23話:祭典の後に
波乱に満ちた地域交流フェスタが幕を下ろし、街は徐々に日常の静けさを取り戻していった。あれほどの熱気と混乱に包まれた一日がまるで嘘のように、翌日からはいつもの風景が何事もなかったかのように広がっていた。
フェスタの翌朝、新聞を広げると、紙面のあちこちに俺たちの高校に関する記事が掲載されていた。『高校生たちが向き合う街の成り立ちとは』という見出しが大きく躍り、写真付きで俺たちの活動が丁寧に紹介されていた。地域との関わりをテーマにした俺たちの取り組みは、多くの人に強い印象を与えたらしい。
この報道には、学校側も大いに満足していたようだ。何より、当日発生した軽傷の怪我人が大事に至らなかったこともあり、事後的な問題として取り沙汰されることもなかった。誰もが安心し、胸を撫で下ろしていた。
しかし、その穏やかな日々は、そう長くは続かなかった。フェスタの余韻がようやく薄れてきた頃、中間テストが始まり、学生としての現実が容赦なく襲いかかってきたのだ。
学生の本分は学業。そう自分に言い聞かせて、俺は渋々ながらも勉強に身を入れることにした。部活動の疲れもあったが、どうにか乗り越え、試験を無事に終えることができたのは、ほんの少しの努力と、かすかな自尊心のおかげかもしれない。
そんな試験期間中、ふと気づいたことがある。それは、暦が一切と言っていいほど、勉強をしている気配がなかったということだ。放課後になれば必ずと言っていいほどどこかへ出かけ、休日には俺のもとに誘いのメッセージや電話が届いていた。最初は何となく受け流していたが、やがて、ある推察が浮かび上がる。
──たぶん、彼女がメインで遊んでいた相手である沙羽が、試験勉強を理由に彼女の誘いを断ったのだろう。結果、暇を持て余した暦が、暇そうな俺を標的に選んだ──という筋書きだ。
ある日、思い切って彼女に尋ねてみたことがある。
「なぁ、勉強とかしなくて大丈夫なのか?」
その問いに、彼女は何のためらいもなく「しません」と即答した。あまりにキッパリとした言い方に、逆にこちらが動揺してしまったほどだ。
曰く、「普段から授業を真面目に受けているので、それ以上の勉強は必要ない」とのことだった。
ある日の放課後のことだった。
俺は教室を出ると、ふとした気まぐれで屋上に向かっていた。特に目的があったわけではない。ただ、放課後の教室に残る喧騒や、人の多さに疲れ、静かな場所に身を置きたくなっただけだ。
屋上の鉄扉はいつも通り錆びついており、開けるたびに軋んだ音が悲鳴のように耳をつんざく。そこから顔を出すと、どこまでも空が広がっていた。高く掲げられた太陽が、淡い光を世界に降り注ぎ、空にはふわふわと綿菓子のような雲が浮かんでいる。風は六麓山の方から吹き下ろし、雲たちはそれに押されて静かに形を変えながら流れていた。
そんな開放感のある空間に、俺は先客の存在を見つけた。
「うっす、暦」
フェンス際のベンチに腰掛けていた彼女は、金色の髪を風に揺らしながら、静かに景色を見つめていた。俺の声に気づくと、ゆっくりとこちらに顔を向け、微笑んだ。
終わりのホームルームが終わってすぐに姿を消していたと思ったら、こんなところにいたのか。
「湊さん、どうしたんですか?」
彼女の問いに、「別に何か用事があったわけじゃない」とだけ答え、俺は隣にどかっと腰を下ろした。
「ただ、少しぼーっとしたくなっただけだよ」
「そうですか。わたしも、同じようなものです」
「……そうなのか?」
「ええ……」
風が頬を撫で、しばし沈黙が流れた。互いに、言葉を交わすでもなく、ただ静かにその空気を共有するだけの時間。会話すらも野暮に思えるほど、穏やかなひとときだった。
だが、ふとしたきっかけで俺はその静寂を破った。
「そういえばさ、フェスタの時、女子の部員が怪我しただろ?でも、怪我は軽かったみたいだ。お前の言った通りだったな」
「さもありなんです」
誇らしげにそう返す暦を横目に、俺は以前から気になっていたことを口にした。
「なぁ……あの騒ぎ、やっぱり“星”の仕業だったのか?」
俺がそう尋ねたその時、太陽が雲に隠れ、周囲の光が一気に淡くなった。まるで、空までもがこの会話に意味を持たせるかのように演出しているようだった。
薄暗くなった世界の中で、彼女の金色の髪だけが神秘的な光を宿していた。
「断定はできませんが……恐らく、そうだと思います」
「断定できない?それってどういう意味だ?」
俺はその歯切れの悪さに、思わず眉をひそめた。
「実は、フェスタの数日前から、この街全体に“ジャミング”のような現象が発生しているんです。それがわたしの観測機能に干渉し、痕跡の検出を妨害しているんです」
