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13話:始まりの前の静かさ

「緊張しているのは良いことだ」


かつて公務員として働いていた頃、何かと厳格だった上司に、繰り返しそう言われたことを思い出す。

曰く、近頃の若者は緊張感が欠けている、だから仕事にも身が入らないのだ──そう、まるで時代を嘆くかのように。


当時の俺は、その言葉をどこか皮肉交じりに受け止めながら、「いつか自分も、この言葉に共感する日が来るのだろうか」と、まるで遠い未来の可能性に問いかけるように、自問自答していた。


──そして、今。


ようやくその時が来たのかもしれない……と一瞬思いかけたが、次の瞬間に打ち消した。

いや、全く共感できない。心の底から、断言できる。緊張なんて、ただただ苦しいだけだ。


水曜日の午後。

天気は曇り。光の加減が鈍く、灰色の雲が空を覆っていた。そんな昼下がり、生徒たちは教師の指示に従って、列を成しながら体育館へと向かっていた。まるで何か儀式の始まりを予感させるように。


ぞろぞろと集まった生徒たちは、無機質な床の反響に包まれながら、それぞれの期待や不満、あるいはただの暇つぶしといった思惑を抱えながら、徐々に空間に熱を生み出していた。声のざわめき、足音、椅子の軋む音──それらが混ざり合い、体育館は次第に異様な空気へと変わっていく。


俺はというと、ステージ裏に設けられた簡素な待機スペースの一角で、金属の冷たいパイプ椅子に腰を下ろしていた。

周囲のざわつきが壁越しに伝わってくる。手のひらは湿っており、心臓の鼓動は喉元までせり上がってきているようだった。もうすぐ破裂するんじゃないかと錯覚するほど、ドクンドクンと嫌な音を立てていた。


昼休みに、一応のリハーサルはした。無人の体育館で段取りを確認し、声のトーンも何度か試してみた。

だが、今この瞬間の不安と緊張を、あの空っぽの空間で得られる予行でどう克服できたというのか。まったく、心細さは増すばかりだった。


そのとき、不意に背後から柔らかな声が響いた。


「やぁ、天戸」


振り返ると、そこには会長が立っていた。清潔感のある佇まいに、整った笑顔。まるで今から演説をするのが自分であるかのように、どこか余裕のある雰囲気だった。

彼は軽く俺の肩に手を置くと、明るく語りかけてくる。


「君とは知り合ってまだ間もないけれど……僕はね、君ならやれる気がするんだ」


一見すれば他愛もない励ましの言葉。だが、俺にはどうしてもそれが“他力本願”に聞こえてしまった。

──お前の中の俺、ずいぶん高性能じゃないか。そう皮肉を返したくなるが、彼の声には確かに奇妙な自信がこもっていた。まるで、何かを予見しているかのように。


「リハーサルの時にも言ったけど、挨拶とか進行は生徒会でやるし、今日の目的もこちらから説明する。君の役割は、あくまで“説得”だけだ。逆に言えば、それ以外のことはしなくていい」


俺は黙ったまま、無言で彼に視線を向けた。目を細めると、彼は茶化すように笑う。


「なんだよ、その顔は。……こういう場面こそ笑顔だって。君の顔、まるでこれから絞首台に上がる人間のようじゃないか」


──まさにその通りだ、と心の中で呟く。冗談じゃなく、今にも足元の床が抜け落ちそうな気分だった。


「摂津会長、そろそろ三年生が全員入りそうです」


そのとき、凛とした声が背後から届いた。


姿を見せたのは、副会長を務める魚崎 唯。2年生の女子だ。

肩にかかる程度の髪を、丁寧に三つ編みにして後ろで束ねている。制服の下には白いブラウスを着ており、この学校では珍しく整った装いだった。凛とした印象に加え、彼女からはどこか近寄りがたい冷静さが滲んでいた。


