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海風Re:fine〜街を語る少女と時をかける記憶〜  作者: 甘照すう
5章:街を語る少女の消失
25/40

24話:異変の兆し

翌日。

 いつもより、ほんの少しだけ──たった数分だけなのに、それが思いのほか致命的なズレだった。

 俺は起きるのが少しだけ遅れてしまい、特に理由もなく、ぼんやりしていたせいで気づけば登校時間をわずかに過ぎていた。慌てて制服に袖を通し、食パンひとつ咥える暇もなく家を飛び出したのは、その小さな遅れに焦りを覚えたからだった。

 別に遅刻するほどではない。まだチャイムには間がある。けれど、いつものタイミングで家の前に現れるはずの彼女──神戸暦は、きっと今日も俺の家の前で待っている。毎朝、律儀にバスと電車を乗り継ぎ、面倒な通学路を経てここまで来てくれる彼女には感謝してもしきれない。

 だからこそ、俺は焦った。門扉を勢いよく開け、玄関先から前の歩道を確認する。

 理由は一つ。彼女は、時間に厳しい。遅刻した暁には声のトーンが少し下がり、口数が減り、顔にはうっすらと不機嫌の影が差す。

 だから、俺は急いだ。遅刻とまではいかなくても、彼女の中ではすでに“時間厳守”という暗黙のルールが存在している。破れば、間違いなく小さな地雷を踏むことになる。


「すまん!ちょっと遅れた!?──……ん?」


 けれど、俺が息を切らしながら玄関を飛び出したとき、そこには誰もいなかった。

 驚きに眉をひそめ、歩道の先を見渡してみても、人影ひとつ見当たらない。

 彼女の姿はおろか、他の人の姿すら見えなかった。


「……あれ?どういうことだ?」


 一瞬、頭の中でいくつかの可能性を思い浮かべた。もしかして、俺が出るのが遅かったせいで、先に学校へ向かったのだろうか?

 しかし、それはおかしい。俺がここまで出るのが遅れたとはいえ、せいぜい十分程度。過去に何度か似たようなことはあったが、彼女がそれだけで先に行ってしまったことなど、一度としてなかったはずだ。


