27話:屋上で待つ星
次の日が土曜日で、本当に良かった。
土砂降りの雨に打たれ、長時間ずぶ濡れで外にいたせいで、体が重い。
試しに体温を測ってみると、三十八度を超えていた。
ベッドに横たわりながら、俺は昨夜の歴との邂逅を何度も頭の中で繰り返していた。
多くの謎が解けたはずだったが、それ以上に、新たな謎が生まれていた。
「……どうして星霊ってのは、全部を語ってくれないんだよ」
悪寒に全身がゾクゾクと震えるなかで、俺は昨日と同じ悪態を吐く。
思えば、体調不良を理由に学校を早退したわけだ。まさに、嘘から出た誠というやつだろう。苦笑いが漏れる。
季節はもうすぐ六月に入る。
暦と再会してから、まだたった二ヶ月しか経っていないことに気づき、時間の感覚が狂っていたことを実感する。
俺は毛布を肩まで引き上げ、思考の海に沈んだ。
暦はまだ生きている──その言葉だけが、今の俺の支えだった。
けれど、どうすれば彼女を取り戻せるのか。……いや、取り戻す方法なんて、果たして存在するのだろうか?
暦が「触媒」と呼んでいたあの洋館には、すでに彼女の痕跡は一切なかった。
今の彼女は、きっと四次元にいる。もしそれが本当なら、状況は絶望的だ。
俺には、四次元に繋がる便利なポケットもなければ、星の力もない。
暦の話では、どんな高次の存在でも、次元の壁をノーリスクで越えることはできないと言っていた。
星でも難しいそれを、俺ごときができるわけがない。
考えれば考えるほど、思考は深い沼へと沈んでいく。
そんなとき、枕元のガラケーが音を立てた。差出人は晴人。いつもの軽口なメッセージだ。
俺は適当に返事を打ち、携帯を放って眠りに落ちた。
どれほど眠っていたのか──。
ふと、部屋の外、廊下のほうから声が聞こえてきて、俺は目を覚ました。
横になったまま、耳をそばだてる。
「ホ、ホントにいいんですか? 悪いですよ……」
どこかで聞き覚えのある声だった。
そして、ゆっくりとドアが開く音。
「お、お邪魔しま〜す……」
遠慮がちに部屋へ入ってきたのは、沙羽だった。
ボーダー柄のシャツに薄手のカーディガン、少しダボっとしたパンツ姿。意外な登場に驚きつつも、表情には出さない。
「三宮か……」
「わぉ……天戸くん、グロッキー?」
「……グロッキーだ」
彼女はベッドの脇に立ち、紙袋を差し出す。
「ほいさっ! お見舞いっ!」
「プリンか」
「そそっ! 天戸くん、ここのプリン好きって言ってたよね?」
入学式の日、自己紹介でそんなことを言った覚えがある。
まさか覚えていたとは──。
「これ食べて、元気になってね!」
眩しい笑顔。
俺は素直に礼を言った。
「ありがとう。でも、どうしてここに?」
「この近くに来る用事があってさ〜。そういえば、天戸くんの家ってこの辺だったなーって思い出して! それで急いで買って来たの」
彼女の気遣いが、今の俺には沁みる。
「なるほど……って、俺、家の場所教えたっけ?」
「え? あれ? なんか前に聞いたような、聞いてないような……?」
沙羽は首をひねりながら顎に手を当てて考え込む。
体の奥で火照る頭を抱えつつ、ふと思う。こんなふうに、誰かが見舞いに来てくれるなんて、俺は恵まれているのかもしれない。
普通の男子なら、たぶんここから恋が始まってもおかしくない。……でも、それが今の俺には遠い世界の出来事のようだった。
「さてと、あたしはそろそろ帰るよ」
沙羽はドアの方へと目をやる。
「もう帰るのか? 来たばかりだろ?」
「何言ってるの、病人だよ? 無理はさせられな……いよ……」
沙羽の表情が一瞬、曇る。何かを迷うような目をしていた。
「どうした、三宮?」
「あっ、えと、いや••••••なんかね、ここにあたしたち二人だけってのがさ、なんだか変な感じがして••••••」
沙羽はまるで誰かを探すように視線を泳がせた。そして、ハッとして少し紅潮した顔で俺の方を見た。
「そ、そういう意味じゃないからねっ!?なんか、その••••••な、なんでもない!」
そう言うと彼女は逃げるように部屋を飛び出して行った。残された俺は少しの間、呆然とし、そして、彼女の言葉が気になった。
「三宮、お前••••••」
