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海風Re:fine〜街を語る少女と時をかける記憶〜  作者: 甘照すう
6章:街を語る少女と運命
29/40

28話:幼女のシスターもどきとマザー

 週明けの月曜日。

 俺は、まず洋館周辺の再開発がいつ頃から始まるのかを調べることにした。

 役所に電話をかけ、資料を閲覧できる窓口を探し、幾つか問い合わせを行った。調査の結果、すでに再開発に向けた動きは水面下で始まっており、現在は対象地域の住民に対する立ち退きの説明が進められている段階だということが分かった。

 近いうちに住民向けの説明会も開かれる予定だそうだ。

 もともとの再開発計画はまだ先の話だったはずだ。だが、今回の動きは、数年単位で前倒しされた形で進行している。

 その不自然さが、俺の中で引っかかって仕方なかった。まるで、誰かが意図的にスケジュールを急がせたかのようだ。

──星はどんな干渉を行ったのだろうか?

 俺は頭を抱えた。行政の進める大規模な開発に異議を唱えるには、いくつかの手段がある。

 例えば、地域住民による意見書の提出や、署名活動を通じた意思表示。地域組合を巻き込んだ反対運動などもあるだろう。

 だが、それらはどれも簡単なことではない。再開発を推進する側は、地域組合との根回しなど抜かりなく進めているに違いないし、署名を集めるにしても、「なぜこの再開発が問題なのか」を明確に示し、周囲の理解と共感を得る必要がある。


「くっそ……どうすればいいか、検討もつかねぇ……」


 俺は今日も学校を休んでいた。

 こんな状態で、教室でのんびり授業を受けていられるはずがない。暦と俺の命がかかっている。もはや猶予は残されていない。

 こういうとき、暦がそばにいてくれたら、どれほど心強かっただろう。……いや、ダメだ。すぐ彼女を頼ろうとするのは、俺の悪い癖だ。

 フェスタのときだって、無理はさせないと誓ったばかりじゃないか。

 とはいえ、この気持ちを吐き出せる相手が一人でもいれば、どれだけ楽だろうとも思う。だが、こんな荒唐無稽な話、誰が信じてくれるというのか。

 とにかく、まずは情報を集めなければ話にならない。


 ──そもそも、あの洋館とは何なのだろう?


 神影市には、開国以降に建てられた西洋風の建築物が数多く残されており、その大半は文化財として登録され、市の保護下に置かれている。

 だが、暦があれほど大切にしている洋館には、なぜそのような保護が及んでいないのか?

