19話:和風喫茶
気がつけば、あっという間にゴールデンウィークが始まっていた。新年度のざわつきがようやく落ち着いた頃合いで訪れる、この一週間ほどの大型連休は、日々を駆け抜ける高校生たちにとって、ひとときの休息と期待をもたらす。
俺たち文化フェスタの実行委員会も、連休前までにある程度の成果を残すことができた。各部活動への出演協力を呼びかけていたのだが、なんとか無事に必要な調整を終え、協力を取り付けることができたのだ。晴れて出演が決定したのは、吹奏楽部、軽音楽部、演劇部、そして漫才部。合計四つの文化系部活だ。
最後に名が上がった漫才部にはさすがに驚かされた。正直、そんな部活がこの学校に存在していること自体、俺は初耳だった。漫才という言葉の持つ軽妙さとは裏腹に、舞台に立つという点では他のどの部よりも「本番一発勝負」なだけに、個人的には期待と不安が半々といったところだ。
一見すると四つという数字は少々心もとないかもしれない。しかし、フェスタ自体の開催時間は午前十時から午後三時までのわずか五時間。各部の持ち時間や準備・転換時間を含めれば、決してスカスカな構成にはならないはずだ。むしろ、コンパクトながら密度の濃い催しになる予感さえある。
現在は次なるステップとして、演目の順番決めに進む段階だが、これも拙速に進めることはしない方針でいる。各部活動にもそれぞれ都合やリハーサルのタイミングがあるはずなので、慎重に相談を重ねながら決めていくことにした。準備の段階で慌てても、良い結果は出ない。何事も段取りが肝心だ。
そんな中、俺はいま、暦と共に神影市内のあるエリアに足を踏み入れていた。
この場所は、急電の線路が走る山側と、国道沿いを走る旧国鉄の線路が走る海側として、二本の軸に挟まれた細長い市街地だ。エリアの中央には幹線道路が通っており、その近隣には市内でも名の知れた私立大学が鎮座している。この一帯は地価も高く、山側には立派な門構えの豪邸が連なっているかと思えば、坂を下った駅の方には、学生向けの賃貸アパートが所狭しと立ち並ぶ。ある意味、神影市の縮図のような二面性を持った地域だ。
急電の駅改札を抜けて地上に出た俺は、まず一度大きく息を吸い込んだ。昼下がりの街は、ゴールデンウィークということもあって、駅構内も電車の中もどこか浮ついた空気が漂っていた。行楽客らしき家族連れやカップルが溢れ、車内は少し蒸し暑く感じられるほどだった。
「ここに桂木さんのご自宅があるんですね」
俺のすぐ後ろから暦がひょこっと顔を覗かせた。今日の彼女の服装は、パステルブルーのショルダーカットのトップスに、白い膝上丈のスカートという春らしい軽やかな組み合わせ。足元は控えめな光沢のあるローヒールのパンプスで揃えられており、決め手としては大きなつばのあるハットが印象的だった。涼やかな装いに身を包んだ彼女の姿は、眩しい日差しの中でも自然と視線を集めるような品を漂わせていた。
「自宅というか実家?高校生からしたらどっちも同じようなもんか」
俺は特に意味もなく、どこか締まりのない返事を返してしまう。坂の中腹にある小さな駅舎を出て、待ち合わせをしている旧国鉄駅前へ向かうため、舗道へと一歩を踏み出した瞬間、思わず口をついて出たのは一言。
「あっつ……」
日差しはまるで鋭利な刃のように肌を焼き、立っているだけで首筋に汗が滲むのがわかる。今日は五月一日、日曜日。令和の未来でも地球温暖化が騒がれていたが、どうやらその影響はすでにこの時代から始まっていたらしい。全身を包む熱気は、もはや呪いのようだとさえ思える。
俺は気を取り直し、坂を下り始める。今日ここに来たのは、晴人と会うためだ。彼と一日遊びに興じるのもまた一興だが、今回の目的はそれではない。本来の目的は、別にある。
「楽しみですねっ!」
暦は俺の少し前を軽やかに歩いている。傾斜のある坂道にもかかわらず、その歩みには疲れや暑さの影など微塵も感じさせない。
俺はすでに重力に引かれる身体を支える過程で汗が伝い始めているのだが、俺とは対照的に彼女は涼しい顔で坂を下っている。しかも彼女の額には一滴の汗も滲んでいない。
そもそも彼女に汗をかくという人間なら至極当然の生理現象は発生するのだろうか。
アイドルは糞をしないという格言があるが、こと暦に限っては汗をかくことはないとでもいうのだろうか。
「でも、桂木さんにお姉さんがいたとは」
暦は少し意外そうな口調だった。
確かに、普段の晴人の振る舞いからは、姉という存在があまり想像できない。
今日ここに来たのは晴人もとい、彼の姉の働く喫茶店を訪問するためだ。何でも彼の姉は和風喫茶でアルバイトをしている大学生とのことだ。
俺は晴人に姉がいること自体は知っていた。ただ実際に顔合わせた経験はない。あの晴人の姉だ。一体どんなハイテンションな陽キャが出てくるか見ものである。
そして、これこそが本命となるが、件のフェスタにその和風喫茶を誘致しようと考えている。いきなり見知らぬ高校生が現れ、出店を迫ってくるより、知人からのお願いという方が聞き手にも優しいだろう。
そして、この提案に持ち掛けてきたのは、他でもない晴人からなのだ。わざわざ実行委員会の教室まで来たと思ったら、そんなことを打診してくれたのだ。
旧国鉄の駅前のロータリーに着くと、Tシャツにデニムというラフな格好をしており、腰にはチェックのネルシャツを巻き付けている。この時代に流行したファッションだ。
そんな晴人が笑みを浮かべ、こちらに片手をあげて軽く振ってきた。