沙羽が何を思ったのかは定かではない。でも、もしかしたら全てなかったことになっているわけではない。そんな気がした。
その時、また俺のガラケーがブルブルと振動し、存在を主張する。
「どうせ晴人だろ……」
独り言を呟きながら、確認する。
……しかし、それは違った。
受信箱には、差出人不明のメールが一通。
名前は文字化けしており、送信元アドレスには「unknown」と表示されている。
悪質な迷惑メールか、チェーンメールか。だが、開くだけなら問題ないだろう。
リンクさえ踏まなければ……。
少しの不安と、大きな好奇心で開封した。
そこに書かれていたのは、ただ一言。
『本日、東奏高校の屋上で待つ』
はて、差出人は誰だろうか。
俺の頭には昨日出会った歴の顔が浮かぶ。しかし、彼女がこんな回りくどい方法を取るだろうか。もし俺に死を迫るようなことを言いたいだけなら、今すぐここに乗り込んでするはずだ。
まさかとは思うが、ここに来てまた新しい星霊の類でも出てくるのか。
流石にお腹いっぱいだし、これ以上、人外級の登場人物が増えても俺のキャパシティは耐えられない。
俺はガラケーを放り投げると、眠りに着いた。
そもそも俺は今、病人だ。
*
「ったく、夜って何時だよ?」
俺は未だ頭痛に喘ぐ頭を叩き起こし、高校の校門前に立っていた。ハッキリ言って、今日ここに来るかどうかは寸前まで悩んでいた。
呼び出され、ほいほい出て行き、ないとは思うが、星が寄越した暗殺者にもでも殺されたら溜まったものじゃない。
そう思っても俺はここに来ていた。
俺にはもう失うものがないからだ。暦によって繋ぎ止められたこの命は、彼女の廃棄と共に終わりを迎える。今の俺は悪魔からの誘いでも受けてしまうくらいには、縋るものがなかった。
この際、初めましての星霊でも何でもいい出てくるなら、それでいい。質問攻めにしてやる。
俺は何でもいいからこの状況をどうにかできる手段が欲しかった。
俺は意を決して、校門に手をかけた。夜は固く施錠せれているはずのそれは俺が手を伸ばす前に鈍い音を鳴らして、少しだけ開いた。
校舎の中は、まさに闇に支配された空間だった。
その漆黒は、人ひとりを丸呑みにするほどの濃さで、俺は一瞬、足を止めた。
唯一の光源は、外から差し込む車のヘッドライトと、消火栓の赤いランプ。
そして、非常口の緑の光が、かろうじて階段の輪郭を照らしている。
「くそっ……勘弁してくれよ……」
俺は息を殺しながら、慎重に歩き出す。
屋上までは、ただひたすら階段を登るだけ。
一歩、一歩、手すりを頼りに進む。
やがて、屋上へと続く扉の前に立つ。
見慣れたはずのその扉が、今はまるで地獄への入り口のように思えた。
俺は意を決して、ゆっくりと扉を開いた──。
その瞬間、強烈な風が吹き抜ける。
屋上へ足を踏み出すと、そこには一面の静寂と輝きが広がっていた。
空には数多の星々が燦々と輝き、遙か過去から放たれたそれを地球は受け止めている。
そして、目の前には月があった。
どうやら今日は満月のようで、その明るさは灯りのない屋上を隅々まで照らしている。
天蓋に掲げられた月は、思っているより何倍も大きく今にも落ちて来そうだった。
「ん?」
そんな月を背景に、青白い光を放つ四枚の翼が見えた。機械的で直線的なそれの光は月夜の中に浮んでいた。
翼の光が強過ぎて、その奥の姿は、光に遮られて見えなかった。
だが、しばらくすると、目も慣れてきて、俺はその者の姿を見据えた。
月の光を受け、キラキラと輝く金色の髪は風に靡き、白い肌は瞬く星々にも負けないほど美しい。純白のワンピースから覗く足は裸足で細く、宙で少し揺れていた。
暗闇の中、シリウスのような青い瞳をした理解し難いほどの美貌を持った少女が俺を見据えていた。
「••••••う、嘘だろ?」
俺はその少女を見つめたまま、息をするのも忘れていた。
だって、そこにいるのはーー。
「湊さんーー」
間違いなくーー。
「マイナス二十年振りでしょうかーー。お久しぶりです」
神戸暦だったーー。
「こ、暦……」
しぼり出すような声だった。信じられないという感情と、久しぶりに口にする名前の重みが、喉の奥に詰まって出てこなかった。
