26話:真相
不思議だった。
あれほど激しく降っていた雨音が、今はまるで遠い世界の出来事のように、耳から消えていた。
静まり返った空間の中、ただ水滴が地面を叩く音だけが微かに響き、それすらも背景の一部に溶け込んでいる。
俺は何も言わず、ただ目の前の彼女を見つめていた。名を「歴」と名乗ったその少女──星霊。
すると、彼女は少しばかり訝しげに眉を寄せ、俺に問いかけた。
「......まさか暦の奴は、記録を幽閉する錠前をかけたままなのか?」
突然の言葉に戸惑いながらも、俺はそれが恐らく“星の奇跡”の一種だろうと察する。
だが、それ以上の意味は分からない。
思わず、声を荒げて問い返した。
「何のことだ?久しぶり?お前と俺は会ったことがあるのか?お前は誰なんだ!?」
疑念をぶつける俺に対し、歴は冷静に──いや、まるで当然のことを言うかのような口調で答える。
「言ったはずだが......?暦と同じ星霊だよ、明屋のね」
その言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
「明屋って......明屋市のことか?昔、併合されたあの?」
軽く首を傾げながら問う俺に、歴は露骨に呆れたような声で返した。
「それ以外、何がある?」
たしかに......と言いかけたが、それでも違和感は拭えない。
街が吸収合併されるというのは、つまりその街の“消滅”を意味する。
都市星霊はその街と共に存在し、その街への“希望”によって存在が支えられるというのなら──
どうして、既に八十年以上前に消えたはずの「明屋市」の星霊が、今も目の前に存在しているのか?
いや、そんなことより──。
胸の奥がざわつく。不安が爪を立て、喉を締め付ける感覚に、声がほとんど叫びのように飛び出した。
「暦と同じ都市星霊なら教えてくれ!暦は......暦はどこにいるんだ!?」
切羽詰まった俺の問いに、目の前の少女──歴は、目を細めてこちらを見た。その視線には冷静さしかなく、まるで既に答えは決まっているとでも言いたげだった。そして、何の感情も込めずに当然のことのように言い放つ。
「星は神戸暦の廃棄処分を決定した」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが凍りついた。
「──廃棄処分......?」
口に出した瞬間、それが現実だと突きつけられるようで、世界から一気に色が消えた。まるで氷のように冷たい雨が、彼女の言葉という形で心に降り注ぐ。
「ど、どういうことだよ。何で......何で......?」
震える声が喉から漏れる。問いは何度も脳内を反芻し、声として零れ出た。暦がいないという現実と、今目の前で語られる非情な事実が頭の中で重なり、理解が追いつかないまま感情が先に崩れ落ちる。
「当たり前だろ?意図しない動作をする機械があったとして、お前はどうする?何度修正をかけても、目的の行動を果たさない物があったとして、お前はそれを何の手も打たずにただ放置するのか?」
理屈を重ねた言葉が、まるで冷たい刃のように突き刺さる。俺の怒りは自然と爆発していた。
「ふざけてるっ!まるで暦のことを物や道具みたいに言いやがって!?」
怒鳴った。叫ばずにはいられなかった。暦が──。あの彼女が、ただの“道具”として語られることが我慢ならなかった。
だが、歴は微動だにしない。表情ひとつ変えず、逆に諭すように静かに言った。
「ふざけてはいない。実際、私も暦も星の意思が建造した装置でしかない。そうだな、分かりやすく言うと、修正機だ」
言葉は淡々としていた。あまりにも機械的で、冷徹で、感情の入り込む余地がない。暦と同じ都市星霊だとはとても思えなかった。そこにあるのは、ただの“システム”のように言葉を紡ぐ質量の塊。
「とは言っても、アレでも暦は星のお気に入りだった。本来ならもっと早くに処分されていてもおかしくないほどの異常動作を取っていたからな」
「何だよ、それ......」
呆然とした声しか出なかった。歴はさらに説明を続ける。
「私たち星霊の動作を司る素子がある。お前らの言語で言うと......次元式単層演算装置と言えばいいかな?」
言葉だけを聞けば、それはまるで精密なパソコンの部品のようだった。人の心なんて介在しない。俺が知っていた暦は、そんな無機質なものじゃない。もっと、あたたかかった。人間らしかった。
しかし、歴の説明は続く。
「そして、暦は特別な個体だった。全星霊中唯一、次世代である次元式積層演算装置を搭載した星の最高傑作だった」
「......」