「うっす、アマミナ!神戸!」
「おう」
「こんにちは、桂木さん」
俺と暦は並んで歩き、晴人の元へと向かった。挨拶を交わすと、そのまま三人で並んで歩き出す。
「んで?お前の姉ちゃんの働く店ってどんなところなんだ?」
俺は率直に尋ねた。正直、和風喫茶という情報以外、まるで事前知識がなかった。ネットで簡単に調べられる時代ではないからこそ、情報収集も一苦労だ。
晴人は少し唸り、眉間にシワを寄せながら言った。
「うーん、俺もさ?行ったことないんだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ……。普通わざわざ姉ちゃんのバ先とか行かねぇって」
まぁ、それもそうかと納得しかける。俺には姉がいないので、実感が湧きにくいが、姉弟間にはそれなりの距離感があるものらしい。
「お姉さんの職場に遊びに行くのは恥ずかしかったりしますか?」
暦が少し首をかしげながら問いかけた。
「ちょっとは恥ずかしいさ。特にうちの姉ちゃんはきっとウザ絡みしてくる」
「ふふ、仲良いんですね」
「べ、別に仲良くねぇよ!?普通だ普通!」
晴人は顔を赤らめて、俺たちから視線を逸らした。あれはきっと照れ隠しだ。実際のところ、仲は悪くないどころか、むしろ良好なのだろう。でなければ、わざわざ放課後に実行委員会の教室まで訪れて今回の話を持ちかけたりはしない。
俺は少し晴人をからかってやろうと思った。
「なぁ、晴人。お前の姉ちゃんってどんな人なんだ?」
「いきなりなんだよ」
「それ、わたしも気になります!」
暦も俺の言葉に便乗する形で同意する。
「どうって……?」
「そりゃまぁ……美人とか?」
「なんだよ、それ……?」
晴人は俺たちを交互に見て、微妙な表情を浮かべた。
「……どうだろうな?悪いけど姉ちゃんに対して、美人かどうかなんて考えたこともないな」
「そう言われると、何だか気になりますねぇ」
暦はそんなことを言いながら、いたずらっぽく晴人の顔を見つめる。おそらく彼の顔立ちから姉の容姿を想像しているのだろう。あまりに安直な連想だが、まぁ気になる気持ちはわかる。
とはいえ、晴人の顔立ちはどちらかと言えば整っている部類だ。美形というよりは、健康的で爽やかな印象のある運動系男子といったところだろうか。
──全く、羨ましい限りだ。
俺はそんなことを内心でこぼしながら、彼らと並んで歩き続けた。
*
駅から歩くこと、およそ十分。晴人の姉がアルバイトをしているという和風喫茶に、俺たちは辿り着いた。
どんな店なのかと思っていたが、立地としては住宅街のど真ん中に存在した。外観はまさしく古き良き日本家屋であり、立派な瓦張りの軒先を持った門まである。
「ほう、ここが……」
店の外観を認めた暦は神妙な面持ちで青い瞳を少し細めた。
「ああ、そうだ。初めて来たけど、こんなところだったんだな」
晴人が静かに頷く。自分でも驚いているようだ。
門の先、玄関へと続く小道の脇には、品の良い木製の立て看板が置かれており、『ティールーム』と品のある筆致で店名が書かれている。なるほど、確かに喫茶店には違いない。晴人が教えられた住所に問題がなければ、ここで間違いないはずだ。
「では早速、失礼しましょう」
暦が落ち着いた声でそう言うと、迷いなく門に手をかけて開いた。ためらいのない所作は、まるで以前からこの店を知っていたかのようにさえ、錯覚させる。
俺たちも彼女の後に続き、敷地内へと足を踏み入れる。赤煉瓦で丁寧に舗装された小道を進むと、すぐに玄関が見えてきた。玄関のすぐ隣には、陽当たりのよいテラス席が設けられており、パラソルが三本。その下には、アンティーク調の椅子と丸テーブルが並べられ、どこか懐かしさと優雅さを感じさせる。
さらに、テラスの前には生垣が丁寧に整えられていて、道行く人の視線を遮るように工夫されていた。きっと、静かにお茶を楽しみたい人への配慮なのだろう。俗世の喧騒とは一線を画した、隠れ家のような空間だ。
そんな中、暦は迷うことなく玄関の前に立ち、まるで自宅のような自然な手つきで扉に手をかけた。
「迷いねぇな……」
俺が思わず口にすると、彼女は動きを止めてこちらを振り返り、少しだけ首を傾げて微笑んだ。
「我々はお呼ばれしている身です。変な遠慮は、むしろ相手方に対して失礼です」
「ま、まぁ、確かに」
彼女の理路整然とした物言いに、俺は素直に頷くしかなかった。まったく、その通りだ。
「さもありなんです。さぁ、行きましょう!」
そして暦は勢いよく扉を開けた。
扉の先に広がっていたのは、穏やかな空気に満ちた空間だった。
まず視界に飛び込んできたのは、入口すぐ横にあるショーケース。そこには、丁寧に飾られたケーキが色とりどりに並べられていた。ふんわりとしたクリームが魅力的なショートケーキ、濃厚そうなガトーショコラ、そして素朴ながらも重厚感のあるチーズケーキ。他にも種類はあるが、どれも見ているだけで心が弾んでくる。
店内の壁は温かみのあるベージュ系の色で統一されており、アンティーク調の木製家具がしっくりと馴染んでいた。床はシックな色合いのフローリングで、丁寧に手入れされたその表面には、柔らかな光が反射して美しく輝いている。
「良い店だな」
俺は自然と声を漏らしていた。初めて来た場所なのに、なぜだか不思議な安心感があった。誰かに歓迎されているような、そんな温もりを感じる。
「いらっしゃいませ〜!」
やや遅れて、奥から女性の声が響いてきた。ゆったりとした口調でありながら、はっきりと耳に届くその声には、不思議な心地よさがあった。