「……暦が、遅刻してんのか?」


 思わず、あり得ない推測を口にしてしまった。だが、現実として彼女はここにいない。

 俺は慌ててガラケーを取り出し、彼女の番号を素早く選んで発信する。

 呼び出し音が数度響くも、応答はなし。彼女が電話を無視するなんて、今までに一度もなかった。

 不安がじわじわと胸の中に広がる。


「……おかしいな」


 結局、数分その場で待ってみたが、彼女が姿を現すことはなかった。時間ぎりぎりまで粘ったが、やむなく俺は学校へ向かうことにした。



 教室に飛び込むようにして到着したのは、始業一分前。時計の針は八時二十九分を指していた。


「うっす、アマミナ。遅刻かと思ったぜ?」


 俺の席の前に座る晴人が、相変わらず飄々とした表情で声をかけてきた。

 いつものように軽口を叩きながらも、どこかその目は俺の様子を伺っているようだった。


「たまには、こういう日もある」


 息を整えながら椅子に座り、苦笑混じりに返すと、今度は沙羽が机越しに声をかけてきた。


「へぇ〜、珍しいねぇ。いつも天戸くんは早いのに。……あれ?暦ちゃんは?」


 その言葉に、俺は思わず暦の席を目で追った。

 そこには、誰もいない。きちんと整えられた机と椅子が、ただひっそりと存在しているだけだった。

 教科書もノートも、何ひとつ置かれていない。まるで今日、誰もその席に座る予定がないかのように。


「いや、俺も知らない。休みって聞いてないけど……」


「そうなんだ〜……」


 沙羽は心配そうに眉を寄せ、しばらく考え込むような表情を見せた。


「てっきり、いつものように一緒に登校してるもんだと思ってたよ」


 俺は再びガラケーを取り出し、沙羽に画面を見せながら言った。


「朝から何度も電話もメールもしてるけど、返事がないんだよ」


 沙羽もすぐに自身の携帯を取り出し、何やら操作し始める。きっと同じように、彼女も暦に連絡を取ろうとしているのだろう。


「風邪とかじゃないのか?」


 会話の端にいた晴人が、何気なく口にした。


「……風邪?」


 その言葉に、俺は小さく呟いた。

 けれど、すぐにそれを否定する思考が頭を駆け巡る。

 いや、そんなはずがない。

 彼女は“人間”じゃない。都市星霊──人知を超えた存在なのだ。

 風邪だの熱だの、そんな人間が罹るような疾患に彼女が倒れるなんて、ありえない。


 きっとそのうち、何事もなかったかのように笑顔で教室に現れる。

 そう思い込もうとした俺だったが、午前中の授業が終わっても彼女は姿を見せなかった。

 そして──担任の倉敷先生が、いつものテンションで教室に入ってきた時にも、暦の欠席連絡は届いていなかったらしい。

 つまり、無断欠席。

 そんな彼女らしからぬ言葉が、教室に静かな衝撃を走らせた。

 昼休みになっても、彼女の影はどこにもなかった。

 俺はもはや居ても立ってもいられず、何度も彼女の携帯に電話をかけ続けたが、反応は変わらず無音のまま。

 不安と焦燥が、じわじわと胸を締め付けていく。



 放課後。

 チャイムと同時に席を立った俺は、荷物を持つのもそこそこに校舎を飛び出した。

 電車で生元まで向かい、市役所前のバス停からバスに飛び乗り、彼女が拠点とする古びた洋館を目指す。

 路線バスの停留所の数がこの時はだけは妙に多く感じ、そのもたつきに苛立ちを覚えながらも、終点で飛び降りた。

 息が切れ、膝が軋む中、俺はあの長い坂道をひたすら登った。

 彼女の住処である洋館は、今日も変わらず廃墟の佇まいを保っていた。

 無造作に伸びた雑草が庭を埋め尽くし、錆びた門扉には誰の手も加えられた形跡がない。

 俺は周囲を確認してから、ギィと音を立てて門を開け、玄関前に立った。


「おーい、暦!休むなら連絡ぐらいしてくれよ!」


 声を張り上げても、返ってくるのは風に揺れる木々のざわめきだけ。

 呼び鈴もなく、俺は戸を拳で叩いた。

 朽ちた塗料がパラパラと落ちて、手の甲にまとわりつく。


「……なあ、暦?いるんだろ?」


 何度呼んでも、彼女からの応答はなかった。

 そのときだった。

 背後から、突然声がかかる。


「あなた、そんなところで何をしてるの?」


「へっ?」


 振り返ると、犬を連れて散歩中と思しき年配の女性が、怪訝そうにこちらを見ていた。

 しまった、と思った。

 制服姿の高校生が、人気のない廃屋の扉を叩いている姿は、どう見ても不審者だ。

 慌てて曖昧に笑い、誤魔化しつつその場を後にした。

 これ以上ここに留まれば、通報される可能性もある。

 俺は早々にその場を離れるしかなかった。



 そして──さらに次の日。

 結局、昨夜も暦からの連絡は一切なかった。

 今朝も彼女は俺の家の前に現れず、不在のまま。

 携帯は沈黙を続け、返信も何も無かった。

 学校に着いた俺は、授業が始まっても落ち着かず、ガラケーの受信ボックスを何度も開いては閉じ、焦燥に駆られながら画面を睨み続けた。


「天戸くん、大丈夫?」


 心配そうな沙羽が、そっと俺の机に身を寄せてきた。

 俺はガラケーを握りしめた手を見せつつ、唸るように答えた。


「……暦に、連絡がつかないんだ」


 その言葉に、沙羽も顔を曇らせた。


「やっぱり……。私も昨日から、何度もメールしてるけど返ってこなくて……。ねえ、天戸くん、暦ちゃんの家には行ってみた?」


「ああ。昨日、行った。けど、誰もいなかったんだ」


「そ、そっか……。心配だね……。で、でも、天戸くんなら、暦ちゃんの家族の連絡先とか知ってるんじゃない? お母さんとかお父さんとか!」


 その提案は、一般的には正しい。けれど──。

 暦には、そういった“家族”という概念が存在しない。星の意思によって造られた存在に、血縁関係などあろうはずもない。


「……そ、そうだな。連絡してみるよ……」


 俺は、そう返すしかなかった。

 本当はどうすればいいか分からなかった。


 