言葉を失っていた。耳は聞いているのに、頭は理解を拒否していた。ただ、言葉だけが乾いた空気に漂っていた。
「暦の持つスペックは本来なら、私を含めて、あらゆる星霊が束になっても敵わないほどの圧倒的な性能を誇っていた。文字通り、次世代だった」
「本来──?」
気づけば、歴の言葉の中に引っかかりを覚えて、反射的に問い返していた。
「ああ、本来だ。今の暦は致命的なバグを抱えている」
歴は鼻を鳴らし、わずかに表情を曇らせた。けれど、それも一瞬。すぐにまた無表情へと戻った。
「バグって何だよ......」
知るのが怖いのに、それでも知りたかった。
「バグはバグだ。エラーだ」
「暦の何がバグってるって言いたいんだよ!?」
俺の声は震えていた。怒りと悲しみが混ざり合い、感情の奥底を引き裂いていく。記憶が鮮明に蘇る。彼女の笑顔。優しさ。柔らかな声──。
「社交的で喜怒哀楽があって、誰にでも優しく一生懸命だった!紅茶が好きで、友達を大切にしていた!そのくせ変なプライドが高くて!!バグなんて、あるはずがないだろっ!!」
必死だった。そうであってほしいと願っていた。
だが、歴はあっさりと言った。
「それがバグだ」
「──は?」
思わず言葉を詰まらせる。意味が分からなかった。
「確かに都市星霊にはある程度の感情は、同胞と連携するために搭載されている。しかし、とある感情だけは搭載されていなかった」
「それって......」
問いかけに、歴は静かに答えた。
「執着心だ」
その瞬間、脳裏に浮かんだのは、あの言葉だった。
──私は今が好きです。
けれど、その思い出すらも、歴の冷たい声が打ち消していく。
「確かに過去にはそういったバグを出す個体は確認されていた。しかし、それもすぐ修正できた。しかし、暦だけは違った。どんなプログラムでも彼女が起こしたバグ、執着心だけは取り除くことはできなかった。これは修正機としての役目を持つ我々にとって致命的な欠陥となる」
言葉が、もう理解を超えていた。否、理解したくなかった。暦の全てを否定されたようで、胸の奥が抉られる思いだった。
「結果として、修正できない不具合を抱えているとして、暦を最初で最後に星は次世代の演算処理装置を星霊に搭載することはしなくなった」
歴の言葉が、静かに、しかし確実に終止符を打った。
雨は止む気配もなく降り続いていた。二人の間に重苦しい沈黙が流れる。
俺は、あんまりだと思った。
生まれる理由も、存在の意味も、すべて星の勝手な都合で決められ、そして消される。救いなど、どこにもない。
だから俺は、問わずにはいられなかった。
「歴、教えてくれ。何故、俺が全ての元凶なんだ」
困惑を隠せない俺の様子に歴は小さく鼻を鳴らして笑った。
「なるほど。暦はお前に本当に何も教えていないんだな」
その口から出る言葉に胸の奥がざわめいた。
いても立ってもいられず、俺は声を張り上げる。
「どういうことだよ!?何か知ってるのなら教えてくれよ!?」
だが、返ってきたのは鋭い視線と、突き放すような言葉だった。
「先に言っておくが、私は暦と違い、優しくはない。特にお前たちにはな」
その冷ややかさに、思わず俺は一歩引いた。
剣のように突き刺さる口調。彼女の敵意は隠されてもいなかった。
「私は別にお前を助けるためにここに来たわけじゃない」
そう言うと歴は、ゆっくりとした足取りで俺に近づいてくる。
そのとき、ようやく気づいた。彼女の頭上だけ、まるで空間が歪んでいるように雨粒が曲がり、弧を描いて地面に落ちているのだ。
「私がお前の前に来たのは、旧友への礼儀を果たすためだ」
「......礼儀?」
思わず聞き返すと、歴は静かにうなずいた。
「ああ、そうだ。お前がどう朽ちていくのかを、見届けてやろうと思ってな」
まるで告別の言葉のように、それは宣言された。
俺には意味がまるで掴めなかった──。いや、彼女も俺に理解されることなど初めから期待していない。
彼女の言葉は、独り言のように完結していた。
「なんだよ、それ......」
絞り出すように呟く俺に、歴はふっと視線を逸らし、ため息をついた。
それから少し考えるような素振りを見せたあと、また静かに言葉を紡ぐ。
「まあ......お前も災難だったとは思う。あの子の勝手な事情に巻き込まれて......。次はたった一人にされた」
「そう思うなら、暦を返してくれるように星に頼んでくれよ。どうせ出来ないだろ?」
俺は苛立ちを隠さずに吐き捨てるように言った。
言葉の棘は自覚していたが、今の俺には皮肉でも言わなければ心の均衡が保てなかった。
「その通りだ」
歴は短く言い放った。
まるでそれが当然だと言わんばかりの、揺らがぬ声音だった。
その言葉に、胸の内が急にざわつき始める。