姿を現したのは、栗色の髪を柔らかく巻いた女性。その髪は陽の光を受けて艶やかに揺れ、長い睫毛に縁取られた瞳が優しく微笑んでいた。どこかおっとりとした印象を与えるその容姿には、可愛らしさと同時に、大人びた落ち着きがあった。
しかし何よりも目を引くのは、その装いだった。薄紅と桃色の市松模様があしらわれた着物に、深い紫の袴。そして足元には、クラシカルな編み上げブーツ。まるで大正時代からそのまま抜け出してきたような、雅やかな出で立ちだった。
彼女は俺たちの姿を確認すると、嬉しそうに笑みを浮かべて口を開いた。
「なんだ、晴人か〜。この二人が、言ってたお友達ね?」
その一言で、俺の中の予感が確信へと変わった。
まさかこの人が……。
そう思ったのも束の間、暦が一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、神戸暦と言います。失礼ですが、もしかして晴人さんのお姉さんでしょうか?」
「はい、その通り♪ 晴人の姉の、桂木雨喜と言います。よろしくね」
その名乗りに続き、俺も慌てて口を開いた。
「はじめまして。天戸湊です。晴人君にはいつもお世話になっています」
すると、雨喜さんはふわりと微笑み、深くお辞儀をして返してくれた。
「ご丁寧にありがとう。……いつもうちの弟が、迷惑かけてるでしょう?」
「ね、姉ちゃんやめろって!」
顔をしかめた晴人が、少し語気を強めて言い返す。恐らく、照れ隠しなのだろう。その様子に、雨喜さんはくすりと落ち着いた笑い声を漏らした。
「あら?でも晴人が私に友達を会わせるのなんて初めてだから、お姉ちゃん嬉しいのよ?」
「いいから席に早く案内してくれ! ホント調子が狂うなぁ〜」
そう言いながら晴人は頭をかき、気まずそうに視線をそらした。
「はいはい、こっちよ」
そんな弟の様子に構わず、雨喜さんはにこやかな笑顔を崩さず、俺たちを席へ案内した。
案内された席は、アンティーク調の椅子と落ち着いた木目のテーブルが配された、店内の中心より奥に近い場所だった。大きな窓から柔らかな陽光が差し込み、空気には紅茶と焼き菓子の甘く香ばしい香りがほんのりと漂っている。俺たちはそれぞれの椅子に腰を下ろし、自然とテーブルを囲むような形になった。
雨喜さんはにこやかな笑みを浮かべながらメニューを一冊ずつ手渡し、最後に「少ししたら注文を取りに来るから、それまでに決めておいてね」と軽やかな声で言い残して、店の奥、バックヤードへと姿を消していった。その背中は、姉というよりは、すっかりプロの店員のそれに見えた。
もちろん、彼女は今まさに仕事中なのだ。俺たちの接待だけに時間を割くわけにはいかないというのは当然のことだった。
俺は彼女が消えていったバックヤードの出入口をしばらくぼんやりと眺め、そしてふっと意識を店内に戻す。
今、この喫茶店には俺たちを含めて三組ほどの客がいるようだった。テーブル席やテラス席、それぞれで穏やかな会話が交わされている。他の席では別の女性スタッフが注文を取っており、雨喜さんとはまた異なる色合いの、しかし似たような雰囲気の服装をしていた。
色こそ違えど、どうやら彼女たちの服装はこの店の制服であり、あの大正浪漫風の装いは、単なる趣味ではなく店全体のコンセプトに基づいた正式なユニフォームらしい。
「どうだ? 姉ちゃん、美人だったか?」
ふいに、晴人の気の抜けた声が聞こえた。彼はテーブルに頬杖をつき、口をわずかにへの字に曲げたまま、こちらをじっと見ている。その目には、からかいと探るような光が同時に浮かんでいた。
「そうだな、美人だ」
俺は率直な感想を口にした。嘘は言いたくなかったし、誤魔化す必要も感じなかった。ただ、俺の中で想像していた“晴人の姉”というイメージとは、明らかにギャップがあった。もっと明るくて賑やかで、どちらかと言えばテンションの高い、ギャルっぽいタイプを想像していたのだ。だが実際の彼女は、物腰柔らかで、どこか品のある落ち着いた雰囲気を纏っていた。
「姉ちゃんに言ってやれ。きっと喜ぶぞ」
言いながら、晴人はどこか面白くなさそうな顔をしてバックヤードの方へと視線をちらりと向けた。普段はあまり見せない表情だった。
「考えとくよ。……そういえば、晴人の姉ちゃんって大学生なんだっけ?」
あまりにも露骨に褒めるのも気恥ずかしくて、俺は話題を変えるように別の質問を投げかけた。
「ああ、ここから割と近くの大学に通ってる。今は二年だな」
彼の答えを聞きながら、俺は漠然とした感慨にとらわれた。彼女の主な生活圏はこのエリア一帯で完結しているらしく、大学と家とバイト先が近距離で結ばれているようだ。
ふと、俺は横にいる暦に視線を移した。彼女は真剣な表情で、手元のメニューをじっと見つめている。まるで何かの書物を読む学者のような顔つきで。
「学部は?」
俺は会話を続けるように、晴人に問いかけた。
「たしか文学部。歴史学科だったはずだ」
それを聞いた瞬間、妙に納得してしまった。あの落ち着いた雰囲気と柔らかな話し方には、文系的な知性が感じられる。もし理系の学部だったら、それはそれで面白かったが、彼女にはやはり文学の香りが似合う。
それにしても、大学か。
久しく耳にしていなかった単語に、懐かしさと共に、ある奇妙な感覚が胸に湧き上がった。
(たしか、あの頃は……)
過去の記憶にアクセスしようとしたその瞬間、俺の思考は不意に止まった。
(……あれ?)
