に何も礼ができていないんだ」
過去の記憶が胸の奥で温かく灯る。何度も支えてくれた彼女の笑顔、言葉、そしてその手の温もり。それらを思い出しながら、俺は言った。
ロナは背筋を伸ばし、腰の後ろで両手を組むと、前を見たまま再び歩き出した。その姿には、どこか修道女としての凛とした品格が宿っていた。
「つまりミナトは、その暦に恩返ししたいのだ?」
「ああ、さもありなんだ」
俺は暦の口癖を口にした。たまにはこういうのも悪くない。
だが、その言葉にロナはぴたりと歩みを止めた。そして、驚いたようにこちらを振り返る。
「……何なのだ、それは?」
「そうだな。『当然だ』、みたいな意味だよ。暦の口癖なんだ」
そう説明すると、ロナは数秒の沈黙の後、突然吹き出し、腹を抱えるようにして笑い出した。
「あはははっ!? ミナトは面白い男なのだ。気に入ったのだ!」
「それはどうも……」
俺は小さくため息をつく。気に入られるのは悪いことじゃないが、どうもこの少女のペースに乗せられている気がしてならない。
ロナは近くにあった献金箱のようなものを親指で軽く指し示した。その仕草には、どこか悪戯っぽさが漂っていた。
「お気に入りにしてやったのだ。お布施していくのだ!」
「……はい」
仕方なく財布を取り出し、俺は紙幣を献金箱へ滑り込ませた。
*
「それじゃあ、ミナト、気をつけて帰るのだ!」
笑顔で手を振るロナを背に、俺は教会の門へと向かった。結局、お布施として3980円を納めた。高校生の小遣いとしては決して軽くない出費。俺の財布の中身は一気に三分の一以下に減った。わずかに返された20円玉だけが、手のひらの中で妙に重たく感じられた。
それでも、俺の心には後悔はなかった。
「ああ、ありがとう」
振り返り、ロナに礼を告げる。実際、ここに来て得られた情報は大きい。洋館について、確かな手がかりを掴むことができた。金なんて、感謝の気持ちと引き換えにするには、むしろ安いものだった。
そろそろ帰ろうと足を踏み出そうとした、その時だった。
「ミナト」
不意に呼び止められ、俺は足を止めて振り返る。
そこには、いつの間にか真剣な顔つきになったロナが、じっとこちらを見つめていた。先ほどまでの戯けた笑みは消え、彼女の瞳は深い琥珀の光を湛えていた。
「お前は目的を何としてでも果たすのだ。そして、それを成すためには、ミナトだけの力では無理なのだ。時に皆に己の思い、感情の真実を伝える必要がある」
「ロナ……?」
その声は風の音に溶けそうなほど静かで、それでいて芯のある響きを持っていた。ロナの琥珀色の瞳が、まるで恒星のように揺らめきながら俺を捉えている。小さな唇が紡ぐ言葉の一つひとつが、体の奥にしみこんでいくような錯覚すら覚えた。
「時に運命の星は、真の感情を根源に今を照らすのだ。覚えておくのだ。人の持つ感情、人の意思こそが、この宇宙でもっとも強い運命を変える奇跡なのだ」
その瞬間、突風が教会の庭を駆け抜けた。目を細めながら顔を覆うと、風にまぎれてロナの姿が視界から消えていた。
代わりに、ギイィと鉄製の門が風に押され、ゆっくりと閉まり、俺とそこに隔たりを作った。
「……奇跡」
俺は一人、閉じた門の前でその言葉を繰り返した。何度も、何度も心の中で反芻しながら、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
*
次の日。
ずっと立ち止まっていたって、何も変わらない。変わらないままなら、何かが失われていくだけだ。俺は、意を決して動き出すことにした。
きっかけは──いや、言い訳かもしれない。でも、ロナのあの言葉が、胸の奥にしっかりと刺さって離れなかったのは事実だった。まるで天使か悪魔か分からない、幼い見た目のあのシスターもどきの少女。あの子の不思議な声色と、どこか確信めいた口調に、俺の心は揺さぶられた。
他人から見れば、きっとこう思うだろう。「そんな幼女みたいな変な子の言葉を真に受けて動くなんて、頭がおかしいんじゃないか」って。
でも俺は、それでも信じてみたかったんだ。たとえ根拠がなくても、戯言だったとしても、心のどこかで、それが”正しい”と感じた。──いや、感じてしまった。だからこそ、俺は前に進むことに決めた。暦を救えるなら、どんなことでもやれる気がした。
その一歩目が、今日だった。
「晴人!三宮!」
教室の扉を勢いよく開けた俺は、自分の席も見ずに二人の名を呼んだ。ちょうど登校していた晴人と沙羽がこちらを振り向く。その顔には、驚きと安心、そしてちょっとした嬉しさが混ざったような表情が浮かんでいた。
「アマミナじゃん!元気になったんだな!」
「もう〜、天戸くんがいなかったせいで、桂木くんの相手大変だったんだからっ!」