 もっと彼女に聞いておくべきだった──そう後悔しても、今さら遅い。

 よく言う。人間は取り返しがつかなくなってから、ようやく物事の重大さに気づくものだと。まさに今の俺がそうだった。

 居ても立ってもいられなくなり、俺は家を飛び出した。



 向かった先は、例の再開発予定地だった。

 実はここへ来る前に、ネットカフェに立ち寄って、洋館について調べてみた。だが、有力な情報は何一つ得られなかった。

 インターネットがまだ成熟していないこの時代では、未来ほど情報が溢れているわけではない。情報量の少なさがもどかしい。

 それでも、俺は諦めるつもりはなかった。

 洋館へと続く坂道を登る。足取りは重いが、気持ちは焦っていた。

 ようやく到着したその場所には、いつも通り古びた、廃屋同然の洋館が佇んでいた。俺がどれだけ焦ろうと悩もうと、建物はただ黙ってそこにあるだけだった。

 とにかく、周囲の人に話を聞いてみようと決めた。手始めに、洋館近くの住宅に足を運び、インターホンを押す。

 自分がこういう聞き込みのような真似をする人間だったとは思っていなかった。

 だが、人間というのは、追い詰められると驚くほどの行動力を発揮するらしい。身をもってそれを実感した。

 チャイムを押してしばらくすると、玄関から顔を覗かせたのは、柔和な雰囲気を持つお婆さんだった。


「突然、申し訳ありません。僕は東奏高校の一年生、天戸と申します。今、学校の校外課題で地域の歴史について調べていて……。少しだけお時間、いただけませんか?」


 自分でも驚くほどスラスラと嘘が出てきた。咄嗟の作り話だったが、制服姿の俺を見たお婆さんは、警戒する様子もなく微笑んだ。


「あらあら、丁寧な子じゃないの。いいわよ。何が聞きたいのかしら?」


 そう言って、お婆さんは門扉までゆっくりと歩み寄ってきた。

 俺は頭を下げて感謝を述べた後、核心の質問をぶつけた。


「ありがとうございます。実は、ここから少し行ったところにある洋館について、何かご存知でしたら教えていただけないでしょうか?」


 お婆さんは少し首を傾げ、考え込むような仕草を見せた。


「そうねぇ……あの建物は、私がここに住み始めた頃から、もうあんな感じだったわねぇ。ごめんなさい、詳しいことはよく知らないの」


「そうなんですか……。ちなみに、こちらにはいつ頃からお住まいなんですか?」


「そうね、15年くらいになるかしら? 幸い、震災のときもここは不思議と被害がなかったのよ」


 その言葉を聞いて、俺は少し考え込む。──震災でも無傷だった。

 地盤の安定した地域とはいえ、それだけで済むとは思えない。おそらく、暦が何らかの対策をしていたに違いない。


「ありがとうございます。ちなみに、ちょっと別のところで聞いたんですが……このあたりが再開発されるって話、ご存知ですか?」


 お婆さんはゆっくりと頷いた。


「ええ。この前なんて、土曜日なのに役所の方が来てね。もともとある話だったけど、急に方針が変わって、急いで再開発を進めるっていうのよ……」


 そう言いながら、お婆さんは少し困ったような表情を浮かべ、やれやれと目を閉じた。

その後、俺は礼を述べてその場を後にした。

 それから何軒もの家を訪ね、洋館について尋ね回った。だが、ほとんどの場合は居留守を使われるか、露骨に嫌な顔をされて追い返された。やはり、聞き込みでは限界があるのかもしれない。


「クソ……聞き込みじゃダメか……」


 今日のところは引き上げるか──そう思いながらも、どうしても踏ん切りがつかず、「あと一軒だけ」と周囲を歩いてみる。

 そんなときだった。一軒の教会が目に入った。

手入れの行き届いた庭には、鮮やかな赤い薔薇が咲き誇っている。

 ふとした衝動に突き動かされるように、俺はその門をくぐった。


「まるで太陽のように赤く咲き誇っているのだ!」


 教会の庭先に足を踏み入れると、明るい声が響いた。

 声の主は、庭の片隅でホースを手に薔薇へ水を与えている少女だった。

 年齢はおそらく十二、三歳。癖のある肩まで伸ばした陽光のような輝きを放つ桃色の巻き髪が風に揺れ、整った顔立ちはまだ幼さを残しながらも、その将来が約束されているかのような端正さがあった。

 瞳は琥珀色に輝き、黒い修道服に身を包んだ姿は、彼女の年齢からすればいささかミスマッチにも見えたが、不思議とその光景には調和があった。


「んな?」


 少女は俺の存在に気づいた瞬間、表情を変えた。

 やや不機嫌そうに眉を寄せ、ふてくされたような視線を向けてくる。


「何だ、迷える子羊が一人、迷い込んできたのだ?」


「ま、迷える子羊……?」


 唐突な表現に、思わず口の中で言葉を反芻する。確かに、今の俺の状況はまさに“迷える”そのものだ。だが、面と向かって言われると、なんとなく否定したくなるのは何故だろう。


