18話:吹奏楽部への要請
どこかでパートを分割しようと思ってましたが、区切りのいいところが出来上がらず......。
ぜひ読んで頂ければ幸いです。
実行委員の選定作業は、想定よりもずっと穏やかに、そして思いのほかあっさりと終わった。
いったい誰を選んだのかというと──正確には、“誰も落とさなかった”というのが答えだ。
つまり、立候補してくれた生徒たちは、全員そのまま採用となったのである。
これは企業の採用選考でも、役所の面接でもない。
ただの学園イベントの準備だ。だが、俺にとってはそれ以上の意味がある。
未来を変えるきっかけになりうる活動だと星が証明しているこの委員会に、自分の意志で関わりたいと名乗りを上げてくれた者たちを、こちらの都合だけで選別し、「今回はご縁がなかったということで」などと追い返すことなど、少なくとも、俺にはできなかった。
もちろん全員を一つの教室に収めて会議を行うには無理がある。
そのため、各クラスごとに代表者を話し合ってもらい、基本的にはその代表者が委員会に出席するという形に落ち着いた。
情報は代表から各クラスへフィードバックするという、言ってみれば分散型の組織構造だ。
即興にしては、悪くない仕組みだと思う。
季節はいつの間にか、春の最終盤へと差し掛かっていた。
今日は火曜日。カレンダーを確認すれば、もう4月の最終週に入っている。
金曜、つまり4月29日の「みどりの日」からは、学校もゴールデンウィークに突入する。
思っていた以上に、時間がない。焦りにも似た感覚が胸の奥に居座っていたが、それでも足は止められない。
方針が定まり次第、俺は即座に各クラスを回って代表者を選出してもらい、その日のうちに顔合わせの場を設けた。
事務的なことを一つ終えるたびに、未来がほんの少しだけ前に進んだような、そんな実感があった。
そして今日。
俺は暦とともに、放課後の校内を歩いていた。
目的は、フェスタへの参加をお願いするための部活動訪問。まずは、吹奏楽部だ。
場所は中庭。春の陽射しが心地よく差し込む、少し開けた空間だ。
かつて狂い咲いた桜の樹は、すでに一枚の花弁すら残しておらず、代わりに濃い緑の葉が枝いっぱいに広がっていた。
まるで次の季節の支度を始めたかのように、桜は黙々と光合成に励んでいる。
その幹の根元では、用務員のおじさんが防虫剤を散布していた。
毛虫の発生を防ぐための春の恒例作業である。
「さてと、頑張りましょう!」
暦が軽く拳を握り、気合いを入れるように空へ突き上げた。彼女なりのエールなのだろう。
俺はそれに応えるように小さく頷き、ふと校舎の三階へと視線を移す。ガラス窓の向こう、音楽室では吹奏楽部の部員たちが楽器の練習に励んでいる姿が見えた。
今日の目的地だ。まずは彼女たちに、フェスタ参加の打診をする。
なぜ吹奏楽部なのか。
それは単純に音楽には華があるからだ。
イベントの主軸となるブースの設計は、街の歴史をテーマとし、完全な地域密着型。
他の企画については上級生に任せているが、音楽の力はどんな空間にも彩りを与えてくれる。
「でも音楽を採用するのは、とても良いアイディアです!」
暦は階段を跳ねるように登りながら、弾む声でそう言った。
本当に嬉しそうで、文字通り“踊るような”足取りだった。
「そんなことないよ。正直、かなり普通の発想だと思う」
少し拗ねたような口調で俺が返すと、彼女は踊り場でぴたりと足を止め、階下の俺を見下ろしてきた。
「そうなんですか?」
「まあな。たいていこういう学校のイベントには、音楽系の部活が顔を出すのが通例だし、特に目新しいってわけでもない」
「なるほど……。でも、わたしにとっては新鮮なんです」