二人は各々のテンポで言葉を返してくれる。それだけで少し心が救われた。俺は笑って、短く謝ったあと、深呼吸をしてから席についた。
そして、思考する。何を言えばいいか、どう切り出せばいいか、まだ分からない。けれども、今ここで言わなければ、きっともう、間に合わない気がした。
「……急にこんなことを言って悪いとは思ってるんだけど──」
「なに? 改まって?」
「どうしたの、天戸くん?」
首を傾げる二人。俺は、迷いながらも口を開く。ロナの言葉が、頭の中で何度も何度も、まるで祈りのように反響していた。
──己の思い、感情の真実を伝える必要がある。
今、ここがその時だと感じた。運命の星が導くなら、俺の声は届くはずだと信じて。
「……協力してほしいことがあるんだ」
「おおう?何だ何だ?」
晴人が机に身を乗り出す。その顔は興味深々で、でもどこか真剣だった。
俺は、心の奥底から湧き上がる思いをそのままぶつけた。
「……実は、俺の大切な友達の、大事な場所が……今、失われようとしてるんだ」
「友達って……もしかして、前に言ってた……暦さん?」
沙羽がそっと言葉を挟んだ。俺は黙って彼女に顔を向けて、強くうなずく。
「そうだ。暦にとって大切な場所なんだ。生元から、少しだけ離れた場所にある古い洋館が、再開発の計画で……取り壊されようとしてる」
二人は一言も発さずに、俺の話に耳を傾けてくれた。その沈黙が、俺に続ける勇気をくれた。
「どうしても、それだけは止めたい。暦のために、守ってやりたいんだ。けど……どうしていいか分からない」
声が震えていた。言葉を選ぶ余裕も、整える余白もない。ただ、俺の胸にある感情が、洪水みたいにあふれて止まらなかった。
「暦はこの街と共にあって、暦はずっと俺や晴人、三宮のこともずっと見ていた。俺はいつも暦に助けられいた。俺は暦に何の恩も返せていない。いつもいつもあいつに迷惑ばかりかけて、いつも励ませれていた。俺みたいな情けない男にいつもあいつは笑顔をくれた」
呼吸が荒くなっていた。胸の奥が焼けるように熱い。
「晴人っ、お前は忘れているだけなんだ。三宮お前もだ。お前らとこうして出会い、今を作ってくれたのは他でもない、暦のおかげなんだ!!」
抑えていた声が震える。
「俺は、何としてでも……星から暦を取り返したいんだ」
言葉の意味なんてもうどうでもよかった。ただ、この想いを伝えたかった。自分一人の力じゃ足りないと、分かっていたから。
「でも……どうすればいいのか、本当に分からない。俺一人では星に勝てない。だから、お願いだ……俺に力を貸してくれ」
涙をこらえきれず、目元が熱くなった。教室のざわめきが一瞬遠のいて、時間が止まったように思えた。
そして、ようやく、晴人がぽつりと口を開いた。
「……アマミナ。何を訳のわからないこと言ってんだよ」
その声に、胸がギュッと締めつけられる。やっぱり、こんな話、バカみたいだと思われたかもしれない──そう思った瞬間だった。
「……訳わかんねぇけどさ」
晴人は小さく息を吐きながら、ゆっくりと笑った。
「それでもさ、アマミナがここまで真剣に話してるってことは……きっと、すっげぇ大事なことなんだよな。だったら、協力するしかねぇだろ」
「晴人……!」
俺が見上げたその先で、彼はいつものように、ムカつくくらい爽やかで、でも眩しいほど真っ直ぐな笑顔を浮かべていた。
「はいはーい!あたしも協力するよー!天戸くんが意味のないことを、こんな風に言うわけないって、分かってるもん!」
続けて沙羽が元気よく手を挙げた。その声に、どこか涙腺の限界が崩れ落ちた。
「ふ、二人とも……あ、ありがとう……」
嗚咽混じりの声が漏れる。もう、泣かないつもりだったのに。涙が、勝手に流れて止まらない。
「ちょっ!? アマミナどうした!?流石に教室で泣くのはヤバいって!」
「う、うっせーよ……!」
俺は目頭をぬぐいながら、精一杯の照れ隠しで叫んだ。
*
次の日の放課後。静まり返った校舎の一角、ほのかに夕陽が差し込む図書室の奥まった席に、俺たちはひっそりと集まっていた。
本来ならそれぞれの放課後がある時間だ。
「……二人とも、部活はいいのか?」
俺はふと気になって、そう尋ねた。本当なら晴人はサッカー部の練習、沙羽は吹奏楽部の練習があるはずだった。どちらも、休むには少しばかり理由が必要な部活だ。
申し訳なさと、少しの遠慮を混ぜながら俺が問いかけると、二人はまるで示し合わせたかのように軽く笑って答えた。
「今日、体調悪いから休むわ〜」
晴人はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「あたしも今日は音楽の気分じゃなーい!」
沙羽はふんっと鼻を鳴らしながら、明るくそう言った。