頭の奥に霞がかかったような違和感が広がる。大学の名前や学部名、通っていた場所ははっきり思い出せる。だが、大学生活の中身、授業の内容、サークル活動、友人とのやり取り、キャンパスの風景といった記憶が、まるで霧の中に消えてしまっているかのように思い出せない。
まるで誰かに語られた「大学生活」の概要を聞かされているような……。いや、それすらも箇条書きでまとめられた、ただの年表を読んでいるような感覚だった。
何となくだが、記憶から思い出が欠落している。そんな感覚があった。
思い返せば、過去に戻ってきて、懐かしさを感じることはあったが、今まで俺はこの街の状況や未来に起こりうることを思い出を含め、語ったことが殆どないのではないだろうか。
何か言ったとしてもそれは知識ベースの内容を読み上げているだけに過ぎなかったようにも感じる。
鳥肌が立った。自分の記憶のはずなのに、自分の記憶ではない。そんな感覚がした。
「これは素晴らしいですっ!」
不意に高らかな声が耳を打ち、俺の思考が現実へと引き戻された。見ると、暦が両手でメニューを掲げ、目をキラキラと輝かせていた。
「どうしたんだよ?」
キョトンとした晴人が尋ねると、暦は俺たちの方にメニューを向け、大真面目な顔でこう言った。
「この喫茶店。紅茶の茶葉選びが素晴らしいです!」
俺も視線をメニューに落とした。そこには見慣れないカタカナの紅茶銘柄がずらりと並び、茶葉ごとの特徴まで詳細に記されていた。俺にはチンプンカンプンだったが、紅茶を愛してやまない彼女にとって、このラインナップはまさに至福の領域なのだろう。
「紅茶なんて、どれも変わらないだろ?」
晴人が恐ろしいことを口にした。今の発言について、暦は絶対スルーしない。
賭けてもいい。
「はぁ〜……」
暦は予想通り、大きくため息を吐きながら、まるで見るに堪えないものを見る目で晴人を見つめた。
「桂木さん、あなたは本当に度し難いほどに愚かです」
「えっ、えぇ……?」
いきなり突きつけられた冷酷な断罪に、晴人は引き攣った顔で固まる。
「貴方も神影市を生きる人間なのであれば、紅茶に理解を示す必要があるでしょう」
(いや、別にねぇだろ)
俺は心の中でツッコミを入れたが、当然それを声に出す勇気などなかった。
「いいですか? 紅茶とは人類が生み出した文化でもっとも評価されるべき偉業です」
暦の語調は熱を帯びていき、彼女の紅茶に対する信仰がどれほど強いものかを物語っていた。晴人はというと、その勢いにすっかり気圧されて、口を挟むこともできずにいた。
そんなやり取りの最中、ちょうどタイミングよく雨喜さんがグラスの乗った盆を手に現れた。
「あら、暦ちゃんは紅茶通なのね」
彼女は微笑みながら、俺たちの前に水のグラスを丁寧に並べていった。
「さもありなんです。わたしは紅茶を人類史上、最高の嗜好品だと思っております」
得意げにそう発言する暦。
なんでこいつはそんなに紅茶が好きなんだろう?と俺は思いつつ、グラスを持ち上げ、口を付けた。
「紅茶の発見は、17世紀にオランダ東インド会社が中国から茶葉を持ち帰る途中、偶然発酵してしまったことがきっかけだったらしいわよ」
雨喜さんは柔らかく語りながら、ふとした紅茶雑学を披露した。それを聞いた暦は、感激したように目を輝かせる。
「そうなんですね!紅茶は好きでしたが、起源にまで迫ったことはありませんでした。これで紅茶への理解がより深まったと思います!」
雨喜さんは昔話で暦に知識を披露できる珍しい人種かもしれない。
彼女のリアクションに雨喜さんは笑みを浮かべ、付け加えるように言葉を継いだ。
「まぁ、あくまで一説なんだけどね。他にも、最初から発酵させた茶葉を輸入していたという説もある。でも私は断然、偶然説を推すわ!」
胸の前に盆を抱え、片手をギュッと握りしめる雨喜さん。その姿にはどこか晴人と通じる“勢い”のようなものを感じる。
「どうして偶然説を推すんですか?」
俺の問いかけに、彼女は満面の笑みで答えた。
「だって、その方が面白いじゃないっ!」
その堂々たる言いぶりと表情に、俺は思わず微笑んだ。なるほど、確かに、この人は晴人の姉だ。
彼女からは晴人の遺伝子を感じる。いや、晴人から彼女の遺伝子を感じるのか。
どちらでも構わないが、それでもこの女性が確かに彼の姉である、という実感がなぜだか心に安心感をもたらしていた。
その後、俺たちはそれぞれ気になる品を選んで注文を済ませた。雨喜さんは注文を聞き終えると、にこやかに軽やかな返事を返し、手際よくその場を後にして再びバックヤードへと戻っていった。
俺と晴人は、メニューの中から無難そうなティーセットなるものを選んで注文していた。特に深い考えがあったわけではないが、雰囲気に合わせるつもりだった。一方、暦は紅茶通らしく、耳慣れない名前の紅茶を注文していた。確か名前はダービス何とかだったか。彼女の説明によると、それは多くの国で親しまれ、古くから人々に愛飲されてきた由緒ある紅茶の一つらしい。彼女はその味をとても楽しみにしているようだった。
注文を終えてから、俺たちは他愛もない話をしながら、ゆったりと時間を過ごしていた。そんな中、しばらくしてから再び雨喜さんがやってきた。今度は小さなカートを押していて、その上には銀色に輝くポットやティーセットが並んでいた。俺たちのテーブルの前でカートを止めると、彼女は手早くその車輪にロックをかけ、動かないようにした。