「そうか?音楽なんて、今も昔もどこにでもあるだろ」
「確かに珍しくはないですね。ただ……わたし自身は、平和な時代よりも、動乱の時代に実体化していたことのほうが多かったものですから。音楽といえば、もっぱら軍歌でした。まぁ、わたし自身、音楽なんてやったこともないですが」
外見こそ少女の姿を保っているが、長寿種族的な存在。116歳の明治生まれの発言には日本刀並の鋭さがある。
暦はかなり好奇心が強いタイプだ。
戦争の時代に軍人に混ざって、戦艦に乗り込み、社会見学をしていたと世迷言をもし言われても俺は信じてしまうだろう。水兵服に身を包む彼女も姿もそれはそれで見てみたいものである。
かつて、かの天才物理学者アルベルト・アイシュタインは相対性理論について問われた際、言った。
楽しい時間はすぐ過ぎるとーー。
街の未来の危機というのに、どこか俺も今を楽しんでいる。そんな気がした。
暦とこうして無駄話を叩き合うこの時間が何より尊いものに感じてしまう。
ーーなどと想像を膨らませていると、俺たちは音楽室の前に辿り着いていた。
扉の向こうからは、さまざまな音色が折り重なりながら漏れ出している。
トランペットの明るい音、フルートの軽やかな旋律、打楽器の規則正しいリズム……それらが溶け合い、ひとつの世界を形作っていた。
俺はその扉の取っ手に手をかけ、音楽の鼓動が響くその空間へ、静かに、そして慎重に踏み出した。
「あっ、天戸くんだ!」
音楽室の扉を開けた瞬間、耳に馴染みのある声が飛び込んできた。
声の主は、部屋の入り口すぐ近くに立っていた沙羽だった。
彼女は少し驚いたような顔をしていたが、すぐに明るい笑みを浮かべた。
「三宮か。急に押しかける形になって悪いな」
俺はそう言いながら、気取ったつもりはないが自然とそんな口調になっていた。
どこか社交辞令めいたその挨拶に続けて、扉の敷居をまたぎつつ、「失礼します」と一言添えた。
音楽室という空間に足を踏み入れるのは、実のところこれが初めてだった。
選択授業では美術を取っていたため、音楽室の内部に入る機会は今までなかったのだ。これは以前も今回もだ。
壁面には無数の小さな穴が整然と開けられたパネルが張り巡らされ、音の反響を抑える吸音設計が施されている。
外の教室とはまるで違う、音のためだけに用意されたこの部屋には、どこか神聖な空気が漂っていた。
中にはすでに多くの吹奏楽部員がいて、その大半が女子だった。
皆、それぞれの楽器を手に真剣な表情で練習に打ち込んでいたが、俺たちの登場に気付いた瞬間、その手を止め、一斉にこちらへ視線を向けた。その視線の圧力に、思わず背筋が伸びる。
この学校の吹奏楽部は、校内でも特に部員数が多いことで知られている。
ここにいるのは、あくまでその一部。全体のごく一部の部員に過ぎない。
限られた空間しか使えない以上、練習は校舎中の空き教室に分散して行われているらしい。
音楽室に残るのはローテーション制とのことで、今日はたまたま、ここにいた部員たちと出くわしたわけだ。
俺と一緒に入ってきた暦を認めた沙羽は、何かを思い出したように「あっ」と声を上げ、眉をハの字に寄せた。
「あっ、そうだった……。ごめん、まだ伝えてなかった……」
「いや、大丈夫。気にするな」
そのやり取りの背景はこうだ。
俺たちは今日、吹奏楽部に協力をお願いするため、顧問の先生に挨拶する予定だった。
その件を沙羽に、ホームルームの後で伝えてもらうよう頼んでいたのだ。
出来れば事前に根回ししておいてほしかったが、学校側はすでにイベントの協力活動について把握している。
多少の不手際は問題にはならないだろう。
「一応、三宮も一緒に来てくれるか?」