 そして、その日が終わっても──暦の行方は、ついに掴めなかった。

 学校では倉敷先生に、それとなく彼女に関する連絡が来ていないかと尋ねた。教師としての立場から、何か知っているかもしれないという淡い期待だった。しかし、その問いに対して返ってきたのは、予想通りの首を振るだけの無言。そして「やはり連絡は一切ない」と冷たく告げられた。

 俺は重たい気持ちを引きずったまま、家へと帰宅した。

 玄関の扉を閉めた瞬間から、妙な違和感がまとわりつく。靴を脱ぎ、いつもと同じ廊下を歩く音でさえ、どこか他人の生活音のように感じた。リビングから母さんの声が聞こえる。


「晩ごはん、どうするの?」


 それに対して俺は、視線すら向けずに短く返した。


「まだいい」


 それだけ言い残し、自室へと足を進める。ドアを閉めた瞬間、外の世界との境界が絶たれたような感覚に襲われた。

 部屋の中は静かだった。ベッドにそのまま身を投げ出し、天井を見つめながら思考が勝手に動き始める。


「まさかあいつ、四次元に帰ったのか?」


 ふと、記憶の奥底にしまわれていた、昔観たアニメのワンシーンが浮かぶ。未来から来た友達が、突然姿を消してしまい、残された主人公が必死になって行方を追う──けれど、結局その友達は未来に帰っていただけだったという、どこかほっとするような物語だった。

 暦も、もしかしたらそんなふうに、一時的に四次元へと戻ってしまったのだろうか。

 何の連絡もないのは、いずれ帰ってくる前提だから。

フェスタの成功により星の希望が回復し、ちょっと里帰りと、気軽にこの世界から一時的に離れたのではないか。そんな気がしてくる。

 その可能性に思い至ると、俺は力なく鼻で笑い、制服を脱ぐ気もなく、ベッドに寝転んだまま目を閉じた。


「ったく……、それならそうって言えよ」


 天井の明かりのぼんやりとした明滅が、まるで心拍に同調しているようだった。


「いつ帰ってくるんだろ……」


 俺の呟きは空気に溶け、虚しく消えていく。妙な感覚だった。彼女がいない、それだけで世界が一段階くらい、暗く、冷たく、寂しいものになったように感じられる。


「暦がいない時の俺って、何して過ごしてたんだっけ?」


 思い返そうとするが、今までの生活の輪郭が曖昧になっていた。暦という存在が俺の記憶の中心に、あまりにも自然に溶け込んでいたせいだ。


「……暦」


 その名を口にした瞬間、まるでそれが何かを呼び起こす呪文のように、意識が急速に沈んでいく。



 焼け焦げた匂いが鼻を突いた。

 強烈な違和感とともに、全身が鉛のように重く、指先ひとつ動かすこともできない。冷たい空気が皮膚を刺し、身体の芯から震えるような寒さが這い上がってくる。

 それでも、耳は何かを捉え始めた。


「ダメだ。どれだけ問答を繰り広げてもそれは許容できない!」


 鋭く怒りを含んだ声が、空間に響く。


「歴の意見は聞いていません!」


 続けて、別の声。聞き覚えのある声──少女の声。

 まるで遠くの記憶から届いたような声に、胸の奥がズキリと痛んだ。視界は真っ暗で、自分が立っているのか、倒れているのかも分からない。だが、その言葉だけは、はっきりと届いてくる。