次に、彼女は落ち着いた所作でテーブルの上にティーポットを一つずつ置いていく。そしてそのポットの上に、まるで防寒用の帽子のような、厚手の布でできたカバーを丁寧に被せていった。
「この砂時計が落ちきったら、飲んでね〜」
穏やかでどこか楽しげな声と共に、彼女はテーブルの上に小さな砂時計を三つ置いた。それぞれの砂時計には「2.5min」という刻印があり、紅茶を淹れるためだけに設計された、専用の抽出タイマーであることがわかる。
サイズは手のひらにすっぽり収まるほど小さい。
それの蜂の腰を淡い水色の砂が滑るように流れており、日光を受けてキラキラと光を反射していた。それはまるで、小さな水流のように見えるほど美しかった。
「いいですねっ!いいですねっ!」
暦は目をキラキラと輝かせながら、砂が落ちきる瞬間を今か今かと待ちわびていた。
「暦、俺たちはあくまでお茶を楽しみに来たわけじゃないからな?」
念のため釘を刺すように言うと、彼女はポットから視線も外さずにこう返した。
「分かっています!だた今は紅茶に集中しましょう。出店をお願いするためにもまずは味を知る必要があります」
実に上手いこと理屈を述べる。
正直なところフェスタの休憩スペースに出店するのに、ここまで本格的である必要はない。言ってしまえば、紙コップにホットティーかアイスティーを入れて出してくれたもので十分だと俺は考えていた。とは言ったものの美味しいものが用意できることに越したことはないため、俺は暦に肯定の意を表した。
紅茶をカップに注ぎ、一口含んだ暦は目を細め、満足そうに口を開いた。
「美味しいです……。ストレートなのに、ほんのりと甘みを感じます。タンニンのほろ苦さも絶妙で、味に深みがあって、何より安心する味ですね」
その顔はまさに陶然としており、紅茶通の彼女も納得の味だったことが見て取れた。
俺と晴人もそれに続いて紅茶を味わい、セットで添えられたケーキにフォークを入れた。
「美味いな」
「これ、たまに姉ちゃんが持って帰ってくるけど、やっぱうめーよな」
思わず感想が口から漏れるほどに、しっとりとしたケーキの味は絶品だった。この味を家で時々楽しめるという晴人の状況が、素直に羨ましくなるほどだった。
「ショーケースに並んでるケーキは、基本的にうちで焼いてるのよ。一部は提携してるケーキ屋さんから仕入れてるけど、晴人たちが頼んだのはうちの手作りよ」
カートを片付けて戻ってきた雨喜さんが、にっこりと笑いながらそう教えてくれた。その言葉に納得しつつも、もしこのお店で全種類を手作りしているのだとすれば、どれもきっと期待を裏切らない出来だろうと確信できた。
「それで、地域交流フェスタに出てほしいって話だけど……」
雨喜さんは、視線をこちらに向けながら口を開いた。それに応える形で、俺は少し姿勢を正して答えた。
「はい。晴人君から提案をいただいて、それでご迷惑でなければお願いできないかと思いまして」
「一応、店長には話してあるんだけど、まだ返事はもらってないのよね〜」
雨喜さんは少し困ったように視線をそらし、頬に指を当てる仕草を見せた。その唇がわずかに開き、曖昧な表情がこぼれる。
「え? 姉ちゃん、任せろって言ってたじゃんかよ」
呆れたような声で晴人が口を挟むと、雨喜さんは少しムッとしたような顔をして、ピシャリと反論した。
「晴人はうるさい!日曜日のお昼よー?店長がフェスタに出たら、誰がこっちのお店が切り盛りするのよ?まだ交渉中なのよ」
そう言うと雨喜さんは、俺の方に視線を向けると、少し申し訳なさそうにしつつ、俺に顔を寄せた。
ふわりと彼女の髪から甘い良い香り漂い、俺の鼻腔をくすぐった。晴人の姉だというのに、彼とはまた違う優しい香りだった。
そっと声を潜め、バックヤードをちらりと見ながら、まるで秘密の話をするような雰囲気で彼女は言った。
「うちの店長、こだわりがすごくてね。紅茶を淹れるのは自分じゃないとダメっていうのよ?」
「な、なるほど……」
その話には心当たりがある。ここ神影市の紅茶好きには、なぜか妙にこだわりの強い人間が多い。その中でも自ら店を構えるような人なら、なおさらだ。
恐らく雨喜さんの行動原理は面白いかそうじゃないかなのだろう。両手を握り、目を輝かせる彼女を見て、俺としても是非、出店して欲しいところだと思う。
「湊さん」
その瞬間、ふいに空気の流れが変わったような気がした。いつもは穏やかで、どこか抜けたような雰囲気を纏っている暦が、今は真剣そのものの声音で、まっすぐに俺の名前を呼んできた。その瞳に曇りはなく、揺らぎのない意志が宿っているのがはっきりと分かる。
思わず息を飲む。見れば、彼女の目の前の紅茶も、添えられていたケーキの皿もすっかり綺麗になっていた。余韻すら残さず平らげてしまっているのが、彼女の集中力を物語っていた。彼女は紙ナプキンを丁寧に折り畳み、口元をぬぐう仕草にも隙がなかった。
「ど、どうした?」
そのあまりの迫力に、俺は思わずたじろいだ。何か重大なことを言い出すのではないかと、心のどこかで警戒すら覚えてしまうほどの気迫が、彼女にはあった。
「このお店の出店の交渉については、わたしに一任してもらえませんか?」
彼女の言葉は、迷いが一切なかった。真正面から俺を見据えるその視線に、ごまかしも飾り気もない。本気でそう思っていることが、痛いほど伝わってくる。
「べ、別に構わないが、大丈夫なのか?」
