22話:開演
ステージ前のスペースは、もはや身動きも取れないほどの観客でぎっしりと埋め尽くされていた。
事前に行った大正ビラ配りが予想以上に功を奏したのか、用意していた座席はすべて埋まり、さらにその後方には立ち見の来場者がずらりと並んでいる。熱気とざわめきが空間を包み込み、開演前からその場は異様な盛り上がりを見せていた。
ブース入り口近くに設置された仮設の喫茶スペースでは、あらかじめ暦が大量に準備していた紅茶が湯気を立てて並んでいた。
そしてその紅茶を、慣れない手つきで目を回しながら必死に配膳しているのは雨喜さんだった。彼女の姿からも、この催しの規模と混雑ぶりがよく分かる。誰もが想定以上の盛況ぶりに追いつくのに必死だった。
そして、観客の熱気が一段と高まる中、暦が一人遅れてステージに登場する。その姿は、まるで時代を飛び越えてきたかのような錯覚を与える、金髪の美少女。袴姿の彼女が壇上に上がるや否や、観客席からは一斉にどよめきが起きた。まさに会場が「ワッ」と湧いたのだ。
中には興奮を抑えきれず、ガラケーのカメラで必死に写真を撮っている観客の姿もちらほら見受けられた。
当然ながら、その場で一番驚いたのは他でもない。沙羽をはじめとした吹奏楽部の部員たちである。
彼女たちの目には、セッションどころか、これまでまともに楽器を演奏している姿すら見たことのない少女が突然ステージに現れたようにしか映っていなかったはずだ。信じられないという表情が顔中に浮かんでいる。
そんな部員たちの反応を見ていると、案の定、沙羽が俺の方に意味深な視線を送ってきた。まるで「一体どういうつもりなのか」とでも言いたげな、その目はアイコンタクトというよりも軽く詰問に近い。
俺は彼女に向けて静かに腕を組み、頷いて返す。それが「信じてくれ」という意思表示だった。
正直に言えば、ここまで来た以上、もう後には引けない。暦が自らの意思でステージに上がったのなら、俺に出来ることはひとつ。彼女を信じることだけだ。
暦は俺にとって、ただの仲間ではない。これからの戦いを共に進む最高のパートナーだと、そう心の底から思っている。俺は指揮担当の女子部員に静かにゴーサインを出す。緊張と期待が入り混じる中、演奏が始まった。
そして、その瞬間、俺は愕然とした。テンポ良く響くリズム、その中で各楽器が繊細に絡み合い、ひとつの流れるようなメロディーを構築していく。
そしてその中心には、間違いなく暦のトランペットの高音が存在していた。透き通るような音が会場を包み込み、聴く者の心を震わせる。
他の部員たちには申し訳ないが、俺の視線は完全に暦に釘付けになっていた。彼女の演奏は、もはや人間技とは思えなかった。ピストンを押す指の動きは一切の迷いなく、まるで生まれた瞬間からトランペットを吹くことだけを目的に作られたような手つきだった。しかも、今日彼女は吹奏楽部が演奏する曲目やアレンジを事前に把握していたとは到底思えない。
それにもかかわらず、彼女は堂々と主旋律を務め、演奏全体を引っ張っていた。その堂々たる姿に、俺はただただ呆気に取られ、言葉を失うしかなかった。これが、本当の意味で奇跡というものなのだと、今この瞬間、俺は実感していた。
気がつけば、ブースにはさらに多くの人々が集まり、その波はついに入り口近くまで押し寄せていた。会場の熱気と感動が一体となって、空間を満たしていた。
「は……ははっ!」
思わず、俺の口から妙な笑いが漏れた。あまりにも信じられない展開に、脳が処理しきれず、変なテンションになっていたのかもしれない。
中止の危機すら囁かれていた演奏会が、まさかのどんでん返しによって大成功を収めようとしていたのだから。
そのまま演奏はクライマックスを迎え、やがて最後の一音が会場に響き渡った。直後、割れんばかりの拍手が湧き起こった。それはただの拍手ではなく、このフェスタそのものの成功を象徴する音だった。俺は思わず胸を撫で下ろし、安堵の息を漏らした。
「大変だったね」
その時、不意に背後から声をかけられた。緊張の糸が途切れた瞬間だった俺は、少しびくりとして慌てて姿勢を正した。
「灘さん。す、すみません……ご案内もせず、放ってしまって……」
もしかすると、演奏会が始まる前に帰ってしまったのではと危惧していたが、その心配は杞憂だったようだ。彼はにこやかに笑みを浮かべて、俺にこう言った。