「もっちろん! 先生なら準備室だよ!」
沙羽は元気よく、音楽室の奥にある扉を指差した。
どうやら、その向こうが準備室らしい。
俺は頷いてから、後ろにいる暦を連れて行こうと思い、振り返った。ところが、目に飛び込んできたのは、完全に予想外の光景だった。
暦が女子たちに囲まれていた。
「み、湊さん、助けてくださいっ!?」
彼女は半ば泣きそうな顔で、俺に手を伸ばしていた。その細い肩を押し包むように、部員たちがどっと集まり、まるでアイドルでも現れたかのような騒ぎになっている。
「ちょっと待って! なにこの子、可愛すぎるんだけど!?」
「ねぇねぇ、あなた、ハーフ?」
「お願いっ!この部活に入らない!?」
とめどなく投げかけられる質問と賞賛。
言葉の嵐は次から次へと止まらず、もはや嵐というより暴風だった。
「ま、待ってください、皆さん!? 私は委員会のお仕事でここに来ただけでーー!?」
暦はあまりの熱烈な歓迎に、身動きすら取れず、完全にパニック状態。まるで人の波に呑まれていくかのように、彼女はなす術もなく翻弄されていた。
これが星の策略だったらどうしようかとも一瞬頭をよぎったが、さすがにこんな低レベルの妨害を、あの高次元存在がやるはずがない。
ただの自然現象──いや、女子高生現象だろう。
「よかったじゃないか、暦。市民は神影市のことが大好きみたいだぞ?」
「ちょっ、ちょっと待ってください!? それ、絶対わたしのこと小馬鹿にしてますよね!?」
そう返す暦の声は、悲鳴にも近かったが、俺には少し面白くもあった。
正直、あの熱狂を抑えて彼女を引き剥がすのは至難の業だ。悪いが、しばらくはあそこでマスコット役をやっていてもらおう。
俺は彼女の苦悶を背に受けながら、沙羽とともに準備室へと歩を進めた。背中に突き刺さるような視線とともに、彼女の最後の一言が響く。
「湊さんの人でなしー!!!!!」
*
「暦ちゃん、大丈夫かな……?」
準備室に足を踏み入れた瞬間、沙羽がふと立ち止まり、小さく呟くように俺へ問いかけてきた。その声には心配と不安が滲んでおり、まるで現実を直視することを避けるかのように、彼女は視線をわずかに逸らしていた。まっすぐ俺の目を見ることができず、何かを信じたいけど信じ切れない、そんな揺らぎがその横顔に現れていた。
「大丈夫だよ。暦は強いから」
俺は迷いなく、力強くそう言い切った。言葉に曖昧さはなく、自信と信頼を込めて発した。すると沙羽は、どこか不安げに音楽室と準備室とを隔てる重い扉に目をやった。その扉の向こうにいる暦の様子が気になるのだろう。だが、別に彼女が捕らえられているわけでも、敵地に踏み込んでいるわけでもないのだ。
俺自身は、特に心配していなかった。暦なら、きっと吹奏楽部員と仲良くなる。話をつけて出ていけば、部員に囲まれながら、その愛らしい顔を膨らませていることだろう。
「失礼します」
思考を切り替え、俺は準備室のさらに奥、教員用スペースの扉を軽くノックした。少しして、中からぼそりと応答があったのを確認し、俺は慎重に取っ手を回し、扉をゆっくりと押し開けた。
中に一歩踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、隙間なく並べられた無機質な金属製の棚だった。棚には、分厚い楽譜のファイルや、使い込まれた楽器の教本が、几帳面にぎっしりと詰め込まれている。あくまで後から準備室に併設されたこのスペースは、全体的に天井も低く、床面積も狭いため、圧迫感が凄まじい。空間の隅々まで詰め込まれたモノが、まるで侵入者を拒むように圧を放っていた。
「ああ……天戸君、だったかな? それと……三宮もか」