彼女の突然の申し出に戸惑いつつ、俺は確認の意味も込めてそう問いかけた。無理をさせたくはなかったし、なによりこれが彼女にとって過負荷にならないかが気になったからだ。しかし、彼女は即座に、まるで呼吸の一部であるかのように自然に、そして力強く首を縦に振った。
「大丈夫です。むしろこの命は、わたしにしか完遂できないでしょう」
まるで運命の使命を担った英雄のように、暦は断言した。その言葉には誇張も嘘も感じられない。彼女の中ではすでに覚悟が決まっているようだった。
その姿に、俺は少しだけ考えてから、静かに頷いた。
「そうか、暦がそう言うなら、そうなんだろう。頼んだよ」
信頼しているからこそ、俺はその決断を受け入れた。そしてそのまま、視線を雨喜さんへと移す。すると彼女はにこりと笑いながら、カウンター奥のバックヤードをちょんと人差しで指し示した。
「店長ならあそこにいるわよ。今はもうお客さんも、晴人たち以外いないし、入って大丈夫よ」
「分かりました。ありがとうございます!」
暦は感謝の言葉を口にすると、勢いよく立ち上がった。まるで背中に見えない風を受けているかのような軽やかさで、一直線にバックヤードへと向かう。
「お、おい、もう行くのか?作戦会議とか、大丈夫かっ!?」
俺は慌てて声をかけたが、暦は足を止めることも振り返ることもなく、あっさりと言い放った。
「問題ありません。同じ紅茶好き。求める原点は同じです!」
彼女はそれだけを残し、迷いのない足取りでバックヤードの扉を開けて消えていった。
ぽかんと口を開けたまま、俺たちはしばし沈黙した。彼女の後ろ姿が完全に見えなくなるまで、誰もがその出入り口を見つめ続けていた。どこか夢を見ているような、不思議な時間だった。
「なぁ、アマミナ。求める原点って何だ?」
沈黙を破るように、晴人がぽつりと呟いた。その声には、困惑とほんの少しの畏敬が混じっていた。
「さ、さぁ……何だろう……?」
俺も思わず返答に詰まりつつ、ぼやくように答えた。確かに気になる。だが、それ以上に──本当になんなんだろうな……と、俺の心の中に、妙な引っかかりだけが残った。
「面白い子ね」
ふと、静かに笑った声が耳に届く。雨喜さんが俺の方を見ながら、柔らかく微笑んでいた。
「そうですか?」
俺が問い返すと、彼女はうん、と頷いた。
「ええ、何となくだけど、あの子なら大丈夫な気がするわ」
根拠があるわけではなさそうだったが、その口調には不思議な説得力があった。どこか確信めいた響きを持っていた。
「それでフェスタって、どんなことをするのかしら?晴人に聞いても、全然教えてくれないのよ?」
雨喜さんはジト目を向けながら、隣に座る弟に抗議の視線を送った。
「そりゃ、企画者本人と会うんだから、その時に聞いた方がいいだろ」
面倒臭そうに肩をすくめながら答える晴人に、雨喜さんはわざとらしく悲しげな顔を作り、肩を震わせた。
「お姉ちゃんは晴人から聞きたかったのに……シクシク……」
「晴人、お姉ちゃん泣いてるぞ?」
俺もつい悪ノリして茶化すように言ってみた。
「アマミナ、お前も悪ノリすんな!」
ムッとした表情を見せながら、晴人はカップを手に取り、紅茶をひとくちすする。
あまりからかうのも悪いかと思い、俺は真面目な声に戻して説明を始めた。
「別に大したことはしませんよ。文化部の出し物で注目を集めて、街の歴史を紹介して、改めてこの街を知ってもらうような、そんな企画を考えてます」
「へぇ〜、出し物ってなぁに?」
興味津々な様子で身を乗り出す雨喜さん。その表情がとても素直で、子供のように純粋だった。
「吹奏楽部と軽音楽部、演劇部、それと漫才部に出てもらう予定です」
「面白そうじゃない!!」
目をキラキラさせながら声を上げた雨喜さんに、俺は少し圧倒されつつも、どこか嬉しくなった。こんなに反応を素直に返してくれる人も、そうはいない。
「よかったらだけど、その街の歴史っての、私にも手伝わせてくれないかしら?」
「え?良いんですか?」
まさかの申し出に、思わず声が上ずる。まさに願ってもない申し出だった。彼女が歴史学科だと晴人から聞いていたし、その視点は俺たちにはない貴重なものになるはずだ。
「え、えぇ〜……」
だが、俺が快諾しようとしたその時、隣で小さくうめくような声が聞こえた。晴人が実に嫌そうな表情で、明らかに納得していない様子だった。
「何よ晴人?その顔は?」
「いや、姉ちゃん、大学生じゃん。高校生の行事に参加するとかどうなんだよ?」
晴人がそう言うと、雨喜さんは不敵な笑みを浮かべた。今から言い負かすから覚悟しろと言わんばかりの邪悪な笑みだ。
「ふーん?地域交流なんでしょ?わざわざここにもこうして来ておいて、大学生ってだけで参加不可はおかしいんじゃないかしら?」
「で、でもよ!地域の何かはあくまで協賛だ!メインに絡むの違うだろ!?」
晴人は懸命に食い下がるが、雨喜さんは即座に返した。間髪入れずに、まるで待っていたかのように。
「私は手伝う。つまりアドバイスをするって言っているのよ?それに晴人は天戸君みたいに実行委員なの?」
「ち、違うけど……」
言葉に詰まる晴人。彼が実行委員に参加していないのは事実だ。でもそれを責める気はまったくなかった。サッカー部の活動もある中で、こうして店を紹介してくれたことに、俺はちゃんと感謝している。
「なら、そもそもの決定権は晴人にはないわね!全く、反抗期の弟を持つと、お姉ちゃんも困っちゃうなー?」
晴人は助けを求めるように俺を見る。が、ここばかりは──許せ。俺は心の中でそう告げながら、口を開いた。