──きっと、俺に気を遣ってくれたのだろう。
その優しさが嬉しくもあり、同時に胸が苦しくもなった。俺のために彼らが自分の時間を犠牲にしてくれている。そう思うと、感謝の言葉ひとつじゃ到底足りなかった。
「……ありがとう。助かるよ、ほんと」
声にすると少し情けなく聞こえてしまって、思わず視線を落とした。
するとすぐに、晴人が前のめりに身を乗り出し、遠慮なんか一蹴するような勢いで話を切り出した。
「それで?その再開発ってやつ、どうやって止めるつもりなんだ?」
その言葉に続くように、沙羽が明るく手を挙げる。
「あたし知ってるよー!駅前とかでさ、反対の署名活動とかするやつでしょ?」
「ああ、なんか、聞いたことあるな。社会の授業でそんな例が出てた気がする」
晴人は腕を組んで考え込むように唸る。
「で、そもそも、その再開発っていつから始まるんだ?」
俺はその質問を予想していたかのように、カバンから一枚の紙を取り出した。そこには、事前にネットや市の広報などから集めた情報を、自分なりにまとめたものがある。
「……年内には、対象地域の立ち退きを完了させる予定らしい」
その一言に、二人は目を見開いて、声をあげた。
「うっそ!?なにそれ!?おかしくない!?」
沙羽は驚きを含んだ声でそう言う。
「俺、こういうの詳しくないけどさ……さすがにそれ、急すぎるだろ」
晴人も同調するように口を開く。
「ああ、俺もそう思う。でも、現実として、そうなってるみたいなんだ」
この状況は、明らかに異常だった。
再開発というのは、本来、数年かけて地域住民と行政が丁寧に話し合いを重ね、ようやく実行に移されるものだ。住人の理解と合意を得るには、それだけの時間と配慮が必要とされる。3年、5年、場合によっては10年単位の時間が必要な繊細な事業のはずだ。
それなのに、今起きているのはあまりに唐突で、拙速すぎる。しかし、星の干渉とはそう言った事情を完全に無視した外法の極み。
力の差、格の違いをマジマジと見せつけられる。
「……で、その洋館って、どんな場所なの?」
沙羽が控えめに問いかける。
俺は昨日、マザーから聞いた話を思い出しながら、二人にかいつまんで説明した。洋館は孤児院としての歴史があり、かつては多くの子どもたちにとって希望の場所だったこと。暦がそこに深く関わっていたこと──。
話を聞き終えた沙羽は、少し首をかしげるようにしてから言った。
「うーん……でもさ、反対運動するとしても、あたしたちの立場だと完全に部外者じゃん?それじゃあ、説得力に欠けるよね」
「確かに。文化財としての価値があるとか、そういう主張で市を動かすのはどうなんだ?」
晴人が口を挟む。俺はその言葉に頷きつつも、現実的な問題を吐露した。
「どうだろうな……あの手の洋館って、街には他にもけっこうあるしな。行政がもし文化的価値を認めていたら、こんな再開発なんて最初からやらないと思う」
希望が見えてきたようで、すぐに霧がかかった。仲間の協力は得られた。けれど、何をどうすればいいのか、具体的な方策は見えてこない。問題は依然として山積みで、手が届くところに答えはなかった。
そんな中、沈黙を破るように、沙羽がぽつりと呟いた。
「例えばさ……その孤児院で育った人を探して、反対運動に参加してもらうのはどう?」
その一言が、閉塞感を一気に切り裂いた。
俺の中に、ふっと希望の光が灯る。可能性がある──そう思わせる力強さが、その言葉にはあった。
「それいいじゃん! 当事者が声を上げてくれるなら、部外者がわーわー言ってるだけって思われないし!」
晴人が食い気味に乗ってきた。
「うんうん!天戸くんが言ってたみたいに、神影市の歴史を見守ってきたってエピソードも一緒に伝えれば、興味持ってくれる人、絶対いると思う!」
沙羽のアイデアに刺激されて、次々と意見が生まれていく。停滞していた議論が動き出した瞬間だった。俺はその光景に、はっきりとした「可能性」を感じ始めていた。
「ねね!天戸くん、その孤児院にいた人の名前とか分かる記録って、何か残ってたりするの?」
沙羽が期待を込めた声で尋ねてきた。
けれど、俺はその問いに、すぐに答えることができなかった。
──そういったものは、持っていなかったからだ。
言い淀む。喉元まで出かかった「ない」という言葉が、どうしても言えなかった。せっかく見えた希望の光を、自分の手で潰してしまう気がして──怖かった。
どうしようかと迷っていた、そのときだった。
「……あなたたち、うるさい」
鋭く冷たい声が、背後から飛んできた。
振り向けば、そこには瓶底メガネをかけた図書委員の女子が、額に青筋を立てて立っていた。目の奥には明確な怒気が宿っている。
──ああ、俺たち、図書室にいるんだった。
少しばかり、現実に引き戻された瞬間だった。