「平日の真っ昼間にブレザー姿で教会に現れるとは、迷える子羊以外の何者でもないのだ」


 少女はホースの先に取り付けられた放水器の栓を緩めながら、首を小さく傾ける。その動作は、妙に大人びていて、どこか演技がかったものだった。


 俺は軽く苦笑しつつ、彼女の方へと数歩、歩み寄った。


「学校の課題で、この辺りを調べてるんだ。たまたまここを見つけて、もし取材とかできたらと思って……」


 嘘半分の言い訳を口にする。だが、少女の反応は鋭かった。

 彼女は目を細め、まるでこちらの心を見透かすかのような視線を向けてくる。


「子羊の分際で、神の前で嘘を吐くとは、随分と罰当たりなのだ」


 その言葉に、俺の足がぴたりと止まった。

 彼女の瞳は、まるで光を吸い込むかのように深く、そして不思議な威圧感を放っている。


「う、嘘ってなんだよ……?」


「嘘は嘘だ。お前は、本当のことを言っていない」


 そう言いながら、少女はホースの先を俺に向けた。

 冷たい水が放たれることを想像して、一瞬身構える。

 だが、俺はすぐに思い直した。ここで誤魔化しても、意味がない。

 おそらく彼女の前では、小手先の嘘など通用しないのだ。

 ため息をひとつ、深く吐き出してから、口を開いた。


「……友達の、大切な場所がなくなりそうなんだ。俺は、それをどうにかして守りたい。そのために、ここに来た。情報が、欲しかった」


 それは、偽りのない、本心だった。

 嘘偽りを排して向けたその言葉に、少女は視線を少し逸らし、それからまた俺の方へと戻してきた。


「ほう……嘘ではないようのだ?ならば、よいのだ。一歩、こちらへ来るのだ」


 少女は口角をわずかに上げ、小さく指先で“おいで”と合図をした。


 俺は頷き、その場で一歩、踏み出す。


「それで、その“大切な場所”とはどこなのだ?」


「通りの坂道を上がったところにある洋館──いや、廃屋だ」


 俺がそう答えると、少女は再び「よい」と言って頷き、一歩進むように促し、さらに質問を続けてきた。


「その友達の名前は?」


「暦だ」


 また一歩、進む。


「ほうっ!女か!いいのだ、いいのだ!その子はどんな見た目なのだ?」


「……それ、答える必要あるか?」


 思わず口を濁す。プライベートなことをあまり語りたくない気持ちもある。

 だが、少女は容赦なかった。無表情で、再びホースの先をこちらに向けてくる。

 ……問答無用、ということらしい。


「……金髪で、青い目。ハーフっぽい顔立ちで……」


「きっと、可愛いのだ」


 少女は微笑んだ。その笑顔には、何かしらの親しみすら感じられた。


「ああ、可愛いと思う」


 そう答えながら、俺はちらりと少女を見た。

 彼女もあと数年すれば、暦と並び立っても何ら見劣りしないほどの美しさを備えるのではないかと思える。その端正な顔立ちは、既に完成しつつある。


「よいのだ!合格なのだ!」


 少女は勢いよく俺のもとへ歩み寄ると、まるで品定めするように俺の周りをぐるぐると回った。

 一通り観察を終えると、再び俺の前に立ち止まり、腕を広げるようにして言った。


「ついてくるのだ!マザーは今年で八十を越えるヨボヨボなのだ!何でも知っているのだ!」


 そう言うなり、少女は手にしていたホースを庭に放り投げ、教会の奥へとスタスタ歩き出した。

……ホース、そのままで大丈夫か?と一瞬悩んだが、少女の背中が遠ざかるのを見て、結局は後を追いかけることにした。

 少女は歩みを進めながら、ふと足を止め、こちらを振り返った。

 陽の光が差し込む教会の連絡通路、その光を背に受ける彼女の姿は、どこか幻想的で、現実味を欠いて見える。

 艶やかな桃色の唇が、ふいに開かれた。


「ところで、お前の名前は何なのだ?」


「俺は天戸湊。君は?」


 問い返すと、彼女は小さな胸元に手を添え、胸を張るようにして言った。


「ロナというのだ」


「ロナ?」


「そうなのだ。ここでシスター見習いとして、居候しているのだ」


 自らの紹介にどこか誇らしげな響きを乗せたロナは、ひとつその場でくるりと回った。

 遠心力に煽られた修道服の裾がふわりと舞い上がり、まるで一輪の白い花が咲いたかのように美しかった。


「ミナトは、その暦という女が好きなのか?」


「い、いきなりなんだよ?」


 不意打ちのような問いに声が裏返る。ロナは歯を覗かせ、口元を手で隠すようにして肩を揺らして笑う。


「気になっただけなのだ。男が女のために何かするとなると、大体はそういう下心ありきだと、マザーが言ってたのだ」


「失礼なっ!!そんなことはない!?」


 慌てた声で、反射的に否定する。まるで思考より先に口が動いたようだった。


「えと……ロナは何歳なんだ?」


 話題をそらすように、俺は少しだけ声のトーンを落として尋ねた。

 するとロナは内股になって立ち、修道服の裾を手で押さえながらこちらを見上げてくる。


「まさかミナトは、こういう女が好みなのだ!?」


「んなわけねぇだろ!?」


 思わず声を荒げて叫んだ。

 未来の暦曰く、大人のフリをしているだけで、俺は名実ともに15歳の、ただの子供だという。それでも、どう考えてもロナのような幼女一歩手前の少女に対して、そんな感情を抱くわけにはいかない。

