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海風Re:fine〜街を語る少女と時をかける記憶〜  作者: 甘照すう
3章:街を語る少女の挑戦
16/40

15話:開票結果

 魚崎副会長による長い折檻の末、ようやく解放された俺は、深くため息をつきながら夕暮れに染まりつつある校舎を後にしていた。

 窓の外では西日が校庭を橙色に染め、長く伸びる影が廊下に静かに落ちている。人気のないその廊下を、俺はゆっくりと歩いていた。足取りは重く、疲労の色は隠せない。

 あの怒りに満ちた副会長の様子は、今思い出しても背筋がすっと冷たくなる。


『ありえませんっ! 本当に、何度言えば分かるんですかっ!? 』


 顔を真っ赤にして、眉間に深い皺を寄せ、怒りの熱量を全身から発していた魚崎副会長。まるで鍋から吹きこぼれそうな勢いの沸騰する湯のようだった。

 おそらく、あれは彼女にとって「本番中に予測不能なことをされる」という、絶対に避けたい“最悪の事態”だったのだろう。

 彼女の言う通り、「物事には段取りがあり、全体の予定に沿って動くことが組織の基本」なのは、正論だと思う。

 誰か一人の独断が全体を混乱させる可能性がある。

彼女がそれを強調するたびに、俺は心の中で「まったくその通りです」と何度も頷いていた。

 だが、そのイレギュラーを最初に持ち込んだのは、他でもない俺自身だった。

反論の余地など一切なく、俺は終始、深く頭を下げて「すみません」「申し訳ありません」と謝罪を繰り返していた。

 それでも、会長はというと、悪びれる様子もなく、どこ吹く風といった顔で、穏やかな笑みを浮かべていた。

『まあまあ、上手くいったからいいじゃないか』と、言いたげなその飄々とした態度が火に油を注ぎ、結果として、説教の時間はどんどん長引いていく。

 最後は副会長が根負けする形で、渋々会長の言葉を認め、ようやく話は打ち切られたのだった。

 疲労は足元からじんわりと湧き上がってきて、思わず溜め息が漏れる。

心なしか、歩くペースもどこか緩慢で、気だるさが全身を支配していた。

 そんな俺が校門まで辿り着くと、一本の街灯の下でこちらを見つめる暦の姿があった。

 彼女は俺の顔を認めた瞬間、ふっと表情を変えた。

心配していた気配を一瞬だけ見せたあと、まるで『これから怒ります』と言わんばかりに、ぷいと視線を逸らしながら拗ねた顔を作った。


「遅いです。待ちくたびれました」


「悪い」


  俺は、鈍感なほうではない。少なくとも、彼女のように表情豊かな存在の感情くらいは読み取れるつもりだ。だから、その“演技めいた拗ね顔”を素直に受け止め、率直に謝罪の言葉を口にした。すると彼女はすぐにその顔を戻し、いつもの落ち着いた顔立ちに戻ると、俺の隣に立ち、自然と歩き出した。