「晴人、お前の負けだ。それに、俺は晴人の姉ちゃんの協力は、ぜひとも欲しいと思ってる」
雨喜さんがいれば、大学の教授などにも直接話を聞くための繋がりができる可能性もある。断る理由など、最初から一つも存在しなかった。
「最悪だ。よりによって、姉ちゃんかよ……」
テーブルの上に両肘をついた晴人は、目に見えて肩を落とし、深く項垂れながら小さく唸るように呟いた。その背中からは、諦めにも似た絶望のオーラが立ち上っていて、まるでこの世の終わりでも訪れたかのような雰囲気だ。見ているこちらが気の毒に思えてくるほどの沈みようだった。
そんな弟の憂鬱さなど意にも介さず、姉である雨喜さんは明るく前向きな声で言葉を紡いだ。
「それで!歴史っていうのは、どこからどこまで紹介する予定かしら?」
前のめり気味に身を乗り出しながらのその問いは、まるで今にも企画会議が始まりそうな勢いだった。俺はその真剣な眼差しに応えようと少し考えを巡らせる。
「実は……まだ、その辺りは決まっていないんですよ」
俺は少しばつが悪そうに笑いながら、正直にそう打ち明けた。本音を言えば、フェスタに関する段取りや交渉、外部とのやりとりに追われ、肝心のメインテーマである歴史紹介にまでは全く手が回っていないのが現状だった。企画の柱となるべき部分が決まっていないのは恥ずかしいことではあったが、それでも嘘はつけなかった。
すると、そんな俺の事情を一瞬で理解したのか、雨喜さんは屈託なく笑い、胸を張るように言った。
「そうなのね!でも大丈夫、安心して。私がバッチリプロデュースしてあげるから!」
なんとも頼もしい宣言だった。その言葉は、まるで霧の中に一筋の光が射し込むように、迷っていた俺の気持ちを晴れやかにしてくれた。むしろ、まだ何も固まっていないからこそ、彼女のように外部から客観的な目線を持つ人の意見は、素直に受け入れやすい。きっと、新しい視点が加わることで、俺たちだけでは思いつかなかったアプローチができるかもしれない。
「そうねぇ……あんまり知られていないような話を取り上げて、それを通じて街の魅力を伝えられると面白いかもしれないわね。それに、感覚的に分かりやすいこと。これって意外と大事なのよ」
そう言いながら雨喜さんは、ふっと唇に指を当て、視線をゆっくりと天井に向けた。その目がじっと見つめたのは、静かに回るシーリングファン。羽根がゆっくりと回転する音も聞こえそうな静寂の中、彼女はしばらく何かを考えているようだった。そして、ふとひらめいたように小さく声を漏らす。
「たとえばだけど……“出汁づけ卵焼き”のルーツと歴史を絡めてみるのはどうかしら?」
その言葉に、俺は思わず小さく首を傾げた。“出汁づけ卵焼き”。それは神影市に古くから伝わるローカルグルメのひとつだ。その名の通り、食べやすく整えた卵焼きを、丁寧に取った出汁に浸して食べるというシンプルながらも奥深い一品で、市内には専門店もある。
「この料理ってね、実は元々、神影市のものじゃないのよ?」
「えっ、そうなんですか?」
驚いた俺の問いに、雨喜さんは頷きながら続けた。
「ええ。もともとは“明屋”っていう小さな市町村で生まれた郷土料理なの。でもその町は、神影に合併されて今はもう存在しないの」
「初耳ですね……」
俺が呟くと、彼女は優しく微笑んだ。
「知らなくても無理はないわ。合併されてからもう、80年以上も経っているもの」
80年──それだけの年月が経てば、名前や記憶が薄れてしまうのも無理はない。俺自身、公務員として働いていたころでも“明屋”という名前を耳にした覚えはまったくなかった。
だが地方の市町村の統廃合など、歴史を遡れば枚挙にいとまがない。中には県そのものが消滅し、他県に吸収合併されたケースすらある。たとえば、かつて一時期、佐賀県が福岡県と長崎県に分割併合されていたというような例も存在するのだ。
「これはね、教科書にも載っていない話だから、天戸君みたいに知らない人って結構いるのよ?」
そう言って彼女はにっこりと笑った。その笑みは、知識を共有する喜びに満ちていて、教えることそのものに誇りを持っているようにも見えた。
俺はその瞬間、はっきりと確信した。これだ、と。併合の歴史という大きなテーマに、身近なローカルグルメという切り口を重ねることで、参加者の興味を惹きつけ、記憶にも深く残る発表が実現できる。雨喜さんの提案は、まさに目から鱗のアイデアだった。
「本当にありがとうございます。とても、ためになります!」
心からの感謝を込めて頭を下げると、雨喜さんは少しだけ頬を赤らめ、照れたように笑った。
「別に、大したことはしてないわよ。でもね、もしこの話を歴史紹介に使うなら、私の大学に当時の明屋市の古い写真があるの。コピーして使っていいわよ?」
「本当ですか!?ありがとうございます……!助かります!」
俺は何度も頭を下げた。もはや桂木一家には足を向けて寝られない。これほど即戦力かつ実践的な協力をしてくれるとは思っていなかったから、感謝の気持ちが止まらなかった。
しかし、その時だった。不意に背後から、凛とした声が飛び込んできた。
「湊さん、話はつきました」
静かで、それでいて芯の通った声だった。振り返ると、そこには暦の姿があった。先ほどまでバックヤードに向かっていた彼女が、交渉を終えて戻ってきたのだろう。
精一杯、彼女の凱旋を祝福してやろうと振り返った。
そして、そこにいた彼女の姿に俺は目を丸くした。