俺はまだ、暦の安否について何一つ知らされていない。ただ「廃棄処分が決定した」と聞かされただけだ。
それがいつなのか。どこでなのか。どんな方法でなのか──何も分かっていない。
最悪、すでにその処分とやらが実行されていてもおかしくはない。
そんな思考がよぎるたびに、胸の奥に鉛のような重さが沈んでいく。
どうして星霊たちは、いつも肝心なことを何も語らないんだ。暦も含めて──。
「そもそもだ、どうしてみんな暦のことを忘れているんだ? そして、なぜ俺だけが暦のことを覚えている?」
俺は、ずっと抱えていた疑問をようやく口に出した。
どうせ分かりやすい説明は返ってこないとは思う。
まず俺は自分の立てていた仮説を彼女に話した。
すると歴は少しだけ間を置いたあと、言った。
「全てではないが、概ねそれで合っている」
その言葉に、思わず眉をひそめた。
あっさりとした肯定に、拍子抜けしたというのもある。だがそれ以上に、その“合っている”の中身が気になった。
歴は続けた。
「確定し、過ぎ去った過去を改変すると、今が書き換わる。そして、その結果として、今の自分を保証できなくなる。星にとってはこれは大きなリスク。だから、星は確定した結果に手を出さない。そして、この現実の異物として存在する暦を抹消することで、効率よく問題を解決することができる」
彼女の声は淡々としていたが、その言葉一つ一つに重さがあった。
「三次元のお前を始末するよりも星の所有物である暦を消す方がこの現実には一番影響がなく、確実な方法なんだ。それに暦を廃棄してしまえば、わざわざお前を手にかける必要もないからな」
歴は静かに、しかしはっきりとそう言った。
心臓がドクンと脈打つのを感じた。
確かにその通りだ。俺は未来を変えようとしている。
本来なら、そんな行動をとる人物に対して、星が何らかの干渉をしてきてもおかしくない。
むしろ、消し去ることが一番効率的なはずだ。なのに、奴らはそれをしてこなかった。
単に情けをかけているわけではないということだろう。星の予定は俺の存在を考慮した上で成り立っているわけだ。俺を殺すなどのしたら、さらに未来を調整する手間が発生するのだろう。
「お前が暦を覚えているのは、お前が“イレギュラー”だからだろう。おそらく、お前は暦の“核”と、魂の根源で繋がっている。それも一因かもしれない」
歴はそれを、あまりにも当然のように言った。
俺は思わず目を見開いた。
あまりにもさらりとした物言いに、拍子抜けすら感じる。
「......何だ、その顔。知ったかぶりして欲しかったなら、そう言えばいい。してやるから」
歴は肩をすくめ、茶化すように微笑んだ。
その表情は、どこか悪戯好きな子どものようだった。
「......いや、いい」
俺は視線を逸らしながら、そっけなく返す。
だが、心の奥では確かに引っかかっていた。
もし俺が他の人間と違うとすれば、それは“未来の記憶を持っていること”、そして歴の言う通り、“暦と魂の根源で繋がっていること”──それくらいしか思いつかない。
そして、ふと疑問がよぎる。
「......そもそも、なんで俺と暦は繋がってるんだ?」
口にしてから、自分でも驚いた。
今まで深く考えたことがなかった。
あのときは、あまりに多くのことを一度に知りすぎて、訊く余裕すらなかったのだ。
そう問いかけたときだった。歴は不敵な笑みがこぼした。
「いいだろう、どうせお前の未来はもうないわけだ。冥土の土産に教えてやろう。お前が暦にとっての何なのか。お前は一体何者なのかを」
その瞬間、空にかかっていた雨雲が静かに流れ去り、雨がぴたりと止んだ。
歴は空を見上げながら、ぽつりと呟く。
「丁度いい。さて、まずだが......お前はさっきこう思ったな?何故、無くなったはずの街の星霊がこうして生きているのかと」
「そうだ。街が無くなれば、星の希望の供給がなくなり、存在を維持できないと暦は言った」
俺の言葉に、歴はすぐさま首を横に振った。
「それがそもそも誤りだ」
「──はっ?」
呆けた声が漏れる。
歴は皮肉気に笑った。
「なんだその顔? なら、仮にそれが正しかったとしてだ。私がこうして存在することを、どう説明するんだ?」
答えられなかった。
まったく、言い返せなかった。
「......暦はお前に全てを伝えてはいない。意図的に伝える情報を絞っていた」
「な、何故、そんなことをする必要がある?」
思わず問い詰めるように声を上げると、歴の目が細くなった。
「そうだな......どうしても“秘匿しておきたいこと”があるからだ」
その言葉を聞いた瞬間、心拍が跳ね上がる。
──暦が俺に隠し事?