「気にしないでくれ。不測の事態の中で君が冷静に周囲に指示を出している姿を見て、むしろ興味が湧いてしまったくらいだよ」
それは、嬉しくなるほどの言葉だった。自然と胸の奥に、明日の朝刊への期待が膨らんでくる。灘さんはその後、俺といくつかの会話を交わし、そして一言だけ言い残してその場を後にした。
「人も落ち着いたし、ブースを一回りしてから、別のところへ行くよ」
その言葉に見送られながら、俺はすぐにステージ裏へと向かった。するとそこでは、吹奏楽部員たちに囲まれ、質問攻めに遭っている暦の姿が目に入った。その光景はある意味、予想通りだった。
俺の姿を認めるやいなや、暦は必死な様子でこちらに手を伸ばしてきた。
「み、湊さん!? た、助けてくださいっ!?」
まるで以前にも見たことのあるような光景だった。俺は彼女を囲む部員たちに一言だけ伝え、今日は後日にしてやってくれと頼み込む。そしてそのまま、暦と一緒に喫茶スペースの奥、間仕切りの向こうへと入っていった。
「ありがとうございます……」
暦は安堵したように胸に手を当て、ふぅっと深く息を吐いた。次いで、彼女はその澄んだ青い瞳をこちらに向けて、まっすぐに見つめてくる。
「礼を言うのは、むしろこっちの方だ。……本当に驚かされたよ」
「さもありなんですね。これは——」
「暦っ!?」
彼女が何か言いかけたその瞬間、突如として力が抜けたように崩れ落ちた。慌てて彼女の身体を支えた俺の手の中で、彼女は荒く呼吸しながら顔をしかめていた。
「大丈夫か!?おい、しっかりしろ!」
「だ、大丈夫です……。ただ、流石に“常時展開型の奇跡”を同時に三つも熾すのは、回路への負担が大きいですね……」
「……そんなに無理してたのかよ……」
やっぱりという思いと同時に、俺は胸が締めつけられるような感覚に襲われた。あの“星の奇跡”とやらは、莫大な“星の希望”を代償にするものだと言っていた。いつだったか、暖かすぎる春の日の坂道ですら汗一つかかなかった彼女の額から、今は大粒の汗がポタポタと流れている。それが頬を伝い、床に小さな音を立てて落ちた。
「だ、大丈夫……とまでは、言い切れないですね……説得力に欠けますね……」
そう言いながら、彼女はゆっくりと身体を起こし、近くにあったパイプ椅子に身を預けた。その動作一つとっても、今の彼女がどれほど消耗しているのかが伝わってくる。
「以前、奇跡にはいくつか種類があるとお話ししましたよね? 先ほど使用したのは、“創星の奇跡”という、わたしが扱える中でも二番目強力な部類に入るものです……」
「見れば分かる……」
俺は黙って、彼女の額に滲んだ汗をハンカチで拭ってやる。その熱は高く、まるで体の中から燃えているようだった。
「効果は単純です。わたしの活動領域内に存在する人間すべてをスキャンし、その中から演奏会を完遂できる技術と能力を持つ者のスキルを、わたし自身に一時的に上書きしました……」
「……」
一瞬、言葉が出なかった。その説明が示す内容は、常識という枠を軽々と飛び越えたものだった。つまり、さっきまで演奏していた彼女は、周囲のトランペット奏者や楽器演奏の名手たちの能力を、自分の中に複数同時にコピーしていたということだ。
「ただ、この奇跡は維持するだけでも莫大な星の希望を必要としますので……結果がこれです……」
「……無理しすぎだ。フェスタで街から得られる希望が増えたとしても、それ以上の希望を消費したら意味がないじゃないか」
俺の言葉に、暦は小さく俯いた。そしてそのまま、弱々しい声でぽつりと口を開いた。
「……ご、ごめんなさい……」
「い、いや、謝って欲しいわけじゃなかったんだよ。そんなつもりじゃ……」
「そ、そうなんですか……?」
「当然だろ。俺はただ、感謝してる。暦がいなかったら、あのままフェスタは終わってた。……お前のおかげだ」
「……」
彼女は何も返さなかった。ただ、じっと俯いたまま、小さな肩を震わせていた。言葉はなかったが、その様子から伝わる想いは十分すぎるほど感じられた。
「でもな、それよりも、俺は暦が心配だ。だから、もう無理はしないでくれ」
そう俺が言った時だった。暦が、かすれるような、今にも消え入りそうな声でつぶやいた。
「……たくなかったんです」
「えっ?」