「そんなことまでできるのかよ……」
俺の驚きに、暦は静かに頷いた。
「はい。おそらく連星の奇跡、観測を阻害する塵の影響かと推測されます」
「また訳のわからん名前が出てきたな……」
「特定の対象の状態を捕捉できなくする奇跡です」
「連星と創星とか色々あるんだな」
「はい、星の奇跡にはそれぞれ“役割”と“目的”があるんです。全部が何でもできる万能の力ではありません。車が人を速く移動させるための道具であるように、小銃が戦争で使われるように。奇跡もまた、それぞれ用途に応じた“道具”のようなものなんです」
俺は星の奇跡というものは、何でもできる不思議な力のように考えていた。しかし、それは違うようだった。彼女の説明から察するに、星の奇跡とはそういう名前の道具の総称に近いのではないだろうか。
「つまり、暦も奇跡を目的に応じて使い分けていたってことか」
俺がそう言うと、彼女は迷いなく頷いた。
「さもありなんです」
その言葉とともに、暦は右手の人差し指を顔の横にぴたりと立て、説明を続けるような所作を見せた。その仕草は、どこか教師のようでもあり、子どもに何かを教えるような、静かな確信に満ちていた。
「主に熾している星の奇跡は、人の意思や環境に直接干渉する性質を持った奇跡、現象を訂する物差です。これは、今話しているような記憶や認識、周辺環境の再構成に長けた奇跡です。そして、星も基本的にはこの奇跡を熾しています。干渉の規模やタイミングは異なりますが、奇跡そのものは同じカテゴリーに属しています」
俺は思わず感嘆の声を漏らした。
「へえ〜……本当に、いろんな奇跡があるんだな」
何気なくつぶやいたつもりだったが、暦はその言葉に反応し、目を細めながら少しだけ残念そうな表情を浮かべて口を開いた。
「さもありなんですが……わたしにはその奇跡に、極めて大きな制限がかかっていることを、お忘れなく」
その一言に、俺の中にあった小さな疑問が再び頭をもたげてきた。だから、思い切って聞いてみた。
「……星の意思ってやつに却下されるってことだよな?でも逆に言うと、フェスタの時、よくあんな派手なことができたよな。あれだけのことをやって、よく通ったもんだ」
俺の疑問に、暦は少し首を傾げたあと、静かに答えた。
「奇跡によって制限の掛かり方が違いますからね。現象を訂する物差は星の奇跡の中で最も低い等級である『連星』ですが、制限が強いです。逆に2番目に等級の高い『創星』の奇跡でも殆ど制限のないものもあります」
つまり、それはどういうことか。俺は考える。
決して強力な奇跡だからと言って、制限が強いわけではない。しかし、だからと言ってこれを頼りにするわけにはいかない。
「話が逸れてしまいましたが……星は、わたしたちの行動を確実に警戒しています。そして、あらかじめ対策を講じてきているのです」
暦の口調は淡々としていて、感情を抑えたものだった。だが、その内容は重かった。
俺は拳を握った。何かが胸の内側でじわじわと熱を帯びていく。彼女が冷静であればあるほど、俺の中には納得できない感情が生まれていた。
「……しかし、星ってのは本当に碌でもない奴だよな。人間を傷つけるなんて……信じられない」
自分でも少しだけ怒りがにじんでいるのを感じながら言葉を吐き出すと、暦は静かに、けれどもどこか寂しげな響きを込めて返してきた。
「……星を擁護するつもりはありません。でも……それを人間が言うのは、少しだけ矛盾しているように感じます」
「——なんだって?」
思わず声が低くなった。反射的に眉をひそめ、彼女を見つめる。
「もし、湊さんの気持ちを傷つけるような言い方をしていたら、すみません。でも、考えてみてください。人間もまた、自分たちの繁栄のために、他の生命に危害を加えてきました。必要に応じて、時にそれをためらいもせず行ってきたんです。それは人間に限らず、すべての生物が持つ、自己保存の本能でもあります。星もまた、そうして生きているだけです」
俺は言葉を失った。
確かに……彼女の言うことは正しい。人間は、自らの生存のためなら、他者の命を奪うことすら正当化してしまう存在だ。肉食動物が草食動物を狩るのと同じように、植物が周囲の養分を奪って他の植物を枯らすように。
いや、それ以上かもしれない。人間は、時に生きるためではなく、娯楽や好奇心のためだけに命を奪うことすらあるのだから。
星も同じなのだ。ただ、異なるのは目的ではなく、その方法や視点にすぎない。星は、自らに都合の良い未来を実現するために、現実に干渉する。人間は、自分にとって都合の良い現実を守るために、他者を排除する。
違いなど、あるだろうか?