彼女だって、女の子だ。秘密の一つや二つあるだろうが、そういう話ではない。
「順を追って説明してやる。......まず確かに、私たち都市星霊の存在を担保する“星の希望”は、街に対する期待から発生する。それをエネルギーとして使っているのは事実だ。だが、供給源はそれだけじゃない」
「もう一つ......?」
聞いたこともない事実に、思わず聞き返す。
歴は静かに告げた。
「それは、星そのものだ」
「星......?」
耳を疑った。
星とは、今まさに俺たちが戦っている相手。暦を見捨て、挙げ句の果てには廃棄処分まで決定した。
その星から、供給されている?
「そうだ。星霊は『街』と『星』──二重のエネルギー供給を受けている。だから、仮に街がなくなっても、星からの供給で存在を維持することはできる。なんなら奇跡を熾すことすら可能だ」
言葉の意味が、一瞬で脳に流れ込んできた。
──それなら、俺がしてきたことは? 街を救うために奔走し、未来を変えたあの選択たちは──全部?
全身の力が抜ける感覚に襲われる。今まで築き上げてきた世界が音を立てて崩れていくようだった。
「......暦が俺を騙していたとでも......言うのか?」
捻り出すように言葉を発する。
「......そうだな。確かにそういう風に捉えることもできるな」
「煮え切らない答えだな......」
歯噛みする俺に、歴は肩をすくめた。
「身内を悪者にするのは憚られる。確かに今の状態を維持すれば、いずれ消滅する。それもまた、真実だ」
「意味が分からない。なぞなぞをしてるつもりはない。......結論を言ってくれ」
苛立ちを抑えながら促すと、歴は静かに告げた。
「そうだな。──天戸湊、お前は十年前、この神影市を襲った震災に被災した。そしてその時、お前は“死んだ”」
「──え?」
その瞬間、世界が止まった。
歴の言葉が意味を成すのに、時間がかかりすぎた。
俺は──死んでいた? 十年前に?
現実が、音もなくひっくり返る。
思考が凍りつく。理解を拒む脳の中で、彼女の声だけが淡々と続いていた。
「そして暦は、お前を救うため、自分の存在の核とお前の魂の根源を繋いだ。そして、お前の“死”の因果を歪めたんだ。......お前が今日まで──いや、二十年後までも生きていたのは、彼女が常に、お前に星の奇跡の中でもっとも高等で、もっとも負荷の大きい“新星の奇跡”を熾し続けてきたからだ」
ゆっくりと歩み寄った歴が、俺の額に指を当てる。
「......続きは見て来い。あの暦の“記録を幽閉する錠前”を解凍するのは骨が折れるが、やってやろう」
次の瞬間、頭の中に焼けつくような激痛が走った。
そして、堰を切ったように、凄まじい勢いで記憶が溢れ返った。
*
それは、刺すような冷気が肌を突き刺す冬の日だった。
空は厚い雲に覆われ、光の届かない世界に、突然の衝撃が大地を貫いた。地面が隆起し、空間がねじれる。瞬間、凄まじい揺れと爆音が俺の全身を襲い、足元が崩れ落ちたかと思った瞬間、俺は部屋の窓を突き破って外へと投げ出されていた。
空中を舞いながら視界が回転し、次に見えたのは闇と炎の入り混じる街の姿だった。落下の衝撃はすさまじく、地面に叩きつけられた瞬間、信じがたい激痛が全身を貫いた。骨が砕け、筋肉が断裂し、内臓が圧迫されるような感覚。呼吸すら許されず、肺が空気を求めて悲鳴をあげている。
寒さも痛みも、もう感覚としては曖昧で、意識の輪郭がゆっくりと霞んでいく。生と死の境が曖昧になる、あの嫌な感覚だ。
どこかの建物から火の手が上がっている。崩壊した家々の隙間から炎が伸び、暗い夜空を赤々と照らしていた。誰かの叫び、どこかで鳴るサイレン。聞きなれない音の洪水に、耳も目も麻痺していく。
五歳の小さな身体では、この破壊に耐えられるはずがなかった。口の端から溢れ出した血が喉に絡み、折れた肋骨が肺を突き刺すたび、内側からの痛みに耐え切れず呻くことすらできない。
息ができない。喉が詰まり、陸地にいながら溺れていく──そんな感覚。