「まるで幽霊でも見たような顔ですね」
俺のかすれた声に、彼女は穏やかに、しかしどこか距離のある口調で応じた。静かに宙に浮かぶ彼女は、そのままじっと俺を見つめたまま動かない。懐かしいようで、まるで別人のようにも感じられる。そんな不思議な彼女の佇まいに、胸の奥がざわめいた。
──あいつなら、すぐにでも駆け寄ってきそうなものなのに。
「あ、当たり前だ!どれだけ探したと思ってるんだ!」
思わず声を荒げた俺の言葉に、暦はゆっくりと滑るように降下した。コンクリートの床から約六十センチほどの位置で、空気に引っかかるようにピタリと停止する。そして、雲のように柔らかく、しかし足は地につけず、こちらへと近づいてくる。
「ご心配頂き、ありがとうございます。思った通り、たくさんご迷惑をおかけしているようですね」
淡々と、まるで他人事のように言う彼女は、視線を少しだけ逸らした。その態度に、俺の胸は締めつけられる。ようやく会えたのに、どこか冷たく感じるその表情が、俺を躊躇させた。
それでも俺は、一歩、彼女に近づこうとする。この目で、確かめたい。ただそれだけだった。
だが──彼女はそっと、俺の接近を制した。
「その感情は、今のわたしに向けてあげてください」
一瞬、意味がわからず、俺は首を傾げる。すると、彼女は静かに続けた。
「わたしは、湊さんが思うわたしではありません。あなたの記憶の中にある、未来のわたしです。ですから、あなたが過ごしてきた、わたしと、時間を共有していません」
その言葉が示す意味は、あまりにも明快だった。
──二十年後、あの夜、俺をこの時代へと送り込んだ、あの暦。
「ど、どういうことだよ!?未来のお前は……消滅したんじゃなかったのか!」
声が裏返る。感情が追いつかない。暦はそれに対し、静かに、しかし確かに言葉を返した。
「その通りです。未来のわたしは、ある意味では“消滅”しました。しかし、それは未来で起こったことではありません」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。言葉の背後にある意味が掴めず、頭の中が混乱する。
「予定ではもっと遅くに出てくるはずでした。ですが、湊さんは過去のわたしと上手くやってくれたようで、嬉しいです」
そう言って暦は、小さく笑った。あの懐かしい、少し意地悪そうな、けれどどこか温かい笑みのはずだった。しかし今、それは別の誰かのようにも見えてしまう。歪んだ現実が、俺の感覚を狂わせる。
「説明くらいしてくれよ……!」
俺の焦燥が言葉になって溢れる。暦は目を伏せ、ため息を一つこぼした。
「もちろんです。これは感動の再会ではありません。感傷に浸っている暇はないのです。事態は、極めて切迫しています」
その声は冷静だったが、どこか切実だった。俺は黙って暦の顔を見つめた。彼女は軽く視線を合わせ、言葉を続けた。
「まず、わたしが今ここにいるということは──あなたは“歴”に会った、ということですね」
「ああ。会った。いろいろと……話も聞いた」
俺は頷いた。そして、ふと気になって辺りを見回す。こんな状況を、星が見ているのだとしたら、今、どんな顔をしているのか──。
暦は、俺の意図を察したのか、静かに口を開いた。
「ご安心を。すでに観測を阻害する宇宙塵を展開しています。今のわたしたちを観測することはできません」
「そ、そうか……用意がいいな……」
「さもありなん。わたしは優秀ですから」
その言葉に、胸が締めつけられる。紛れもなく、暦だ。けれど、どこかが違う。似て非なるもの。錯綜する感情に、頭がついていかない。
「単刀直入に言います。わたしは湊さんの中にある未来の記憶の中に仕込まれた、“わたしの星霊核のかけら”に残留する思念を投影しているだけの存在です。端的に言えば、神戸暦の限りなく本物に近い“コピー”です」
「コピー……?」
「さもありなん、です。ですから、わたしに情のような感情を持たないでください。あくまで、オリジナルの行動パターンから導き出された自動応答装置とでも思ってください」
あまりにもさらりと、重大なことを言う暦に、俺は言葉を失った。これが……自動応答装置?