 ……頼むから、変なことは言わないでくれ。


「なら、なんなのだ?」


 少しつまらなそうに、肩を落としながらロナは訊いてくる。

 その目には、ほんのわずかに期待外れとでも言いたげな光があった。

 俺はため息を一つ吐きながら、答えた。


「いや、学校とかどうなってんだ?まだ義務教育中だろ?」


「学校など行かないのだ。あとミナトがそれを言うのだ?」


 肩をすくめたロナは、いたずらっぽく笑ってから答えた。

教会に居候しているとのことだ。何かしらの事情があるのかもしれない。余計な詮索はやめておこう。


「普段は学校に行ってる。今日は訳あって、サボってる」


 それを聞いたロナの表情が、さらに悪戯っぽくなる。眉を上げ、にやりと笑ってこう言った。


「神の前で、サボりとは、あとで懺悔室に行くのだ。お布施は3980円から受け付けているのだ」


「何、お布施にお得感を演出してんだよ」


 絶妙に微妙な価格に、ついツッコミを入れる。

 ……お布施ってそんな明朗会計だったっけ?と、心の中で呟きつつも、何故かその金額が妙に現実味を帯びていて、さらにモヤモヤが募る。

 そんなやりとりの中、ロナは立ち止まり、一つの扉の前に向き直った。

 木製のその扉には、ヒイラギで編まれた小さな飾りが掛けられている。まるで、そこが特別な場所であることを静かに主張しているかのようだった。

 ロナは遠慮なく、その扉をコツコツと乱暴にノックした。


「マザー、迷えるエロ羊が来たのだ。開けてもいいのだー?」


「誰がエロ羊だ」


 思わず噛みつくように言い返す俺に、ロナはまったく意に介した様子もなく、にやにや笑っている。

 その時、扉の奥からふわりと柔らかな声が届いた。


「どうぞ」


 優しく包み込むような声色。

 ロナは顎をしゃくって、無言のまま扉を示す。


「入るのだ」


「ロナは入らないのか?」


「ミナトは扉の開け方も分からないくらい色に狂ったのだ?」


 ……こいつ、本当に……。


 内心で悪態をつきながら、俺は重たく深い息を吐いた。そして、扉に手を掛け、ゆっくりと押し開けた。


「失礼します」


 俺は一礼しながら、敷居を丁重に跨いで部屋の中へと足を踏み入れた。


 そこは静けさと穏やかさに包まれた空間だった。窓から差し込む柔らかな陽の光が、白く塗られた壁を優しく照らしている。壁際に並ぶ本棚には、聖書や讃美歌が記された厚みのある書物が整然と並び、どの本にも一切の埃が見当たらない。まるで時間さえ丁寧に流れているかのようだった。

 部屋の空気には、どこか懐かしさを誘うような甘い花のアロマの香りがふわりと漂い、自然と心が落ち着いていくのを感じた。

 おそらくここは書斎なのだろう。奥の方に、ロナと同じデザインの修道服を纏った一人の老婆が腰かけていた。優しげな微笑みをたたえ、まるで長年そこに在り続けたかのような落ち着きを感じさせる。