「先に帰ってしまおうかとも思っていました」


「別に、それでも良かったのに」


 俺が何気なく返すと、今度の彼女は本当にむっとした顔を見せた。拗ね顔とは違う、ちょっとだけ頬を膨らませた、本気で機嫌を損ねた時の顔だ。


「湊さんは……何も分かっていませんね」


「何がだ?」


 歩きながら俺が問うと、暦は少しだけ歩調を緩め、肩をすくめた。


「激戦を制した後には、ヒロインの登場が必要だと思いませんか?」


「……自分で言うか、それ?」


「ええ、言いますとも。こういう時はもっと待っていてくれて嬉しいといったように感謝を伝えるべきです」


「わ、悪かったよ。ありがとうな」


 思わず苦笑まじりに返すと、彼女はくすりと笑った。その笑みは柔らかく、ほんの少しだけ照れ隠しが混ざっているように見えた。

 沈みゆく夕日の光が彼女の金色の髪をオレンジ色に染め、風に揺れるたびにその色は少しずつ変化していく。

 目の前にあるその光景は、どこか現実離れしていて、綺麗だった。


「こちらこそ、ありがとうございます」


 静かに口にされたその言葉は、空気の振動が聞こえるくらい静かな声音だった。

 暦は俺のほうにそっと視線を向ける。まっすぐに、真剣な眼差しで。


「やっぱり湊さんで良かったと……本気で、そう思っています」


 その言葉に、思わず視線を逸らしたくなった。

そんな風に真っ直ぐ言われると、くすぐったくて落ち着かない。

 けれど、俺は目を伏せながらも、正直な気持ちを口にした。


「……買い被りすぎだろ。暦が先陣切って拍手してくれなきゃ、ああはならなかった。会長のフォローもなければ、もっと周りは唖然としてたはずだ」


「そんなことはありません」


 暦ははっきりと言い切った。

そして、駅前のロータリーに差し掛かったところで、ふと立ち止まった。

 街路樹が並ぶその先には、夜を迎えようとする改札口が口を開けて待っている。通りを行き交う人々の声、電車のアナウンスが遠くに響く。

 その静けさの中で、彼女は自分の手をゆっくりと見つめた。


「わたしは見ているだけです。わたし個人の力では、街を変えることはできません。……街を作るのは、あくまでそこに住む人たちですから」


 その声音には、どこか達観したような、でも確かに熱を秘めた静かな強さがあった。

 彼女は“見ているだけ”と言うけれど、その存在がどれだけ力を与えてくれているか。


「わたし、実はこれでもワクワクしているんです」


 柔らかく微笑みながら、暦はそう言った。

弾むような声には隠しきれない期待と高揚が滲んでいて、夕暮れの街の静けさとは裏腹に、そこだけが明るく灯るような空気をまとっていた。


「自分の存在が掛かっているのにか?」


 俺は思わず問い返す。その声には驚きと、ほんの少しの戸惑いが混じっていた。

 自分という存在が消えるかもしれない危機。普通なら不安でたまらなくなるはずなのに、彼女は迷いなく、首を縦に振る。


「はい、それでもです!」


 胸元の前で小さく握られた両手。

胸と同様に主張しない控えめなその所作の中に、確かな強さが宿っていた。

 金色の髪が風に揺れ、ほんの少しだけ頬が紅潮しているように見えた。


「停滞していた街が動き出す。そんな予感がします」


 彼女の瞳はまっすぐに前を見つめ、遠くの未来を見据えているようだった。

 その一言に、俺は苦笑を返した。

期待する気持ちがないわけじゃない。けれど、それでも現実は厳しい。


「動くといいんだけどな」


 気持ちとは裏腹に、言葉にはどうしても弱さが滲む。たかが高校の一つが、既存のイベントに参加したところで、果たして街に何が変えられるのか。

問われれば、俺は言葉に詰まる。

たとえそれが成功したとしても、それが街の未来にどう影響を及ぼすかなんて、誰にもわからない。

だが、そんな俺の胸の内を読んだように──。


「小さな出来事は必ず未来に影響します」


 暦は、ためらいのない言葉を口にした。

まるで心の奥底まで見透かされたかのような感覚に、思わず息を呑む。読心術でもあるのか、と疑いたくなるほど的確だった。


「何故、星は人の意思への直接的な干渉を嫌うのか。湊さんは考えたことはありますか?」


 不意に投げかけられた問いに、俺は一瞬言葉を失った。その手のことについて、考えたことがなかったわけではない──。

だが、真剣に向き合ったこともなかった。


「……無いな」


 少しだけ申し訳なさそうに、俺はそう答える。

すると、暦は優しく微笑んで、そっと首を横に振った。


「別に気にしないでください。理由は凄く単純です。人の意思への干渉は、例え小さなことでも後になり、大きな影響を与える可能性が高いからです」


 その言葉に、俺はふと思い出す。

かつて耳にした「バタフライエフェクト」という言葉。

 ブラジルで蝶が羽ばたけば、アメリカで台風が起こる。小さな変化が連鎖し、予想もできない結果を導くという、カオス理論のひとつ。


「察しているかもしれませんが、星は非常に保守的です。原則として変化を嫌います。自身が想定している未来のためだけに栄枯盛衰を望みます。常に全体を俯瞰し、最も安定した状態であろうとします」