思わず聞き返すと、彼女はバッと顔を上げ、叫ぶように言った。
「絶対に失敗なんてさせたくなかったんですっ!!」
彼女の目には、涙が浮かんでいた。それは、決して偽りなどではない、本物の涙だった。
「わたしは湊さんや、みんなが必死で創ってきた今日を絶対に無駄にしたくなかったんです! 例え今は赤字になろうとも、きっと今日の成功は未来を変えられる!それはあなたが生きる未来なんですっ!だから……だからこそ、わたしの力で今を乗り越えられるなら、あなたの未来に賭けたかったんです……うっ……うっ……」
その言葉に、俺は完全に言葉を失ってしまった。彼女はずっと、俺たちの未来を信じていた。街を、そして俺を、全力で支えようとしてくれていた。
そんな彼女に、俺は──。
「暦っ!」
衝動的に、俺は彼女を強く抱きしめていた。小さく、か弱く、けれども誰よりも強い心を持つ彼女を、力いっぱい抱きしめていた。
「み、湊……さん……?」
彼女の体は、小刻みに震えていた。
「次は……次はもっと上手くやる。暦に、こんな無茶はもうさせない」
ようやく絞り出したその言葉は、あまりにも漠然としていて、具体性のかけらもなかった。それでも、彼女は静かに、俺の背中に手を回してきた。
「知っています。あなたなら、きっと上手くやってくれるでしょう」
その囁きは、涙を含んだ、けれども確かな温もりを宿した声だった。
「まぁ、その……なんだ? あれだ、これから奇跡を使う時は、ちゃんと相談してくれ……心臓に悪い」
俺がそう釘を刺すと、暦はくすっと笑いながら頷いた。
「はい、分かりました」
「そうだよ、全く常時展開型……だっけ?それをみっ……」
そこまで言って俺は言葉を止めた。
さっき暦は何と言っていた?
常時展開型の奇跡を同時に三つも熾すのは負担がかかる──。
確かに彼女はそう言ったはずだ。
一つ目は、実体化の維持だろう。これは初めて彼女の家に行った時に聞いた。
二つ目は、コズミックスキャンとかいう奇跡のことだろう。
そして、三つ目とは──?
「暦、奇跡を三つってなんだ?」
そう尋ねると、彼女は途端に視線を逸らし、何か言いづらそうに歯切れ悪く口ごもった。
「え、えと……それは……その……」
何かを言い淀むようなその空気の中で、ふと、声が割り込んできた。
「暦ちゃーん? 大丈ーえっ?」
俺はゆっくりとその声の方に首を回す。ぎこちなく、油切れのロボットのように。そこには、目を丸くした雨喜さんが立ち尽くしていた。しかも、明らかに気まずそうな表情で。
「えと……ご、ごめんなさい。あははっ、良きにはからえ〜」
そう言って、雨喜さんはすごすごと間仕切りの向こうへと消えていった。
少しだけ沈黙が流れた。その静けさの中で、俺はひとつの現実に気付く。
──今の状況、完全に誤解されただろう。
泣いていた目を腫らした女子と、抱き合ったままの男子。その場面を見られたのだ。しかも、雨喜さんという、この状況を絶対に見逃さない人物に。
俺は慌てて暦から体を離した。すぐにでも否定したかったが、口から出てきたのは溜め息だった。
「……ふふっ、見られてしまいましたね?」
「なんでそんな楽しそうな顔してるんだよ……」
「まぁ、雨喜さんなら大丈夫でしょう」
「お前は根拠もなく信用しすぎなんだよ……」
俺は頭を抱えた。今後、彼女と顔を合わせるたびに、何かと茶化される未来が目に浮かぶ。
「……で、なんの話しでしたっけ?」
暦はいたずらっぽくこちらを見つめた。その表情は、いつもの彼女に戻っていた。
「……何でもない。暦が無事で元気なら、それでいいよ」
「さもありなん、ですね」
彼女は微笑んだ。あの口癖を口にして。たったそれだけのやりとりが、こんなにも心を温めるものなのかと、不思議に思った。
こうして、俺たちの地域交流フェスタは幕を閉じた。成功の裏で、誰かが限界を越えて支えていたということを、観客のほとんどは知らない。
ただ、この時の俺はまだ何も知らなかった。
いや、正確に言えば、気付こうと思えば、気付けたかもしれないのだ。
俺たちの見えない場所で、星の策略が、確かに動き始めていたことを──。
ああなると知っていれば、きっと俺は、もっと早くに準備ができていた。
けれども、もう時間は戻せない。
この後、俺を待ち受ける試練に対して、俺はまだ何も知らなかったのだ──。