くるりと振り返った先に立っていた暦は、まるで時代から抜け出してきたかのような、和と洋を融合させた凛とした姿をしていた。
淡い橙色の着物に、深い墨色に近い灰色の袴。それに合わせるように、足元には艶やかな革の編み上げブーツが覗いている。
その装いは、まさしくこの喫茶店における制服。つまり、雨喜さんと同様の接客スタイルであり、この場所で働く者に与えられる象徴のようなものだった。
「あらあら、暦ちゃん……似合うじゃない!」
一番に声を上げたのは、もちろん雨喜さんだった。目を丸くしつつも嬉しそうに駆け寄り、彼女は目を輝かせながら暦の姿を上から下までくまなく見つめた。まるで完成したばかりの美しい人形を眺めるように、体の向きを変えながらあらゆる角度から観察を始める。
「無事に、マスターから出店の許可をいただきました」
暦は落ち着いた声でそう報告しながら、背筋をぴんと伸ばした。まさに任務を果たした戦士のような誇り高い佇まいである。
「そ、それは……よかった……」
俺は一応そう返したものの、内心は言葉を探して迷っていた。なにしろ、あまりにも展開が急すぎて、どこから突っ込むべきなのか判断しかねたからだ。
そんな俺の戸惑いをよそに、晴人が気軽な調子で口を挟んできた。
「なんだ、神戸ってここでバイトでもすんのか?」
曖昧な質問に、暦はきっぱりとした口調で答える。
「大方そうですね」
「どういう意味だ、それ?」
要領を得ない返事に、俺は思わず口を挟む。だが次の瞬間、彼女の口から飛び出した言葉に、思考が一瞬止まった。
「フェスタ当日の紅茶はーーこの私が淹れます」
一拍おいて、沈黙が訪れた。そして、その中で誰よりも驚いたのは雨喜さんだった。瞳を見開き、息を呑んで暦を凝視する。
「て、店長が……うちの看板を出して、それを……許可したの!?」
「もちろんです。そして、当日はちょうど雨喜さんもシフトが入っているとのことで、ウェイトレスとして会場に来てもらうことになりました」
「え、ええぇっ!? わ、私は構わないけど……ちょ、ちょっと待っててねっ!!」
雨喜さんはパニック寸前の様子で、その場を飛び出すようにバックヤードへと走り去った。彼女のブーツの音がフローリングに小気味よく響く。それは余裕に満ちた彼女からは想像できないほど慌てた様子だった。
「なあ……どんな魔法や奇跡を使ったんだ?」
冗談半分、本気半分で俺が尋ねると、暦はあっさりと首を横に振った。
「魔法?そんなものはこの現実世界には存在しません。わたしはただ、マスターに“自分が紅茶を淹れます”と提案して、実際に目の前で一杯淹れてみせただけです。それだけですよ。あとは……マスターが判断しました」
その言葉には一切の誇張もなく、ただ淡々とした事実だけが込められていた。暦は実力だけでこだわりの強いというマスターの首を縦に振らせたというのだから、もはや驚嘆するしかない。
「……本当に、すごいな。よくやった」
俺は心からそう思いながら、次にふと疑問に思ったことを口にする。
「でも、その格好は……?」
それに対して、暦はほんの少し表情を緩めながら答えた。
「お店の看板を借りる代償です」
「だ、代償……?」
その言葉に反応したのは晴人だった。彼は眉をひそめ、身を乗り出すようにして尋ねる。
「週に一度だけですが、私もこのお店でアルバイトをすることになりました」
「まじかよ……」
思わず俺は言葉を漏らしてしまった。あのマスターが、そこまで暦を気に入ったとは。あまりに予想外で、軽く眩暈すら覚える。
暦は、俺の驚きを特に気にする様子もなく、ふと着物の袖を軽く払って続けた。
「でも、この格好も久しぶりですね。昔はよく着ていたのですけれど、最近は洋服が主流になってしまって、すっかりご無沙汰でした」
「へえ……神戸って着物とか着てたんだ? もしかして、実はお嬢様だったりする?」
晴人が冗談めかして笑う。が、暦は首をかしげるようにして、小さく「どうでしょうね」とだけ返した。
ああ、本当に晴人のこういう鈍感さには救われる。余計な詮索をしない分、場が和む。
「それはともかく、暦……本当に大丈夫なのか? 無理してないか?」
俺は話題を少しずらすように問いかけた。
「まったく問題ありません。週に一度程度ならば、活動に支障は出ないはずです。それに、必要があればその都度、休ませてもらえばいいだけの話ですから」
「ま、まぁ……確かにそうだな」
俺は少し煮え切らない返事をしながらも、彼女の落ち着いた様子に安心する。
「それに、真っ当な方法で通貨を得るという経験は重要ですから」
その一言で、ふとある疑問が胸に浮かんだ。そういえば、今まで暦はどうやって金銭を得ていたのだろうか。
沙羽と遊びに出かけたり、買い食いしたりしている場面は何度か見たが、それらの資金源について深く考えたことはなかった。彼女の今の言葉の響きから察するに、「真っ当な方法ではなかった」可能性すらある。──いや、考えるのはやめよう。
そんなとき、またもやバタバタと音を立てて、雨喜さんがバックヤードから勢いよく戻ってきた。
「こ、暦ちゃんっ!どんな魔法を使ったのよ!?」
目をぐるぐると回しながら、彼女はまるで混乱の渦の中から抜け出せていない様子で暦に詰め寄った。そして、その肩に手を置いて問い詰めるように見つめる。
それに対し、暦は微動だにせず、静かな声でただ一言。
「魔法はありません」
こうして、俺たちはフェスタへの協賛を一つ得ることに成功した。