「……何となく思ってた」


 思わず口に出したが、これは決して話を合わせているわけではない。俺の中にも同じような印象があったからだ。

 暦のような消滅の危機に喘ぐ都市星霊が“星の意思”とやらによって生み出される存在である以上、その大本となる星は、きっと人間以上に保守的で、無責任なのだろう。

 いくら滅びの危機が迫っていても、対策を訴えれば「却下」と一言で終わらされる──。

そういう相手だと、どこかで思っていた。


「つまり直接的に影響を与えないためにも人の意思へ干渉する時は回りくどいやり方が必要になると」


「さもありなんです。意思決定の余地を残す必要がありそうです」


 彼女の脳裏には教頭への干渉の失敗が浮かんでいるに違いない。静かに頷く暦の横顔には、納得というより、どこか諦めに近い色が浮かんでいた。

 それでも彼女はなお、そこに抗おうとしている。


「そのくせに小さなことは許可したりとわがままなヤツだな」


 俺が肩をすくめてそう言うと、暦はくすっと笑った。その笑みはどこか皮肉混じりで、それでもどこか嬉しそうでもあった。


「ですよね。そして今はここにいる人たちが選んだ結果です。わたしが望んだことではない」


 少しだけ言葉を切ったあと、彼女は静かに続けた。


「今、色んな人が動いているのは、湊さんの行動の結果なんです。だから、わたしは貴方なら出来ると信じています。この小さな出来事は必ず将来に影響を与えます」


 そう言って俺を見上げる彼女の表情には、芯のある強さと、儚さが同時に浮かんでいた。

 信じているという言葉の重みが、そのまま視線に乗って俺の胸を打った気がした。



 翌日。

朝の空気はどこか柔らかく、昨日の熱気が嘘のように静まり返っていた。だが、俺の心の中には、落ち着かないものが渦巻いている。

そんな状態で学校に登校した俺を待っていたのは、案の定、質問攻めの嵐だった。

 校門から教室に向かう途中、数人のクラスメイトに呼び止められ、廊下で軽く取り囲まれた時点で覚悟はしていた。だが、それはまだ序章に過ぎなかった。

実を言えば、昨日の五時間目が終わった時点で、俺の荷物はすべて生徒会室へと移動済みだった。演説のあった体育館から、再び教室に戻ることのないように、予め段取りが組まれていたのだ。

 その理由も一応は納得のいくものだった。学校側の判断によると、「発表者本人がその場にいる中でアンケート投票を実施するのは、公正性を欠くおそれがある」とのことだったらしい。要するに、俺が教室にいたら、みんなが気を遣って投票しづらくなるという配慮だったようだ。

 結果として、俺は昨日の午後の大半、クラスに一切顔を出さないまま一日を終えた。そして今日、朝のこの瞬間まで、暦を除き、誰一人としてクラスメイトと会話すら交わしていなかった。

 今さらながら、その事実がやけに気恥ずかしく感じられる。


「アマミナー? どうして何も教えてくれなかったんだよ?」


 教室に入るなり、真っ先に詰め寄ってきたのは晴人だった。やや不満げな表情で、眉間にシワを寄せながら俺を見ている。


「そうよー? あたしにも何も言ってないじゃない!? 聞けば、暦ちゃんにだけは相談してたって話じゃないの!」


 続いて、沙羽が俺の机をバンバンと勢いよく叩きながら、声を上げる。彼女の目はやや鋭く、それでいてどこか面白がっているようにも見えた。


「ご、ごめん。お前らは部活とか色々あるし、迷惑になると思って……」


 俺は苦笑交じりに謝罪を述べ、申し訳なさそうに頭を下げる。心からの謝罪、というよりも、少し照れ隠しのような頭の下げ方だった。

 それを見て、晴人は軽く肩をすくめながら言った。


「まぁ、別に怒ってるわけじゃねぇけどよ? なんか面白そうなことやってたのに、何も相談が無かったってのは……ちょっと寂しかったぜ?」


「何だ? お前、そういうのに一枚噛みたいタイプだったか?」


 俺は少し意外な気持ちでそう尋ねた。

晴人はオリエンテーションの時もそこそこ楽しそうにはしていたが、積極的に行事に参加するようなタイプではないと思っていたからだ。


「おうよ。よくわかんねぇけど、ああいう熱い展開って、嫌いじゃねぇんだよ。……それに、俺はちゃんと参加に同意しておいたからな?」


「それは助かる。ありがとう」


 俺が素直に礼を述べると、今度は沙羽が口を開く。


「あたしも参加に丸をつけたよ。たぶん、このクラスはみんな、参加に票を入れてると思う」


「……本当か?」


 信じられない気持ちだった。ありがたい話ではあるが、俺自身、クラス全員とまともに会話したこともないし、人望があるとも思えない。そんな俺に対して、 なぜクラス全体が賛同してくれたのか。