嘘だろ……。
「わたしは、湊さんに熾されていた連星の奇跡、記録を幽閉する錠前が第三者に解凍されたときに発動するよう、わたしが仕掛けておいたものです」
「な、なぜそんなことを……?」
俺の問いに、暦は一瞬も間を置かず答える。
「星が未来を防衛する手段として、最終的に使う手段はわたしの排除だと考えていました。もしそうなれば、歴があなたに接触すると予測しました。恐らく彼女はあなたに熾された奇跡を解凍するとも」
暦は淡々と言葉を続けた。
「わたしはこの計画を実行する前から、起こり得るいくつかの結果を予測していました。もっと別の仕掛けも存在しています。しかし、想定より早いですが、今回はこの“わたし”が選ばれたというだけです。こちら側で起動のタイミングを制御することはできませんから」
未来の暦はこの状況がいつかくるものだと、認識していた。そして、本当にその瞬間が来たわけだ。
もう、頭がどうにかなりそうだった。彼女の言い分を信じるなら、俺にはまだ知らない仕掛けが“いくつも”存在していることになる。
「そして、わたしは自分に与えられた“役目”しか果たせません。そしてその役目とは、湊さんに“真実”を開示し、“指針”を与えることです」
「真実……?」
「さもありなん、です」
「……真実って、なんだよ。お前が封印していた記憶は思い出した。なぜ、お前が未来で消滅しようとしていたのかも、もう全部知ってる……今更、それ以外に何があるって言うんだ?」
俺の言葉に、暦は静かに、しかし確かな意思を込めて青い瞳を細めた。
「まだ開示されていないことがあります。そして、それは“今のわたし”も、“歴”も知らない。“未来の暦”だけが知っていることです」
胸がドクン、と大きく打った。
暦は、ゆっくりと口を開いた。
「それは──あなたの中にある“未来の記憶”の、出所です」
「未来の記憶の出所?」
思わず俺は、おうむ返しにその言葉を繰り返した。
「はい。湊さんはご自身が時間遡行してきたと考えています。そして、今のわたしもそう認識しています」
その一言に、背中を冷たい汗が伝った。なぜならそれは、俺がこれまで信じてきた前提を根底から揺るがすものだったからだ。
「確かにあの時、わたしはあなたの前で時制を巻く歯車を熾しました。でも、それであなたを過去に送ったわけではありません」
相変わらず、彼女はふわふわと宙に浮かび、言葉も動作もどこか地に足がついていない。その不安定な姿に、俺の思考もかき乱される。
「時制を巻く歯車は、原則使用者を過去に移動させる奇跡です。けれど、それは過去の自分に成り代わる奇跡ではありません」
俺は、かつて暦から聞いた言葉を思い出し、思わず口にする。
「暦は言っていたぞ!?俺を時制を巻く歯車で飛ばしたって!」
その言葉に、彼女は静かに頷いた。
「さもありなん。今のわたしは確かにそう考えています。時間遡行が可能な奇跡は、時制を巻く歯車しかありませんから。ただ、それを使ってあなたがどうやってこの時代に来たのかは、まだ分かっていません」
そして、彼女は続けた。
「可哀想なことをしました。今のわたしは、本当は怖かったと思います。未来の自分が、今の自分では想像もつかないことをやってのけたのですから……」
「……暦は、俺が来た理由を知っていたのか?」
「さもありなん。今の時点で、このプランはわたしの中に存在しています。ただ、実行する手段がなかった。目的地に行きたいのに、車がないようなものです」
彼女は、機械のように感情を排した口調で、淡々と語る。
「じゃあ聞くが……お前の言う奇跡が使用者を過去に飛ばすものでしかないなら、俺は本来ここには来られないはずだ。けど今、俺は過去の自分に成り代わってるつもりなんだが?」
俺がそう問いかけると、彼女はピンと俺を指差した。
「それが、“記憶の出所”に関わってきます」
「……どういう意味だ?」
俺の疑問に、暦は静かに答える。
「時間遡行をしたのは、未来のわたし。つまり、このわたし自身です」