「ありがとう。じゃあ、僕は自分の準備があるから。後で会おう」


会長は軽やかにそう言い残し、背を向けて去っていった。

後に残されたのは、俺と魚崎副会長だけ。


「……あなたも、大変ね」


彼女は、会長が消えていった方向を見つめたまま、少し間をおいてぽつりと呟いた。


「そう思いますか?」


「ええ。まぁ……でも会長、なんだかすごく楽しそうだったわ」


「そうなんですか?」


「そうよ。あの人、意外とそういうの顔に出るから。でも私は……あなたに同情してるのよ。いきなりこんな大役を任されて、普通だったら逃げ出してもおかしくない。私があなただったら、今日ここには来ていなかったと思う」


「俺も、正直逃げたくて仕方なかったですよ」


「でも、来たじゃない。……そこは素直に評価してあげる。立派よ。じゃあ、私も行くから。手筈通りにお願いね」


そう言って、彼女もまた体育館の方へと歩き始めた。

だが、彼女は摂津会長とは違っていた。数歩進んだところでふと足を止め、こちらを振り返る。そして、ごくわずかに──けれど確かに、口元をほころばせて微笑んだ。


「頑張ってね。楽しみにしてるわ」


それは、彼女なりの激励だったのだろう。決して熱を帯びた言葉ではなかったが、その奥にある誠実な気持ちは伝わってきた。

遠回しなようでいて、確かに俺のことを評価してくれていた。思えば、生徒会のことなんて俺はろくに知らない。けれど会長が人を引きつけるタイプだということ、魚崎副会長がその裏で慎重に状況を見ているタイプだということは、なんとなく理解できた気がする。


彼女の言葉の端々から、会長が普段は“楽しそうではない”というニュアンスも読み取れた。

真相は分からないが……どこかで、彼女自身もこの舞台に小さな希望や期待をかけているように思えた。


まったく、自分でも呆れるほどだ。


「高く買われたもんだな……」


俺は誰に向けるでもなく、誰もいない灰色のステージ裏で、ぼんやりと埃の舞う空気に向かって、そう呟いた。



ついに、この瞬間が来てしまった。


待ちに待った、なんて言葉とは無縁の、できれば永遠に来なければよかったと思ってしまう瞬間。けれど、それは確実に、刻一刻と現実の一部として迫ってくる。


会長が、軽やかな足取りでステージに上がる。彼の動きは無駄がなく、どこか舞台慣れしている印象すら受ける。壇上に立った彼は、まず最初に一言、集まった生徒たちの時間を取ってしまったことへの謝辞を述べる。柔らかな口調、通る声、整った表情。聞き取りやすく、安心感を与える語り口に、場の空気はすぐに静まり返った。


続いて彼は、今回この場に生徒たちが集められた理由、その概要を簡潔に説明していく。要点は簡単明瞭、だが抑揚を忘れず、それでいてどこか落ち着き払った話しぶり。誰もが自然と耳を傾けていた。


淡々と、しかし確実に、このステージの進行は予定通り進んでいく。

ほんの少し前まで、自分もこの会長の背中を見送っていた。けれど、今は違う。

すぐそこまで、自分の“番”が迫っている。


たったそれだけの事実が、胸の奥で凶悪な形を取りながら、じわじわと胃を締め上げてくる。


この学校には、ざっと800人もの生徒が在籍している。

その全員が、今この体育館に集まり、壇上の様子を見つめている。自分の、たったひとつの言葉や仕草が、笑われるかもしれない。失望されるかもしれない。あらゆる可能性が頭を駆け巡り、喉の奥が乾いていく。


しかも彼らは、ライブやスポーツ観戦のような娯楽を求めてここに来たわけじゃない。明確な目的もなく、ただ集められた“観客”だ。その無数の視線が、これから壇上に立つ俺に向けられるのだ。


平常心でいられるほうが、おかしい。


「天戸くん!? 天戸くん!!」


突然、名前を呼ばれ、視界が揺れる。


「……へっ?」


間抜けな返事を漏らしてしまった。声をかけてくれたのは魚崎副会長だった。


「へっ?じゃないわよ! 出番よ、出番!」


会長の話はすでに終わっていた。彼が静かに頭を下げた瞬間、舞台のバトンは俺に手渡されていた。

思考の渦に呑まれていた俺は、情けない返事を魚崎副会長に返してしまった。


慌てて立ち上がろうとした瞬間、焦りすぎたせいで足元がもつれそうになる。椅子がガタンと鳴り、視界がわずかに揺れた。


「だ、大丈夫?」


魚崎副会長がすぐさま手を伸ばして俺の体を支えた。彼女は真面目で近寄りがたい印象があったが、今のその顔には、驚くほど優しい表情が浮かんでいた。心配そうに眉を寄せ、俺の顔を覗き込んでくるその瞳は、どこか母性的ですらある。