静かな空間に、少し眠たげな声が響いた。声の主は、この狭いスペースの中に設置された無駄を削ぎ落とした椅子に座り、気怠そうにこちらを見上げている男性だった。
長めの黒髪にはわずかにクセがあり、毛先が自然に波打つように揺れている。色白の肌はどこか中性的で華奢な印象を与えるが、その座ったままの姿勢からでも、彼の身長がかなり高いことは一目瞭然だった。俺の目測では、立ち上がれば180センチは確実に超えているはずだ。
彼こそがこの学校の音楽教師であり、同時に吹奏楽部の顧問でもある男──名前は確か、伊川谷。正直なところ、ほとんど面識のない教師だった。その名前も、俺の記憶の遥か底の底で眠っていたものを、ここに来る前にようやく叩き起こしただけ。いまだに記憶の中で寝ぼけながら文句を言っているような、曖昧な存在感だった。
「急に押しかけて申し訳ありません。本日は、ぜひご相談したいことがありまして……」
俺はなるべく角が立たないよう、言葉を丁寧に選びながら切り出した。芸術系の教師というのは、えてして個性的な性格を持っていることが多く、時に一筋縄ではいかない。下手に地雷を踏んでしまえば、話が水泡に帰すどころか、機嫌を損ねて面倒な事態にもなりかねない。
こちらには悠長に構えている時間の余裕はないのだ。だからこそ、慎重に、かつ素早く話を進める必要があった。理想を言えば、早急に協力の了承を得て、出場人数や演目順などの詳細なプラン作成に移りたいと考えている。
「ああ……そういう形式張ったの、いいから。俺、堅苦しいの苦手なんだよね……」
伊川谷先生は、手を軽く振るような仕草をしながら、脱力した調子で返してきた。まるで面倒な手続きは全部スキップしたいとでも言いたげな態度だ。その気怠さが言葉の端々から滲み出ていて、俺は笑顔こそ浮かべていたが、内心どう対処すべきかで戸惑っていた。こういうタイプの人間と接する機会が今までほとんどなかったのだ。
(先生、いつもこんな感じだから、あんまり気にしないで)
耳元で、沙羽がそっと囁いた。そのさりげない一言に、俺の肩の力が少し抜けた。どうやら、フェスタの件に無関心というわけではなさそうだ。それなら、こちらの用意してきた話を普通に持ちかけてみる価値はある。
「単刀直入に申し上げます。今度の地域交流フェスタに、ぜひ吹奏楽部にも参加していただけないかと考えております」
「……まぁ、君が見学じゃない理由で来たってことは、そういう話だろうとは思ってたよ」
伊川谷先生は半分だけ閉じたまぶた越しに、俺の顔をじっと見つめながら、相変わらず気の抜けた口調で答えた。その目はまるで生気を失ったような黒さを湛えていて、どこか底知れぬ冷たさを感じさせた。けれど、威圧感は確かにそこにあった。
次の瞬間、彼は深く息を吸い込み、無造作に自分の髪をぐしゃぐしゃとかき上げた。
「せっかく来てもらってるしねぇ……」
そう呟くように言った後、室内に沈黙が広がった。思考の海に沈んでいるのか、伊川谷先生は俺の顔を眺めたり、天井の蛍光灯をぼんやり見つめたりしている。
カチリ、カチリと時計の秒針が無機質に音を刻んでいた。その音が、俺にはまるで、何か重大な結論に向けて運命が進んでいくような、重いカウントダウンに聞こえた。
そして──ようやく彼の口が開かれた。
「……悪いけど、今回はうちの部は参加を見送らせてもらいたい」
その言葉を聞いた瞬間、俺はきっと表情を曇らせたに違いない。彼はその顔を逃さず見つめ、続けざまに言葉を投げてきた。
「うちは、この夏に全国吹奏楽コンクールを控えている。3年生にとっては、高校生活最後の、文字通りの集大成になる大会なんだよ……」
俺は黙って、真剣にその言葉を受け止めた。