俺がその疑問を口にすると、沙羽は少し得意げな笑みを浮かべて、さらりと言ってのけた。


「だって、教室に戻ってきた後、倉敷先生がなんか泣きながら、“清き一票を!!”って叫んでたし?」


 その光景は、何故かありありと思い浮かんだ。

普段の言動からして、倉敷先生がそういうことをやっていてもまったく不思議ではない。

 ただ、ふと脳裏をよぎるのは、「もしかして、また暦が裏で何か焚きつけたのでは……?」という疑念。

俺がそっと暦の方を見やると、彼女は驚いたように目を見開き、ものすごい勢いで首を横に振った。どうやら今回は本当に関係なかったらしい。


「でもよ? どうして、あんなイベントに参加したいんだ? 昨日、いろいろ言ってたけど、本当のところというか何か違う気がしたんだよなぁ」


 唐突に放たれた晴人の言葉に、俺は戸惑いを覚えた。思いは、ちゃんと伝わっていなかったのだろうか──。急に、胸の奥にざわりと不安が立ち上る。

晴人は少し言い淀みながらも続ける。


「熱意というか、“やりたい”って気持ちはすげぇ伝わったんだけど……何というか、うまく言えねぇな」


 煮え切らないその言い方が、逆にこちらの胸にももやもやを残す。


「何言ってんのよ? 天戸くん、すっごくカッコよかったと思う!」


 沙羽が勢いよく晴人の言葉を遮り、瞳をキラキラさせながら俺の方を見た。


「何より、暦ちゃんがまるでヒロインみたいに拍手しててさ! あたしもつい、秒間10連打くらいの勢いで拍手しちゃったわよ!」


 その言葉に、俺の脳裏には思わず“目をガン開きし、シンバルを叩く猿のおもちゃ”が浮かんでしまった。

手を叩き続ける彼女の姿は、どうしてもそのイメージに重なってしまう。

 本人には悪いが、そうとしか思えなかった。



 放課後。

夕日が射し込む廊下を歩く中、俺は生徒会室へと向かっていた。すると、隣を歩いていた暦が、遠慮がちに声をかけてきた。


「わたしも同行していいのでしょうか?」


「別に構わないだろ」


 特に深い理由があるわけではなかったが、俺はそう答えた。なんとなくではあるが、会長なら暦を歓迎してくれるという確信があった。

 むしろ、彼女が一緒にいた方が、会長も楽しむに違いない。そんな予感すらした。

 生徒会室に着き、引き戸を開けると、すでに中には会長と魚崎副会長の姿があった。

二人とも、資料の束を前に、静かに会話をしていたが、俺たちの姿を見るとすぐに視線を向けてきた。


「やあ、天戸。おや?今日はお友達も一緒かい?」


 穏やかな笑みを浮かべながら、会長が声をかけてくる。


「はい。勝手に連れてきてしまいましたが、人手になるかと思いまして。手伝ってもらってもいいですか?」


「無論だよ。むしろ、こちらからお願いしたいくらいだ」


 にこやかに答える会長の言葉に、魚崎副会長も立ち上がり、さっと俺たちを空いている席へと案内してくれる。

 着席したテーブルの上には、各学年・クラスから集められたアンケート用紙が、きちんと整頓されて積み上げられていた。


「見ての通り、結構な量がある」


 そう言いながら、会長は俺と暦にそれぞれ二つのカウンターを手渡してきた。その手際はどこか慣れたもので、俺たちがこれから対峙する“作業”の規模に見合った覚悟を促しているようでもあった。

 手に取ってみると、見た目はごく普通のカウンターだ。しかし、それぞれのカウンターには目印として、一本は赤、もう一本には黄色のテープが丁寧に貼られていた。見ただけで役割がわかる親切設計だ。