「……大丈夫です。緊張してるだけで……」


自分でもわかるくらい、声が震えていた。俺は必死で平静を装いながら、壇上へと歩み出そうとした。


だが、魚崎はそれを静かに制した。


「ちょっと、こっち向いて」


そう言うと、彼女はスカートのポケットから小さく折りたたまれた白いシルクのハンカチを取り出し、そっと俺の額に当てた。柔らかな布の感触と、ひんやりとした冷気が、熱を持ち始めた額を少しだけ鎮めてくれる。


「うん。ネクタイも曲がってないわね。よし」


「あ、ありがとうございます……」


俺は思わず呆けたように礼を言った。彼女のこういう一面を見るのは初めてだった。


「会長ね、職員会議で貴方のこと、ベタ褒めしてたわよ」


彼女は微笑みながら、まるで秘密を打ち明けるように小声で囁いた。


「だから、大丈夫。あなたなら、できる」


そして最後に、そっと背中を押された。

その手のひらから伝わる温もりに、わずかながら、背筋が伸びた気がした。


舞台の袖をくぐり、俺は壇上へと向かう。スポットライトのまばゆい光が顔に当たり、視界が真っ白になる。足元はどこか浮つき、音もなく動いている気がする。けれど、着実に前へ進んでいた。


広大な体育館には、静けさと緊張が充満していた。

生徒たちの多くが、突然現れた俺を見てざわめき出す。

無理もない。まだ入学して間もない、一年生の俺が、何の前触れもなく壇上に立ったのだ。驚き、困惑、ざわめき──あらゆる視線が、俺に突き刺さっていた。


ここまで来た以上、もう考えても仕方がない。


あとは、覚悟を決めるだけだ。


壇上の中心まで来た俺は、静かに一礼した。

深く頭を下げ、そして顔を上げた瞬間、目に飛び込んできたのは、まるで見世物小屋の観客のような無数の視線だった。


中には俺の顔を知っている者もいたのだろう、互いに顔を見合わせては驚きを共有していた。

ざわめきがゆっくりと収まり始めたその時、俺はマイクに手を伸ばし、話しやすい高さに調整した。


そして──言葉を、発しようとした。


……が、声が出ない。

まるで喉に鍵がかかってしまったかのように、空気だけが肺から出ていく。


原稿はある。手にも、頭にも。

それを読み上げるだけ。それだけのはずなのに、俺の口はまったく動かなかった。


胃の奥から、不快な熱と圧力がこみ上げてくる。

吐き気すら感じるほどの緊張。目の前が少し揺れたような気がした。


話せーー。

話せーー。


時間にして刹那だろう。

自身の中で何度もそう唱えた。

静寂が体育館を支配していた。


無音の体育館。生徒たちの視線。誰もが「何が起きたんだ」とでも言いたげに、ざわつき始めている。


今にも泣き出しそうだった。けれど、崩れてしまえば本当に終わる。俺は顔を引き締め、震える胸を押さえるようにして、深く呼吸を吸い込んだ。


ゆっくりと瞼を開け、無言の俺をじっと見つめ、どうしたんだ?と小さな声で会話する生徒たちを一瞥した。

その中で1人。俺の視線が留まった。

そこには俺と同じく今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、両手を神に祈るかように組む暦の姿が見えた。


何だよ、その顔。

思えば、入学式の時、暦はここに立って、新入生代表挨拶なんていうことをやってのけていた。

ああ見えて、暦は常識的な感性の持ち主だ。


ふと、俺の口元が緩んだ。マイクには拾われない程度の声で、小さく笑いが漏れた。


見てろよ、暦。


これは、お前を救うための初めの第一歩だ。

そして、俺はマイクに顔を向け──。

ついに、声を出した。

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