夜風が屋上を吹き抜けた。それなりに強い風だったが、彼女はその場で一定の浮遊を保ち、ふわりと宙に漂っていた。
「過去に戻ったわたしは、15歳の湊さんに記憶を転写しました。他でもない、このわたしが持つ“未来の記憶”を、です」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。つまり、それは──
「湊さんが“自分の未来の記憶”だと思っていたものは、わたしがあなたと繋がった魂の根源を通じて、四次元から観測していたものです。つまり、あなたはわたしの記憶を頼りに“大人のふり”をしていただけの、ただの子供だったのです」
暦の声には、どこか冷たい響きがあった。俺は思わず頭を抱えた。
この瞬間も、断片的に浮かぶ“未来の記憶”が、すべて他人のものだったというのか。
「……ショックですか?でも、あなたを過去に連れてくるには、それしか方法がなかったのです」
俺は答えられなかった。
「わたしは、可能な限り湊さんの元の記憶にも違和感がないよう、自身のメモリーを調整し、転写しました。本来、他人の記憶を共有するという行為は、アイデンティティの崩壊を伴う危険な行為ですから」
それを察知できなかったのは当然──そう言いたいのだろう。
「……事情は分かった。じゃあ、その未来から来た暦自身はどこにいる?本当に消滅したのか?」
俺の問いに、彼女はどこか寂しげな表情を浮かべる。そして、俺の額に指をツンと当てた。
「ここです」
「は……?」
「記憶の転写にはリスクが伴います。過去に来たわたしは、自分の存在を対価にして、あなたの記憶と自分の記憶を結合させました。見方を変えれば、まだ“消滅”はしていないのかもしれませんが……意思の疎通は、もう不可能です」
俺は指で突かれた額を無意識にさすった。
「本当は、わたし自身があなたを導くつもりでした。しかし、そんな余力はもう残っていませんでしたし、自分に記憶を転写することはできません。だから、こうするしかなかったのです」
俺はしばらく沈黙し、思索を巡らせる。
一体これから、俺はどうすればいいんだ……?
暦は、目を閉じて言葉を継いだ。
「どのみち未来を変えてしまうと、わたしは元いた未来には戻れませんから。これが最適解です」
「どういうことだ?」
「この現実には、“バージョン”のようなものがあるんです」
そう言って、暦は語り始めた。
彼女によれば、この世界には“バージョン”のようなものがあり、未来の暦がやってきた時点の世界を「バージョン1」とするなら、未来を改変した後の世界は「バージョン2」となるのだという。
もし過去に遡って、自分が歩んできた未来とは異なる結果のチェックポイントを通過すると、その瞬間に世界の“未来”が書き換えられ、バージョン2として上書きされてしまう。
そうなると、未来の暦が経験した過去と今に矛盾が発生し、一見、消えてしまうようにも思える。しかし、実際にはそうではない。ただ、元いたバージョン1の未来に戻れなくなるというのだという。
理由はこうだ。
バージョン1からやってきた者は、基本的にバージョン1の世界にしか戻ることができない。そのため、ただ時間旅行のような観測だけを行うだけならば、時制を巻く歯車で戻ることは可能らしい。
ところが、すでにその世界がバージョン2に書き換えられてしまっていると、バージョン1の存在は“異物”と見なされ、世界に弾かれ、アクセス出来なくなる現象が起こるらしい。つまり、帰れなくなる。
その結果、未来を改変した者は、自分の居場所を失い、過去の世界に“異物”として残留することになる。
「ドッペルゲンガーって聞いたことありますか?」
「ああ……自分にそっくりな存在だろ?出会ったら死ぬって噂の」
「はい。そのドッペルゲンガーの正体こそが、この世界に残留した“旧バージョンの自分”なんです」
さっきまでSFの話をしていたかと思えば、今度はオカルトのようなことを話し始める暦。しかし、彼女の言葉には一貫性があった。