「やることは簡単だ。参加なら赤色、不参加なら黄色のカウンターを押す」


会長は淡々と説明する。その簡潔さは逆に頼もしい。

確かに、シンプルで非常に分かりやすい分類方法だった。これならミスも少なそうだ。

 俺は手元のカウンターを軽く押してみて、その動作を確かめた。小気味よいカチリという音が指先から伝わってくる。なるほど、悪くない。


「他の生徒会の皆さんは?」


 ふと疑問に思って、会長に尋ねる。というのも、今この生徒会室には俺と暦、会長、そして副会長の魚崎さんの4人しかいないからだ。

 昨日の演説会のときには、確かにもっとたくさんの生徒会役員たちが顔を揃えていたはずだが、今日はどうしたことか、姿が見えない。


「今日は定例会の日ではないからね。全員に声をかけて集めるほどでもなかったんだ。そもそも、基本的に放課後にここにいるのは、僕と魚崎くらいのものだよ」


 なるほど、それなら納得だ。別に異常というほどのことではない。

 何より、目の前に積まれたアンケート用紙の束。その数、ざっと見積もって800枚ほど。それを4人で分担すれば、1人あたり200枚。数字だけ見ればそこまでの苦行ではない……はず。

 気を取り直し、俺は最上段のアンケート用紙に手を伸ばした。いよいよ集計作業の開始だ。記念すべき1枚目の回答を確認すると、そこには無慈悲にも「不参加」の文字が。いきなりテンションが下がる。

 しかし横を見ると、すでに暦の手元にある参加カウンターにはカチリと数字が刻まれていた。おそらく彼女の一枚目は「参加」だったのだろう。少しだけ悔しいが、まだ気を落とすには早すぎる。

 俺は深呼吸をひとつ挟み、再び淡々と作業を再開した。そのときだった。カウンターを押す音と紙の擦れる音が響く中、不意に目の前に小さな影が差し込む。


「どうぞ、会長のお気に入りのものです」


 魚崎副会長が、200mlサイズのドリンクパックを俺と暦の前にそっと差し出してきた。青色のパッケージが目を引く。


「おい、魚崎。それは僕の私物ではないかい?」


 すかさず反応したのは会長だった。やや眉をひそめ、鋭くツッコミを入れる。

ところが、魚崎さんはそれをひらりとかわすように、肩をすくめて笑ってみせた。


「そうですよ?でも冷蔵庫の中に放置されてたので、もう共有物みたいなもんじゃないですか?」


「いやいや、勝手に持ち込んだのは僕だけど、勝手に配るのはまた別の話だろう……」


 会長は鼻を鳴らしつつ、しかしそれ以上強く咎めることはなかった。まんざらでもなさそうに、軽く手を振って「飲んでいいよ」と無言のジェスチャーを送ってくる。


「ありがとうございます」


 素直に礼を言い、俺は受け取ったパックを手元でくるりと回す。そのパッケージには、大きく『ミルクティー』の文字。

俺は咄嗟にマズイと思った。

 この手の飲み物に対し、暦はきっと悪態を吐くに決まっている。だが、俺の心配は杞憂に終わる。


「ありがとうございます!えっと、摂津会長でしたよね?」


「気軽に会長と呼ぶといい」


「摂津さんありがとうございます。お言葉に甘えて、これ、頂戴します」


「……君、話を聞いていたのかい?“会長”でいいんだって」


 悪態は……来なかった。だが、それだけで終わる彼女ではない。

 暦は会長の言葉を受け取りつつも、あえて「これ」と曖昧な指示語を使ってミルクティーを避けた。明らかに「紅茶」と呼びたくないという意地が感じられる。言葉尻ひとつで、内なる抵抗を示しているあたり、実に暦らしい。

 その後、静けさが生徒会室に戻った。俺たちは再びアンケートの集計に戻り、紙をめくる音とカチリというカウンターのクリック音だけが空間を支配する。

 しかし、そんな静寂をまたも破ったのは魚崎さんだった。


「天戸君、つかぬことを聞くけど、その神戸さんとは友達なの?」


 作業の手を止めたのは、なんと会長だった。普段の冷静さを崩すように、慌てて割って入る。


「魚崎、君は何を聞いているんだ?そういう詮索は控えたまえ」


 彼の視線が、俺と暦の間を行ったり来たりする。その様子を見て、魚崎さんはにやりと口角を上げ、ジト目で見返した。


「そういう会長こそ、気になってるんじゃないですか?」


「べ、別に?僕は……気になっていないと思うよ?」


 その言い訳、全然説得力ないぞ。


「なんですかそれ?天戸君に友達いなさそうだから、可愛い子連れてきたのが気になって仕方ないって、顔に出てますよ?」


 俺、本人を目の前にこの人は何を言うんだ?