俺たちが戦っているのは、SF映画やアニメよろしくな夢や希望に溢れた舞台ではなく。どこまでも冷徹で、理性的で、でも残酷な“生存競争”の一端なのではないか──。ふと、そんな考えが胸をよぎった。
「むしろ、星のほうが合理的です。未来を観測している分、最も効果的で最小限の干渉を選択してくる。あの女子部員の怪我も、時間が経てば自然に回復する程度。フェスタが終わればすぐにテスト期間に入り、部活動も一時的に中断されました。活動が再開される頃には、彼女は完全に元通り。行動に支障をきたすこともない。本当に、必要最低限の干渉だったと、わたしはそう分析しています」
俺は言葉を返さなかった。ただ、暦の言葉の一つひとつを噛み締めるように、静かに思考を巡らせていた。
もしだ。あの時、暦がいなかったら。俺一人であの事態を乗り越えなければならなかったとしたら。
──果たして、どうなっていただろうか。
おそらく、何もできなかったに違いない。星の思惑通り、俺たちは元の未来に戻されていた。それを想像しただけで、背中にじっとりと冷たい汗が滲んだ。
星の力を見縊っていたつもりはない。だが、目の前で実際に“最適解”とも言えるような妨害を目の当たりにし、改めてその脅威を痛感したのは事実だった。
今回、星の干渉は確かに防げた。しかしそれは、文字通り暦が自らの命を削るような奇跡を行使してくれたからに他ならない。次はどうなる?
次に星が動くとしたら、どんな手を打ってくるのだろうか。
──今度こそ、もっと深く、もっと直接的な妨害が来るかもしれない。
考えれば考えるほど、不安と焦燥が心を満たしていった。そんなとき、彼女がぽつりとつぶやいた。
「大丈夫です。湊さんなら……どんなことがあっても、それを乗り越えられると、わたしは信じています」
その言葉は、まるで春先の風のように優しく、けれど確かな温もりをもって俺の心に触れた。吹き抜ける風は湿り気を帯びていて、季節がゆっくりと移ろっていることを教えてくれるようだった。
暦は長いまつ毛を伏せ、瞼を閉じると、そっと俺の肩に頭を預けてきた。
「わたしは……あなたのことを心から信頼しています。きっと、どんな逆境にも屈しない力があるって、そう思ってます」
淡く甘い香りが風に乗って流れ、鼻腔をくすぐる。心の奥で、何かが確かに温かく灯る感覚があった。
──何があろうと、俺の役目は変わらない。
この街の未来を変えること。
それが俺の使命であり、存在の意味なのだ。
「湊さん……」
暦がそっと名を呼んだ。
「わたしは……今が好きです」
その言葉を、彼女は以前にも言っていた。どこか懐かしさを含んだ声だった。
「星に設計され、星の意思によって造られたこのわたしが、いま、ここに存在している。そして、私はこの瞬間を、心から愛おしいと思っています。工業製品としてのわたしではなく、“今”を生きるわたしが、ここにいるのです」
雲の切れ間から差し込んだ陽の光が、屋上のコンクリートを柔らかく照らした。とても穏やかで、そして温かかった。
「湊さん……。わたしは、あなたには、どのように見えていますか?」
静かに尋ねてくる暦。どこまでも落ち着いた声だった。彼女は以前、「自分は人でありたい」と言っていた。自身を工業製品だと宣う彼女は、確かに俺にそう言った
──だから、俺はそう答えようと思った。
でも、何も口にはしなかった。ただ、空を見上げて、流れる雲を目で追いながら、俺は静かに答えた。
「──明日までに考えておくよ」
その言葉に、暦は静かに微笑んだ。
「湊さんらしいですね。楽しみにしていますよ」