「まれに、人間でも何かのきっかけで過去に飛んでしまうことがあります。そして、その人たちは何も知らないまま過去を改変し、自分がいた未来を喪ってしまうのです」
俺は黙って彼女の続きを待った。
「これはあくまで推測ですが……この世界には、星よりもさらに上位の観測者が存在しているのだと思います。そして、ドッペルゲンガーに出会うと死んでしまう、という逸話も、あながち間違いではありません」
「というと?」
「未来から来た人間が、過去の自分と接触すると、その両方の存在が、この世界から忽然と消えてしまうのです。原因不明の行方不明者の多くは、これが理由だと考えられます」
「……何でそんなことになるんだよ?」
そう尋ねると、暦は少し間を置いてから答えた。
「分かりません。でも、これは観測事実として確認されている現象なんです。都合が良すぎると思うかもしれませんが、人間だって原理は分からなくても、便利だから使っている技術はあるでしょう?例えば……全身麻酔のように」
なるほど。彼女が「自分自身に記憶を転写できない」と言った理由は、ここにあるのだろう。
「ただし、今の自分に繋がるチェックポイントにさえ、気をつければ、少しくらいの改変ではバージョンは変わりません。必ずとは言いませんが、星の裏側で人が死んでも殆どの場合、あなたの未来には影響しません。恐らく世界と人間のバージョンの整合管理は星でも理解できないほど綿密になっています」
「まるで神でもいるかのような言いようだな」
俺は感想に暦は少し笑った。
「ふふっ、得てして妙ですね。観測事実から、わたしと同じく、星も自分たちよりもさらに上位の存在がいると考えていますよ。そして、その存在もまた星と同じように世界を調整していると……」
暦は話を締めくくるように静かに言った。
「星は、この仮定された上位存在を『根源的管理調停者』と呼んでいます。あくまで仮定の話です。結局、星も六次元以上の観測には至っていないわけですから、ここで重要なのは誰がしているかではなく、観測事実として、そんな現象が起こっているという点です」
俺は、頷くしかなかった。
正直、未来についての仕組みなんて分からない。聞けばきっと暦は、小難しい理屈を並べてくれるだろう。でも、それを俺が理解できる自信はない。
だが彼女がこうしているなら、それが“正しい”のだろう。俺は、暦の言葉なら信じられる。
「分かった。教えてくれ。どうすればお前を取り戻せる?」
俺の問いに、暦は静かに答えた。
「方法は一つです。今、わたしの“触媒”に危機が迫っています。正確には“次元背景投射点”と呼びますが、その未来が現在、担保されていない状態です。それを解消してください」
「……未来の担保?」
「はい。触媒は、長期間にわたって星霊を実体化させるために必要な措置です。特にわたしは、星から星の希望の供給がありません。そのため、あなたのそばにいるには、触媒の設定が不可欠なのです。そして、その触媒は“何でもいい”というわけではありません。星霊にとって価値のあるものでなければなりません」
暦は説明を続ける。
「実体化に伴う担保は、今の状態ではなく、“未来の予定”をもとに、星の意思が価値を判断し、許可を出しています。なぜなら、活動中に触媒が失われ、星霊がそれに気付かず“星の希望”を過剰に消費してしまうのを防ぐためです」
俺は黙って、その話を聞いていた。
「もし、途中で担保が切れてしまった場合は、星の意思が強制的に星霊を四次元に引き戻します。星は、この安全装置を利用し、わたしを回収しました」
「逆にそうしなかければ、今の暦を回収されないのか?」
俺は説明に対し、追求した。
「さもありなん。星のいる五次元からは三次元は遠すぎます。タキオン通信で三次元に滞在している星霊にコンタクトは取れますが、直接手を下すことはできません。そのため、わたしを何とかして四次元に戻す必要がありました」