俺も暦も自然と作業の手が止まる。


「どうしてそんなことが分かるんですか……?」


俺は自然と、疑念混じりに問い返していた。


「分かりますよ。だって、私たち幼馴染ですから」


 これはまた意外性のある設定がぶち込まれたものだと、俺は内心で感嘆の声を上げた。

俺の中で思考が一瞬フリーズする。その横で会長がむすっとした顔で返す。


「何が幼馴染だ。ただ昔から家が隣で、たまに遊んでただけの関係だろう」


「そういうのを幼馴染って言うんですよ?」


「……全く。好きに呼称すればいいさ」


 明らかにバツの悪そうな表情で、会長はそっぽを向いた。確かに2人の関係性について、考察する余地はあったと思う。

 なんだか2人ともただの会長、副会長というだけの間柄ではないような雰囲気はしていたからだ。

俺がそう思っているとーー。


「それで、二人は付き合ってるの?」


「へ?」


 魚崎副会長の矛が次にこちらを向いた。

なんてタイミングだ。口に含んでいたミルクティーが、危うく吹き出しそうになる。


「全く、魚崎は何を失礼なことを……」


 会長は額に手をやり、まるで頭痛を押さえるように肩を落とした。呆れ半分、困惑半分といった様子で彼女をたしなめる。

 しかし、それに対して彼女は悪びれる様子もなく、むしろ開き直るように、どこか得意げな顔で言い放った。


「でも、どう見ても付き合ってるようにしか見えないと思います。どう思いますか?」


 その台詞を受けて、会長はまじまじと俺たちを見て、ふうと溜息を吐いた。そして、しれっと——それこそ事実確認を取るまでもないかのように言い切った。


「どう見ても、付き合ってるだろ」


 何だと?


 あまりに自然なトーンで言われたもんだから、俺は何かの冗談かと疑ってしまった。


「ですよね、私の目は間違っていないはずです」


「別におかしなことはないだろう。相性が良ければ、人と人の関係などすぐに縮まるものだ」


 そう言って、二人は勝手に納得したように話を進め始めた。

 俺はなんとも言えない気持ちになる。

この二人に限っては、恋愛沙汰のような話題には無縁だと思っていた。

いや、別に興味があってもおかしくはないのだ。何せ、彼らも年頃の高校生なのだから──。

 そのとき、暦がそっと俺の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。


(何やら勘違いされてしまっているようです)


 暦も暦でこの状況について、困惑している。

まるで日本経済の未来を憂うような深刻な表情で、暦はそっと視線を二人に向ける。まるで「自分たちは誤解されてますよ」と、静かに訴えかけるようだった。


「あ、あの、ひとついいですか?」


 たまらず、俺は口を挟んだ。

すると魚崎副会長はハッとしたように俺たちを振り返り、気まずそうに小さく咳払いをした。


「コホン……失礼。君たちの意見も聞かないで勝手に盛り上がってしまっていたわ」


「友達です」


 俺は彼女からの質問を待たずに即答した。

それを聞いた魚崎副会長は、まるで思いもよらなかったように目を大きく見開き、驚きを露わにした。


「付き合ってるわけでもないのに、校門のところで長時間待ってたり、スピーチのときに一番最初に拍手して、それでここにもついて来たの?」


 彼女の言葉には、本気で理解できないという感情がにじんでいた。


「は、はい……」


 暦は頬をうっすらと赤らめ、小さな声で答えた。視線は少し泳ぎ、どこか所在なさげにしている。おそらく、他人からの視点で自分の行動を意識したのは初めてなのだろう。

 とりあえず俺は以前、暦が晴人たちに語っていた“幼馴染設定”をそのまま引用する形で、彼女との関係性を説明した。


「あーそういうことね」


 説明を聞いた魚崎副会長は晴人たちとは違い、素直に納得してくれた。


「らしいですよ、会長」


「なぜ僕に言う?一番最初に有らぬ疑いをかけたのはお前だろう」


 いつの間にか会長は資料に目を戻し、作業を再開していた。その口調はまるで魚崎副会長をいなすようなものだった。

 おそらく彼自身、幼馴染という設定にそれなりの納得を得たのだろう。あるいは、最初からそこまでこの話題に興味があったわけではなく、ただ魚崎副会長に話を合わせていただけだったのかもしれない。