このまま死ぬんだ。幼いながらも本能的にそう悟った。
そのときだった。
炎と煙で曇る空に、一筋の青白い光が現れた。
それは彗星のように空を裂き、急降下してきたかと思えば、地面ギリギリの位置で急停止し、そこから軽やかに宙返りを打って俺の傍らに着地した。
──少女だった。
長く金色に輝く髪を持ち、深い蒼の瞳を宿した、美しい少女。黒いコートを身に纏い、その背には直線的な、機械のようにも見える青白い光の翼が四枚、展開されていた。
誰だろう、この人は。
ぼんやりとした思考の中で、そんな問いが浮かぶ。
「大丈夫ですか!?」
少女は真っ青な顔で俺の隣に膝をつき、今にも泣きそうな目で俺の様子を覗き込んだ。
そして、俺の傷を目の当たりにすると、小さく震える唇を開いた。
「これは酷い......」
その声には、確かな絶望が滲んでいた。
恐る恐る手を伸ばして俺の胸に触れた瞬間、彼女の表情がさらに強張る。
「折れた肋骨が呼吸器の複数箇所を貫いてる......。出血も激しい。これではもう......」
希望を見つけようとしても、それが見つからない。そんな顔だった。
「でも、絶対に見捨てたりはしない」
言葉に決意を込めると、少女は躊躇なく自らのコートのボタンを外し、下に着ていたブラウスを露わにした。そして、勢いよくその布地を下着ごと引き裂き、白磁のような肌と、淡く光を反射する胸元が現れた。
彼女は胸の中心に手を当てると、何かを“引き抜く”ような動作をとった。すると、胸の谷間から青白く発光する、まるで生体ケーブルのような物体がスルリと引き出された。それは彼女の翼と同じ光を放っていた。
少女は何かを決意したような目をし、迷いなくそのケーブルを俺に向けて差し出した。その動きが俺の胸元に届こうとした、その刹那──。
もう一つの手が、それを掴んで止めた。
「暦、何をしているっ!?」
新たに現れたのは、短く切り揃えられた漆黒の髪を持つ少女だった。
黒曜石のように輝くその髪と、冷えた怒気を帯びた瞳。彼女は先の少女を止め、怒りをぶつけた。
「邪魔をしないでっ!!」
止められた少女──暦と呼ばれたその存在は、声を荒げた。
「お前は何をしようとしている!?」
「見れば分かるはずっ!!わたしの星霊核と彼の魂の根源を接続し、存在を共有します!」
その言葉に、黒髪の少女──歴の表情が怒りに染まる。
「私が聞いているのは、その後の話だっ!!」
凍てつくような叱責。しかし、暦の目は微動だにしない。
「決まっているでしょう!新星の奇跡で彼の死を拒絶する!存在を共有すれば、星の希望の判断をすり抜けられる!!歴、お願いだから邪魔をしないで、これはわたしの役目ですっ!」
暦の叫びはまるで命を燃やすような熱を帯びていた。その激情に、歴は苦悶の表情を浮かべた。
「許容出来るわけがないだろっ!?その奇跡は本来、戦いで機能停止した同胞を一時的に蘇生させ、戦力を維持するためのものだ。蘇生させた後はどうする?この人間の寿命が尽きるまでそのままのつもりか?」
「さもありなん!!」
叫ぶように断言する暦。その顔を見た歴は、思わずその頬に平手打ちを叩き込もうとする。
だが──その手は、暦の肌に触れる寸前で弾かれた。吹き飛んだのは歴の手の方だった。
粒子のような鮮血が宙に舞い、歴の右手からは血が滴り落ちる。
「判断回路に不具合でも起こしているのか!?」
痛みを無視し、冷静な口調で歴は言う。彼女の声には混乱がない。ただ怒りだけがあった。
「それはあなたの方でしょう。音速の11倍で推進してきたんですよ?星を包む防層が展開されていることを失念したあなたに言われたくありません!」
暦の視線が、歴の傷ついた右手を一瞥する。
歴は息を吐き、苦しげに口を開く。
「ダメだ。どれだけ問答を繰り広げてもそれは許容できない!」
「歴の意見は聞いていません!」
「これは淘汰だ、違うか!?」
空気が震える。歴の声には、焦りと怒りが混じっていた。
「それが何ですか!?わたしは絶対に守らないといけない約束があります!」