「今の時期、これから各パートごとのパフォーマンスを確定させていく大事な時期で、集中的な練習も必要になる。もしフェスタに参加すれば、当然大会用の曲と並行で演奏を練習しなきゃいけない。時間が足りないよ。クオリティの低い演奏を世に出すなんて、俺にはできないよ……」
そこには演奏者としての、いや、指導者としての誇りが確かに感じられた。その気持ちは理解できるし、俺も納得できる部分はある。
「それに、大型楽器の運搬にも問題がある。チューバやシロフォン、グロッケンなど、搬入に手間がかかる楽器が多いんだ。しかも、その費用は部費から出すことになるしね」
俺は何と食い下がるか考えた。
別に大人数で参加して欲しいわけではない。壮大なオーケストラのような曲を演奏してもらわなくても良い。搬入費だって、委員会から予算を出すことも可能だ。
ただこれらの話は全て″断る″理由であり、″出来ない″理由ではない。断るため、角が立たないよう、それっぽい理由を付けて、相手を引かせるための社交辞令に過ぎない。
未来で公務員として働いていた俺も含め、大人がよく使う常套句だ。
その言葉の真意は至極単純で『コンクールの邪魔になるから諦めてくれ』というただそれだけの意味を持つ言葉だ。
俺は数分前の自分の行動を後悔した。無理にでも部員に囲まれる暦を引き剥がし、ここに連れてくるべきだった。
何故なら、今の状況が星からの妨害工作かどうか俺には判別する術がない。彼女は言っていた。奇跡を熾し、人の意志や現実に結果を上書きすると、その痕跡が残ると。
もし星が伊川谷先生の意志に干渉し、この言葉を引き出しているのなら、俺からの説得では今の状況を打破することは難しいのではないだろうか。だが、彼女がいれば、何か打開策を小難しい理論で俺に説き伏せてくれたはずだ。
その時だった。
俺が勘繰りを重ね、思考の迷宮から這い出せずにいると、不意に沙羽が口を開いた。
「先生、あたしは出たいです」
その瞬間、まるで何かのスイッチが入ったかのように、空気が変わった気がした。沙羽のその一言は、何の修辞も飾りもない、ただの言葉だった。ただ、なぜか心の奥底に響いてきた。
それだけで、まるで霧が晴れるように、俺の思考が泥濘から一気に引き上げられた。目の前で起きたことが現実味を持って胸に刺さる。
「三宮、聞いてたのか? それに君も吹部ならわかるだろ? 夏のコンクールが、どれだけ重要なものか」
伊川谷先生は、やや呆れたような調子で沙羽に問いかける。言葉には穏やかさはなく、教育者としての抑制がほんのりと混じっていた。
それでも沙羽は動じることなく、まっすぐに彼を見つめ返した。目に宿るのは、軽い思いつきではない、確固たる信念だった。
「知っています。それに、夏のコンクールには“全員”が出場できるわけではないってことも、ちゃんと理解しています」
その返答を聞いた瞬間、伊川谷先生の顔に一瞬、わずかな動揺の色が浮かんだ。
彼の表情が微かに強張ったのを見て、俺も思わず沙羽の方を見た。沙羽もこちらに視線を向けて、俺と視線が交差した。
その時、彼女の瞳に宿る強い意志の光を、俺は確かに見た気がした。
「コンクールに出場するメンバーには、明確に枠があります。全員が出場できるわけじゃない。それは仕方ないことです。だって、全員が舞台に立てば、物理的にも音楽的にも成立しませんから」
その言葉は、理にかなっていた。
例えば野球やサッカーだって、スタメンがいて、ベンチがある。全員が同時にグラウンドに立つことはできない。団体競技である以上、一定の人数制限があるのは当然の話だ。
彼女は更に続けた。