 彼女こそが、ロナが「マザー」と呼んでいた人物なのだろう。


「いらっしゃい」


 その声は、包み込むような柔らかさを帯びていた。耳に心地よく、まるで冬の日差しのような温もりを含んでいた。

 俺はその声に導かれるように、もう一度深く頭を下げた。


「急にお邪魔してすみません」


「いいのよ、ここはそういう場所なのだから」


 マザーは優しく言い、目の前の椅子を手で示して座るよう促した。

 俺は素直に従い、静かに椅子に腰を下ろした。


「ロナが失礼なことを言ったと思うけど、あの子には悪気はないの。もし気を悪くしたなら、私が謝るわ」


 その申し訳なさそうな言葉に、俺は逆に恐縮してしまった。

 言葉の一つひとつに無理がなく、表情にも偽りがない。すべてに品があって、よくできた人だと思った。


「いえ、そんなことはありません。むしろ、わざわざここまで案内してくれて、感謝しています」


 それは社交辞令なんかじゃない。心からの言葉だった。

 軽口の多いロナだったが、結果的に、俺をこうしてマザーの元へと連れて来てくれたのだから。


「そうなら、よかったわ。さて、今日はどういったご用件でお訪ねに?」


 マザーは変わらぬ穏やかさで、そっと話を切り出した。


「実は友達の大切な場所がなくなりそうで……。でも、俺はその場所がどんな場所なのか知らなくて、それを探しに来ました」


 俺の話を静かに聞いていたマザーは、うんうんとゆっくり頷きながら、何も言わずに耳を傾け続けてくれた。

 俺は続けた。


「通りの坂を上がった先にある洋館なんですが、そこがどんな場所なのか、ご存知でしたら、教えて頂けませんか?」


 その問いに、マザーは一瞬だけ目を伏せ、記憶を探るように間を置いた後、静かに口を開いた。


「ああ、あそこね。よかったわ、微力だけど、あなたの助けにはなれそうよ」


 その言葉に、思わず椅子から前のめりになってしまう。


「ほ、本当ですか!?お、教えて下さい!!」


 まさに光明が差し込んだような気がした。

 長い暗闇の中を手探りで歩いていた先に、ようやく見つけたひと筋の希望──そんな感覚だった。


「あそこは戦争が終わった直後に出来た建物なの」


「戦争?」


「ええ、大東亜戦争よ」


 大東亜戦争──つまり、第二次世界大戦のこと。以前はそう呼ばれるのが一般的だったと、授業で聞いた覚えがある。


「あそこはね、昔、戦争孤児を集めた孤児院として運営されていた場所」


 マザーの言葉に、俺は一言も漏らさぬよう耳を澄ませた。


「戦争が始まる前からあそこには洋館があったのだけど、焼けてしまった。その後、一人の男の人がね、生き返る神影市を見下ろせる場所として、希望が生まれる場所にしたいと言って、建て直した」


 マザーは目を細め、ゆっくりとまぶたを閉じる。

 過去の景色を思い浮かべているのだろう。


「今でも覚えているわ。あの頃、私はこの場所でもうシスターをしていた。西洋の宗教ということもあり、肩身は狭かったけどね。一人の男の人と一人の女の子が何度もそこに通っていたのを覚えているわ」


「男の人と女の子?」


「ええ、そうね、ふふっ、あなたはなんだか、あの人に似ている気がするわ。女の子の方もよく覚えているわ。金色の髪をした、それはそれは綺麗なお嬢さんだったわ」


「……俺に似てる?」


 胸の奥がドクンと音を立てた。

 その言葉──まるで、暦が俺に語ったことと重なっている。

 そして、金髪の少女。きっとそれは、他でもない、暦のことだ。


「ええ、本当によく似ているわ。建て直しも大変だったみたいだけど、彼らは多くの人の助けもあり、やり遂げた。預かっていた孤児全員の里親が見つかるまで運営されていたわ」


「それっていつまでですか?」


 俺の問いに、マザーは机の引き出しを開け、古びた日記帳を取り出した。

 ページをめくる手は静かで丁寧だった。やがて、目的の箇所に辿り着いたのか、彼女は視線を上げて言った。


「一九五一年十月二十一日が、最後の子供が出て行った日のようね。当時、それを見たと私は書き残しているわ」


 どこかで聞いたことのある日付だった。記憶のどこかが反応していた。


「その子供が出て行ってからは、どうなったんですか?」


 問いかけると、マザーは少しだけ視線を遠くに投げてから答えた。


「その後は使われることもなくなり、無人になったわね。ちょうど高度経済成長期になった頃、役目を終えるには良い時期だったのかもしれないわ」


 言い終えたマザーは静かに息を吐き、そして柔らかな笑みを浮かべて言った。


「私の知っていることはこのくらい。どう? 少しは力になれたかしら?」


 その微笑みに、俺は深々と頭を下げる。


「ありがとうございます。本当に助かりました!」


 感謝の気持ちをそのまま口にすると、マザーはくすっと笑いながら言った。


「それならよかったわ。お布施は3980円から受け付けているわ」


「……」


 やっぱり、ロナの軽口は彼女仕込みだったようだ。


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