すると、会長が口を開いた。


「まあ、仲が良いのは結構なことだがな。こいつと同様、噂好きはどこにでもいる。いや、人間という生物はそもそも、噂を交わしながら協調性を育て、生存競争を勝ち抜いてきた生き物だ。老婆心ながら、勘違いされたくないなら、距離感の見直しも一考すべきだ」


「会長も、最初は考察してたじゃないですか」


 魚崎副会長の指摘に、会長は鼻で笑う。


「事情を知れば、手のひらを返さざるを得なかっただけさ」


 そう言うと、彼は魚崎副会長をじっと見つめた。


「……まぁ、そうですね」


 何かを感じ取ったのか、魚崎副会長は小さく肩をすくめると、観念したように集計作業へと視線を戻した。

 導火線に火がついていたはずの空気は、いつの間にか水をかけられたように静まり返っていた。

妙な緊張感がふっと抜けたその瞬間、俺は内心でそっと胸を撫で下ろしていた。



 その後、雑談を交えながらの集計作業は、当初の予定を大きく超える時間を要することになった。

 生徒会室の窓からは、西日が差し込み始めており、沈みゆく夕陽がカーテン越しに柔らかな光を落としていた。

 その光は室内の空気をほのかにオレンジ色に染め、長引く作業に少しだけ安らぎの気配を添えていた。

 テーブルの上には、暦のほとんど手をつけていないミルクティーの紙パックが置かれたままで、そこから伝った水滴が小さな水たまりを作っていた。時間の経過が、そこに静かに刻まれていた。

そんな中、魚崎副会長は集まった数字を淡々と処理し、ホワイトボードへと書き写していく。彼女の文字は驚くほど整っていて、まるで印刷されたかのような美しさだった。

 その丁寧な筆致は、作業の一つひとつに神経を注いでいる証でもあり、集計という無機質な作業にどこか知性と気品を与えていた。

 すべての数字を書き終えると、魚崎副会長は次のステップへと移る。

票数の合計を、なんと電卓すら使わずに暗算で計算し始めたのだ。

 彼女の眼差しは真剣そのもので、一度見た数字を記憶の中で自在に組み立てながら、正確に合算していく。まるで人間計算機のように淀みない手つきで、集計の最終局面を迎えていった。


「今出ている分、すべて計算終わりました」


 そう言って、魚崎副会長はホワイトボードの前からすっと身を引いた。

 その言葉に俺と暦は同時にホワイトボードに目を向け、記された数字をじっと見つめる。

そして、その瞬間ーー


「た、足りません……」


 暦がぽつりと漏らした言葉が、胸に重く響いた。

彼女の言葉通り、ボードに示された集計結果では、参加と不参加の票数が完全に拮抗していた。

過半数を獲得するという条件を、わずかに、しかし確実に下回っている現実がそこにあった。

 その瞬間、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

暦が、自らの命を削り掴んだチャンスを逃さまいと挑んできたこのプロジェクト。それを支えきれず、結果としてチャンスを棒に振ってしまったという無力感。

 やっと何かが動き出そうとしたその矢先に、その動きが否定されたような感覚。

 悔しさと情けなさで胸が押し潰されそうになり、目の前の景色がぐちゃぐちゃに歪んだように感じた。


「暦……すまない」


 俺は絞り出すように声を出した。責任の重さが、ただただ言葉にならなかった。


「だ、大丈夫ですよっ! 最初から上手くいくなんて思ってませんって……! 湊さんとも、そう言ってたじゃないですか……? だ、だから……そんな顔……しないでください……」