「これは淘汰だ、違うか!?」


 怒りと焦燥が入り混じったような声が、さらに空気を震わせた。


「それが何ですか!?わたしは──」


 少女の叫び。震えながらも、強い意思を感じる声。

 思い出した。この感覚は夢だ。何度も、何度も繰り返し見る夢だ。そして目覚めれば、必ず忘れる夢──。



「ここは?」


 目を開けると、部屋はすっかり暗くなっていた。時間の感覚がまるでない。まるで時間だけが俺を置いて、勝手に進んでしまったようだった。

 手探りで目覚まし時計を手に取り、表示を確認する。緑の液晶が浮かび上がり、午後九時三十二分を示していた。


「どれだけ寝てんだ、俺は」


 頭が重い。変に寝入ってしまったせいか、頭痛が鈍く続いていた。ベッドの上で身体を起こし、ぼんやりとした視界の中、照明のリモコンを探って部屋に光を戻す。

 意識が少しずつ現実に戻るなか、何となくガラケーを手に取り、開いて待ち受け画面を見る。特に写真も設定していないため、シンプルな画面が映る。


「相変わらず返信はなしか」


 ぽつりと呟きながら、ガラケーを手から滑らせるようにベッドの上へ放った。立ち上がり、食事を取ろうとリビングへ向かう。


「暦のやつ、そろそろ帰ってこいよな……ん?」


 ドアノブに手をかけた瞬間、ふと、あの夢の記憶が脳裏に焼き付いた。


「あの夢って……」


 そう、それは何度も見てきた夢だった。けれど、目覚めるたびに必ず忘れていた。だが今回は違う。鮮明に残っている。そして、何より気になるのは──


「あの夢に出ていた女の子は……」


 あの声は、間違いなく、暦のものだった。手をかけたまま、ドアの前で俺の動きは完全に止まった。


 ──あの夢に出てきた暦は、いつの暦だ?


 俺はかつて、暦と「再会」した時、彼女に「久しぶりです」と言われた。その言葉に引っかかり、彼女と過去に会ったことがあるのではないかと考えたことがあった。

 だが彼女は「未来のことは知らない」とも言った。ならば、俺は彼女と今よりも前に会っていることになるのではないか。

 俺はドアノブから手を離し、床に転がっていたガラケーを素早く拾い上げた。迷いもせず、着信履歴を開く。だが、そこにはあって然るべき名前が──


「あれ……?」


 目を疑った。何度スクロールしても、「神戸暦」の名前がどこにもない。


「どういうことだよっ!?」


 心臓が凄まじい速さで鼓動を打ち始める。アドレス帳を開き、「か」行の名前を確認する。しかし、そこにあったのは『桂木雨喜』『桂木晴人』、そして『木村』──それだけ。

 信じられず、何度も確認した。ガラケーのメモリをを抜いて差し直し、再起動を繰り返す。それでも結果は同じだった。


「ありえない、ありえない!?」


 今朝、確かに暦に電話をかけた。昼も、下校中も。その事実があるのに、彼女の名前が消えている。

 荒れる呼吸。胸を締め付ける痛み。視界が滲みそうになる中、俺は震える指で沙羽に電話をかけた。

 数コールの後、明るく響く声が耳に届いた。


「もしもーし!天戸くん、急にどうしたのー?」


 あまりにも明るく、あまりにも無邪気なその声に、背筋が凍るような恐怖が走った。


「さ、三宮……急に電話して……ごめん」


 言葉がうまく出てこない。戸惑う俺に、彼女は少し心配そうに尋ねる。


「どうしたの?もしかして宿題のプリント忘れたとか?」


「ち、違う!?」


 語気を荒げてしまい、電話の向こうで彼女が驚いた気配が伝わる。


「え、えと……どうしたの?体調でも悪い?」


 彼女の優しい言葉に、俺は震えながら口にした。


「こ、暦のことなんだけど……」


 その瞬間──。


「ごめん、誰?その人」


 沙羽の口から発せられたその言葉が、まるで世界の崩壊を告げる鐘の音のように、俺の脳内に響き渡った。

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