「右虎の血脈にこだわる必要はないっ!!別に血が絶えるわけではないんだぞ?」
感情を爆発させた後、歴は瞼を閉じ、次の言葉は、まるで祈るように静かに発せられた。
「この大災害だ。例え復興しても昨日までのような星の希望は発生しないだろう。戦後とは違い、お前に『星の命』は下っていない。分かるだろ?星はこの地の再生を考慮していない。そんな環境で新星の奇跡など熾せば、いずれ星の希望が尽きて、お前は存在を保てない」
その言葉には、冷たくも確かな現実が宿っていた。
「歴、わたしは六十年前からずっとわたしの存在について、自問自答してきました。そして、この選択がわたしの答えです」
暦の声は、決して揺らがなかった。
それを聞いた歴は、もう言葉を失い、ただ顔を伏せて、肩を落とした。
「頼む、暦。もう諦めてくれ......。私のスペックではお前には無理矢理止めることはできない。私はこうして言葉で説得するしか方法がないんだ」
懇願するような声。
しかし──
「約束は守ります。例えこの身が滅びに向かおうとも必ず──」
その言葉に、空気が震えた。
少女は運命を拒絶するために、すべてを差し出す覚悟を決めていた──。
*
意識が浮上していく感覚があった。
まるで深い海の底からゆっくりと浮かび上がるように、暗闇が次第に薄れていく。
目を開けると、俺は地面に倒れていた。視界のすぐ上には、歴の顔があった。彼女がこちらを覗き込んでいる。
「目が覚めたか」
静かに、しかし少し安心したような声だった。
「ああ......」
俺は呻くように答え、重たい頭をゆっくりと持ち上げた。
上体を起こし、ズキズキと痛む額を押さえる。思考がまだ靄の中にあるようで、はっきりしない。
「どのくらい意識を失っていた?」
頭の痛みを堪えながら、歴に尋ねた。
「大した時間じゃない。ものの数分だ」
「そうか......」
少し安堵した。
頭から手を離し、代わりに自分の胸へとそっと手を当てる。温もりはある。自分がまだここにいることを、ほんのわずかに確かめるように。
俺は、これまでずっと暦に生かされていた。
彼女はその身を削って、俺の存在を維持していた。星の希望という、命そのもののような力を惜しげもなく注ぎ込みながら。
演奏会の日──。
創星の奇跡を使った直後の、彼女の疲労困憊した姿が脳裏に蘇る。
一体、どれだけの負荷を背負い続けていたのか。
想像を絶する現実に、胸が締めつけられる。言葉にならない感情が、喉元まで込み上げてくる。
そんな俺の沈黙を破るように、歴が口を開いた。
「お前が昏倒している間、暦と再会してからの記憶を覗かせてもらった」
唐突な発言に、俺は思わず目を見開いた。
何を言ってるんだ、この女は。
「実に興味深い記憶だった。記録を幽閉する錠前を解凍せずに、どうやってお前を懐柔したのか、気になっていたんだ」
その理由も、あまりに当然のように語るから、さらに拍子抜けした。
「そ、そうか......」
とりあえず、気の利いた反応が出てこないまま、曖昧に相槌を返す。
「うむ」
歴は真っ直ぐに俺を見つめていた。
その視線には、どこか探るような色がある。
不思議なことに、意識を失う前とはどこか雰囲気が違っているように感じた。
「しかし、暦は上手く説明するもんだ。感心した」
彼女はそう言いながら、わずかに口元を緩めた。
何を指してそう言っているのか分からず、俺は思わず眉をひそめた。
「天戸湊。暦はお前に嘘は吐いていない」
その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなった。
ほんの一瞬でも彼女を疑っていた自分が、情けなく思えて仕方がない。
「星霊が街から星の希望を供給できる量は、全体のほんの数パーセントにすぎない。発生したほとんどの希望は、星へと還元される」
静かに語られる現実に、俺はぽつりと呟いた。
「星ってのは随分とケチなんだな......」
その言葉に、歴がふっと笑ったような気がした。