「1年生の中にはまだまだコンクールに出るだけの実力がない子もいます。そういった子に本番という経験を積ませるいい機会にもなると思います」
理路整然とした沙羽の意見が場を支配した。俺はそんな空気を確かに感じた。
「それにフェスタで演奏するなら、重くて移動が困難な楽器は別に使わなくても良いと思います。自分で持ち運べる楽器だけで、編成を組めば、問題はないはずです」
沙羽の言葉はどこまでも現実的で、なおかつ前向きだった。
彼女はそのまま胸に手を当てると、一歩、前へと進み出た。まるで自分自身の覚悟を、行動で示すかのように。
「練習時間が取れないなら、私のように自前の楽器を持っている部員たちだけで構成して、学校の時間外で練習を行うこともできます」
楽器は非常に高価だ。高校生のうちに個人で所有している生徒は、恐らくごく少数だろう。
俺は吹奏楽部員ではないが、沙羽の話しぶりから察するに、学校の楽器を校外に持ち出すのは禁止されているのだと理解できた。
それも無理はない。楽器の破損や紛失があれば、管理責任が問われることになる。学校としても、それは避けたいはずだ。
「それだと吹奏楽部の“正式な活動”とは言えないと思うけど?」
伊川谷先生の声に、少しだけ鋭さが宿った。沙羽の熱意に対して、一歩引いた冷静な目線からの指摘だった。
しかし、沙羽は一歩も退かない。
「それが、何か問題になるでしょうか? だったら、賛同してくれる部員を個人単位で集めて、“音楽同好会”という形でフェスタに参加します」
その瞬間、伊川谷先生の表情が曇った。彼の視線が、じっと沙羽を捉える。
「はっきり言うがね、三宮。君を含め、自前で楽器を所有している部員は、うちにとって大きな戦力なんだよ。そんな君が、勝手に動かれても困るんだ」
それは、ある意味では当然の懸念だった。
高価な楽器を持ち、自主的に技術を磨いている生徒は、既に実力のある“即戦力”だ。
高校に入ってから急に始めるのではなく、積み上げてきた経験があるからこそ、顧問からも特別に目をかけられているのだろう。
「はぁ……」
大きく息を吐いた伊川谷先生は、重たげに視線を落とすと、再び沙羽の目を見据えた。
その視線は、ただの指導者のものではなく、ひとりの人間としての問いかけのようだった。
「どうして、君はそこまでフェスタにこだわるんだい?」
その問いに、沙羽は一瞬の迷いも見せず、すぐに答えた。
「友達からの頼みだからです」
「君と……天戸君が?」
今度は俺の方へと目を向けられる。俺は小さく頷いた。
「はい。それと、もう一人。暦ちゃんとも約束しました。絶対に出るって」
暦と沙羽が頻繁に連絡を取り合っていることは知っていた。
同じクラスであり、なおかつ暦がこのフェスタの実行委員会で中心的な役割を担っていることも、当然沙羽は知っているはずだ。
「……もしそれでも練習が疎かになって、三宮、お前がコンクールの出場争いに負けたとしたら? それでも構わないのか?」
伊川谷先生の声は、先ほどとは違って静かだった。
けれど、その分だけ重みがあった。試されていると感じた。
「構いません。あたしは疎かにしませんし、もし出られなくなっても、それは仕方ないことです。正直、あたしにとっては……コンクールよりも、友達が成功させたいって思ってるフェスタの方が、ずっと価値があります」
準備室に、静寂が満ちた。
実際には吸音材のおかげで音が響きづらいだけだが、それでも沙羽の言葉は、まるで空気そのものに反響しているように思えた。
俺の胸の奥にも、しっかりと響いていた。
沙羽は、きっと俺のことも友達として思ってくれているのだろう。だが、彼女の中でこの行動をここまで駆り立てているのは、間違いなく、暦の存在だ。
暦が沙羽にとって、大きな存在であることが伝わってくる。