 最初こそ明るく振る舞おうとしていた暦の声も、徐々にか細くなっていった。それでも、彼女は何とか微笑もうとしながら言葉を紡ぎ続ける。


「……次がありますよ」


 そう言って、暦は俺の頭をそっと撫でた。

その小さな手の温もりが、胸の奥にじんわりと染み込んでいくようだった。


「そうだぞ、天戸。まだ次がある」


 そう言いながら、会長が俺の前に一枚の紙を差し出した。それは昨日、全校生徒に配布されたアンケート用紙だった。記入欄は、白紙のまま。


「君の分が、まだ書かれていない」


 確かに、思い返せば俺はこの用紙を提出していなかった。だが、発案者である自分がこの票を記入していいのだろうか──そんな躊躇が頭をよぎった。

 その迷いを見透かすように、会長は静かに語りかけてきた。


「学校側は『生徒会役員及び執行部を除く全校生徒』の過半数と言っていた。ならば、役員でも執行部でもない君が投票をしないのは、かえって不自然ではないかい?」


 確かに、それは筋が通っている。しかし、それでも俺の胸にあるわだかまりは晴れない。

 この票が果たして本当に有効とされるのか、その不安がぬぐえなかった。

 それに対して、会長は揺るぎない口調で言い切った。


「はっきり言って、学校側は君が票を入れることなど想定していなかった。職員会議でのやりとりの中でも、それは明白だった。だからこそ、何度も確認したし、文書としても取り寄せてある」


 そう言って彼は、机の中から一枚の書類を取り出して俺に見せた。そこには「生徒会役員及び執行部を除く、全校生徒から過半数以上の支持を得ること」と明記されていた。


「僕も、まさかここまで僅差になるとは思っていなかった。けれど、念には念を入れておいた。君の一票は、切り札として最後まであえて追求しなかった」


 会長の言葉を受けて、魚崎副会長も静かに続けた。


「私も正直なところ、圧勝だと思っていました。そうでなければ、あんな雑談を交える余裕なんて、とてもじゃないけど持てませんから」


 なるほど。

あの恋バナまがいのやり取りは、彼女たちが勝利を確信していたからこその余裕だったのだと、今になって合点がいった。


「ともかく、これで参加は決定だ。今は素直に喜ぼうではないか、天戸! そして神戸!」


「え、えっと、そ、そうですね!」


 まだどこか煮え切らない気持ちは残っていたが、少なくとも状況としては「参加決定」という結果が出たことに間違いはない。

 俺は急ぎ、アンケートの記入欄に「参加」と書き殴った。これで、ようやく、ぎりぎりではあるが、過半数を超えた。


「さて、天戸。これからは忙しくなるぞ!」


 威勢よく机を叩きながら、会長が満面の笑みを浮かべた。


「早速、実行委員会の立ち上げだ。魚崎、学校への報告と書類の準備を頼む」


「言われるまでもなく、昨日のうちにたたき台は用意してありますよ」


 魚崎副会長は自信たっぷりに鼻を鳴らしながら微笑んだ。

 俺は深く息を吸い込む。

たしかに、ギリギリではあったが、どうにか繋がった。首の皮一枚で、チャンスはまだ生きていた。


──だが、そのとき。


 何かが引っかかった。妙な違和感が胸をかすめたのだ。なぜなら、暦が何も言わなかったからだ。

 別に、賛辞の言葉を期待していたわけじゃない。

ただ、今この瞬間、彼女が何も言わずにいること。それ自体が、どうにも不自然だった。

不安を感じながら、俺はちらりと彼女に目を向けた。

すると、そこにいたのは、ホワイトボードに記された“同数”の文字をじっと見つめたまま、苦虫を噛み潰したような表情の暦だった。

 思わず息を呑む。

そう──俺は初めて見たのだ。あの神戸暦が、明確に「敵意」を含んだ感情を表に出している、その瞬間を。


「か、神戸さん……?」


 俺が言葉を失っていると、魚崎副会長が暦に声を掛けた。

すると、彼女はハッと我に返り、すぐにいつものような笑顔を浮かべた。


「ご、ごめんなさい……び、びっくりしちゃって……。で、でも、会長のおかげですね!」


 明るく、どこまでも可愛らしい声だった。

だが、その笑顔に俺は不穏さを覚えた。

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