「そういうもんなのか……。なら、フェスタでの妨害もそれを実行するための手段か?」
「確かに多くの星の希望を消費させ、抵抗力を削ぐというのも効果的です。実際、今のわたしの星の希望の充填は間に合ってはいなかった。でも、これは結果論です。あくまで星の企ての一つの手段だったとは思います」
ここに関しては、俺の深読みだった可能性もあるということか。
「じゃあ、その担保を保証できる状態に戻せば……暦は戻ってくるのか?」
「さもありなん。わたしと触媒の連結は、切れていません。星の意思が担保の再保証を認めれば、即座にこちら側に復帰可能です。そのくらい触媒の価値は高い」
俺は、記憶をたどった。
そして、ハッと、あることを思い出す。
フェスタの前日、作業着姿の役所の人間を見かけた。土曜日なのに、なぜか不自然にそこにいた。
「まさか……再開発か」
もしそうなら、相手はこの神影市の行政になる。
「あの時は最悪でした。人の次元背景投射点を勝手に潰すなんて……」
暦はぶつぶつと文句をこぼした。その様子は、俺がよく知る暦そのものだった。
そんな彼女を見つつ、俺は思考する。
あの洋館の場所は、未来で再開発される予定だったはず……だが、それはまだ先の話だ
まさかその予定が早まったとでもいうのだろうか。
俺は、まずは状況を把握しようと考えた。
「今の暦は、四次元でどんな状態なんだ?」
「わたしの体内には星の希望が残留しています。今はまず、それを排出しているところだと思います。それこそ排出せずに廃棄するのは、星としては資源の無駄になりますので」
「……どのくらいかかる?」
暦は申し訳なさそうに視線を落とす。
「ごめんなさい。そこは、データにありません」
「……いや、大丈夫だ。とにかく、早く手を打たないとな……」
熱で体がだるい。でも、そんなことを言っている暇はない。やっと手に入れた手段だ。絶対に、暦を取り戻す。
俺は、まだ宙に浮いたままの彼女に言った。
「手伝ってくれるよな?」
未来の暦の力を借りて、突破口を開く。そう思っていた矢先──。
「……ごめんなさい。それはできません」
耳を疑った。てっきり二つ返事で協力してくれると思っていたからだ。
「ど、どうしてだよ?」
暦は表情を曇らせ、こう言った。
「わたしは、湊さんに仕込まれたかけらから投影されているだけの存在です。じきに、消えてしまいます……」
つまりこの先は、俺が一人で戦っていくということだ。
俺は歯を食いしばる。遠のく意識を振り払いながら、膝が震えるのを必死で堪えた。
「……湊さん、ご迷惑をおかけします」
暦はうつむき、申し訳なさそうに呟いた。
でもやるしかなかった。
彼女は俺に言ってくれた。どんな逆境も、俺なら乗り越えられると。
その言葉を信じよう。
俺は、自分自身に言い聞かせた。
「暦」
「はい?」
「ありがとう。もう大丈夫だ」
その言葉を聞いた彼女は、そっと微笑んだ。
「そうですか……。そろそろ、わたしも限界です。最後になぜわたしが、あなたをあのとき、助けたのか。聞きますか?それくらいならまだ話す時間はありますが」
そう言う彼女を、俺は手で制した。
「いい。その話は、お前を助け出したあと、詳しくは本人から聞く」
正直、理由なんてどうでもよかった。何を言われても、俺の中で変わるものはない。
俺の言葉に、暦は笑みを浮かべて言った。
「さもありなんです。湊さんは、いい選択をされました。それでは……次、いつ会えるかは分かりませんが、できれば、もっと穏やかな時にお会いしたいですね」
そう言い残して、暦は虚空に溶けるように消えていった。
残された俺は、ただ一人、夜空を仰いだ。
そこには、満天の星が広がっていた。
先程までの話を聞き、俺は感慨に耽る。
未来の暦は、自分が未来に帰れなくなることを前提に、今を用意した。一体どれほどの覚悟を持って、未来で俺の前に現れたのだろうか。
俺は熱を帯びた息を吐いた。
「やるしかねぇだろう、もう」