それは、俺とは比較にならないほど純粋で、まっすぐな感情だ。思惑のない友情が、彼女を突き動かしている。
「……」
伊川谷先生はしばしの沈黙を守った。
静けさの中、かすかに聞こえるのは、秒針が時を刻む音だけだった。
やがて、彼はゆっくりと息を吐き、低く、けれど穏やかな声で口を開いた。
「……分かったよ。大きな楽器は使わず、人数も必要最低限に抑えること。それと、演奏メンバーは三宮、君が一年生から選抜しなさい。ただし、当日トラブルが起きて演奏できなくなっても、予備員は出さない。その場合、演奏は中止とする。……それで良いなら、やってみなさい」
その言葉に、沙羽の顔が一瞬で輝いた。
目を見開き、頬を緩め、満面の笑みを浮かべると、勢いよく言葉を放つ。
「やったー! 先生、ありがとうっ!!」
まるで跳ねるようにして準備室を飛び出していく沙羽。
すぐにでも仲間集めを始めるつもりなのだろう。行動の早さは、まさに彼女らしい。
俺は伊川谷先生に深く頭を下げ、感謝の言葉を述べた。そして、沙羽の後を追おうとしたそのとき。
「天戸君」
「はい?」
呼び止められた俺は、少しだけ身構えた。何か文句でも言われるかと警戒したが──。
その心配は、まったくの杞憂に終わった。
「……いい友達を持ったね。フェスタ、上手くいけばいいね……」
相変わらず気怠さを纏ったその声は、しかし、どこか温かみを感じさせるものだった。
不意に放たれたその言葉に、俺は完全に毒気を抜かれてしまった。
*
「怒っています」
音楽室に戻った途端、暦は不貞腐れたような態度で頬をぷくりと膨らませていた。周囲には女子部員たちが集まり、彼女をなだめるように、あるいは面白がるように撫で回している。そんな中で、暦はむすっとしたまま、視線を俺には寄越さなかった。
「悪かったってば」
俺は彼女を女子たちから「救出」し、ひとまず音楽室を後にする。肩をすくめるようにして苦笑しながら謝るが、それでも彼女の表情は明るくならない。桃色の唇はツンと尖ったまま、明らかに不満を溜め込んでいる様子だ。
こんなに不機嫌になるとは思っていなかった俺は、どうしたものかと内心で頭を抱えた。
ただ先程は彼女と別行動を取ってしまったため、目の前の状況に勘繰りを抱き、思考が停止してしまった。あの時、沙羽がいなければ、どうなっていたか想像するだけでゾッとする。
実行委員会の活動部屋へ戻る途中、俺は未だ不機嫌さが有頂天の暦に話しかける。
「三宮と、その本当に仲が良いんだな」
「……何ですか、いきなり。前にも言いましたよね? 沙羽さんとはメールもしますし、一緒に遊びに出かけたりもします。まさか、羨ましいんですか?」
返ってきたのはいつも以上に鋭く、少し苛立ちすら混じった口調だった。明らかに拗ねている。言葉の勢いにも怒りの余韻がにじんでいた。
「な、なんだよ、それ……?」
突然の怒気に、俺は戸惑いながら言葉を返す。すると、暦はジト目で俺を見つめ、皮肉めいた言葉を口にする。
「沙羽さんって、可愛いですもんね。いつもニコニコしてて元気で……誰とでも仲良くなれる人ですよ」
「何言ってんだよ」
何かを勘違いしてそうな暦に俺は釘を刺しておいた。だが、暦はそのまま微妙に無表情なまま言葉を続ける。
「じゃあ、どうしてそんなこと聞くんですか?」
「三宮に助けられたんだよ」
「沙羽さんに、ですか?」
「ああ」
簡単に、だが心を込めて沙羽の説得の一部始終を暦に説明した。少しでも彼女の不機嫌が和らげばと思ったのだ。話を聞いていた暦の表情が徐々に和らいでいき、口元には小さな笑みが浮かんだ。
「やっぱり……持つべきものは友ですね」