気のせいかもしれないが、ほんのわずか、柔らかな空気が流れた。
「元々、そういう仕組みだからな。星霊はすでに存在していたシステムに、あとから追加された存在だ。それに、我々が稼働するために必要な星の希望の大部分は、星から直接供給されている。むしろ、街からの供給はバックアップに近い」
呟くようなその説明には、どこか諦めと切なさが滲んでいた。
「暦は随分と昔に、星からの接続を切られている。彼女は、ずっとそのバックアップだけで生きてきたんだ」
......なんて奴だ。
ずっと、そんな不安定な状態で、何も言わずに俺を支え続けていたなんて。
今、歴は何を思っているのだろう。
赤い瞳が静かに伏せられる。そこには、どこか遠くを見ているような、空虚な色があった。
やがて彼女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その表情は、俺が今まで見た中で一番穏やかなものだった。
「ただ、見て後悔した」
小さな声で、彼女はぽつりと呟いた。
「どうしてだ?」
何か、良くないものでも見てしまったのか?
確かに、あまり見られたくない記憶もあったが、やましいことはなにもない......はずだ。
俺の問いに、歴は答えた。
「あんなに笑っている暦を見たのは、初めてだった」
思わず、息を呑んだ。
その言葉は、意外だった。けれど、嘘ではないと分かった。
歴が知っている暦は、どんな存在だったのだろうか。その違いが、言葉の温度で伝わってくる。
確かに今の歴の声は、今までで一番、温かみがあった。
それは、たしかに友を想う言葉だった。
「暦はまだ生きている」
俺は呟いた。信じるように。願うように。
歴は、ゆっくりと頷いた。
「その通りだ。暦が完全に廃棄されていたら......お前は今ここにいない。即死している」
その一言に、身体が震えた。
つまり俺は常に、見えない銃口を額に突きつけられて生きているのと同じ、そんな状況にあるということだ。
「暦を星から取り返す方法はあるのか?」
切実な問いだった。だが、歴の答えは、期待とは裏腹だった。
「すまない。それは分からない」
彼女は、それ以上何も言わなかった。
言葉の余韻だけが、空気に残る。
そして、しばらくの静寂ののちに、ぽつりと呟くように口を開いた。
「......少し話しすぎたな。別に、お前と仲良く会話するつもりはなかった」
その言葉には、どこか寂しげな響きがあった。
だが彼女は、それを振り払うように踵を返す。
「わたしとしてはお前が今すぐにでも自分の生を諦めてくれれば、状況も変わって、星が暦の廃棄を取り下げるかもしれないと思っていたんだがな......」
背中越しにそう告げると、彼女はゆっくりとその場を去ろうとした。
その足取りは迷いなく、けれどどこか重たかった。
確かに、彼女の言うことにも一理あるのかもしれない。暦が今、星に追われる立場にあるのは、すべて俺を守るためだ。俺を生かし続けるために、彼女はずっと力を使い続けていた。
三十年もの間、絶え間なく──。
もし、俺が彼女の元を離れれば。
俺の存在が消えてしまえば──彼女はもっと長く存在を保てるのかもしれない。
暦なら、きっとどんな状況でも、生き残る術を見つけるだろう。そんな気がする。
だが、そう割り切れるほど、俺は強くなかった。
渦巻く葛藤の中で、込み上げる想いを抑えきれず、俺は声を振り絞った。
「れ、歴!!最後に教えてくれ......っ!十年前、お前の言っていた“血脈”ってなんだっ!?」
その言葉に、彼女の肩がピクリと小さく震えた。
足を止め、ゆっくりと振り返る。
そして、淡々と──だが、どこか決意を含んだ声音で答えた。
「それは、暦の口から聞いてくれ。その方がいいと私は思う」
その一言を残し、彼女は空間ごと、すっと姿を消した。
まるで、たった一度の瞬きの間にすべてが幻だったかのように。
静まり返った空間に、俺だけが取り残される。
泥濘の広がる地面を、ただ黙って見つめることしかできなかった──。