よほど嬉しかったのか、暦は腰に手を当て、どこか誇らしげな表情で鼻を鳴らした。
「湊さんは、わたしに感謝するべきですね?」
「その通りだな。ありがとう」
本来なら沙羽にこそ伝えるべき感謝の言葉だったが、暦と沙羽の間にある関係がなければ、そもそも話は始まっていなかった。だからこそ、俺は素直に彼女へ頭を下げることにした。
「暦は友達作り上手いのか?」
ふと気になって、俺はそんなことを聞いてみた。暦は少し驚いたように目を丸くし、やがて遠くを見るように視線を上げた。
「何ですか、それ、藪から棒ですね。そうですね……友達は、そんなに多くありません。特に“人間の”友達は、ほんのわずかです」
「へぇ……でも、それにしては社交的だよな」
「それ、どういう意味ですか?」
唇を少し尖らせて抗議する彼女に、俺は笑いながら言った。
「別に悪い意味じゃないよ。友達が少ないってわりに、暦って誰とでも明るく話せるし、雰囲気も柔らかいしさ。都市星霊って、みんなそうなのか?」
少し冗談めかして言ったつもりだったが、暦は目をぱちりと瞬きし、少しだけ神妙な顔になる。
「失礼ですね。友達が“多くない”だけです。“少ない”わけじゃありません」
「……それは失敬しました」
俺は少しだけ頭を下げ、言葉を慎重に選ぶ。
「そうですよ、わたしはこう見えて、結構優秀なんですから」
「自分で言うんだ、それ……」
「言いますよ。事実ですからね」
どこから湧いてくるのか、その自信。彼女の足取りは軽く、階段をテンポよく降りていく。
すれ違う他の生徒たちがゴールデンウィークの予定で盛り上がり、楽しげな声が踊り場から校内に響いていた。
「……実を言うと、他の都市星霊とはあまり会ったことがないんです。でも、会わなくても大体のことは分かります。何をしているのか、どこにいるのか、そういうのは自然と伝わってくるので」
「へえ……会話とかないんだ?」
「ありません。そもそも、言語のような手段では情報伝達をしていませんから」
一体、どんな方法でやり取りをしているのか。テレパシー的な方法だろうか?
「四次元だっけ? 暦の本当の居場所って」
「はい、そうです」
改めて聞いても、その事実は現実離れしている。四次元なんて言葉、俺には猫型ロボットでしか馴染みがない。せっかくだし、少し聞いてみたくなった。
「その……四次元って、どんな場所なんだ?」
俺の問いかけに、暦はくすっと鼻を鳴らし、意地悪そうに笑った。
「説明しても、どうせ理解できませんよ?」
「なにおう! 俺だって、そこそこ頭はいいほうなんだぞ?」
そう言って食い下がると、暦は嬉々とした様子で口を開いた。
「では説明します。三次元空間に存在する各空間軸に対して、直交する新たな軸を追加してください。それらを面として拡張し、さらなる次元を仮定すれば、どの方向からでも三次元全体を認識可能になります。そこからさらに空間を多重展開すれば——」
「ごめんなさい、俺が悪かったです」
一瞬でノックアウトされた。完全に意味不明だった。自分でも何を聞いていたのか分からなくなった俺は、素直に白旗を上げるしかなかった。
そんな俺の様子を見て、暦はいたずらっぽく笑いながら、勝ち誇ったように言った。
「仕方ありませんよ?三次元の存在である湊さんには、四次元を観測する手段がありませんから。分からないのはさもありなんです」
「うぐ……なんかすげぇ腹立つ……」
言い負かして満足げな彼女は、階段を降りる足取りまでも軽やかに見えた。このまま機嫌が直ってくれればいい、と思った矢先——。
暦は、ふと思い出したように立ち止まり、俺の方へくるりと振り返る。
「……でも、まだ怒ってますからね?」
その言葉に、俺はもう一度、頭を抱えるしかなかった。