12話:参加の条件
さらに土日を跨ぎ、月曜日となった。
曇り空の下、学校の玄関を抜けた瞬間、俺は胸の奥がざわついた。週明けの学校特有のだるさに包まれながらも、心のどこかに期待があった。というのも、数日前に提出した「地域交流フェスタ」への参加提案について、生徒会長から連絡があったのだ。
そして今、再び生徒会室に呼び出されている。前回と同じ部屋、同じ机。
けれど、空気が少し違って感じられた。何かが動き出す、そんな予感があった。
生徒会室のドアをノックすると、中から低めの声が返ってくる。
「入ってくれ」
扉を開けると、会長が腕を組んで窓際に立っていた。朝日が差し込む逆光の中で、彼の整った顔立ちがより一層シャープに見える。瞳はいつものように冷静だが、その口元にはわずかに満足げな笑みが浮かんでいた。
「喜べ、天戸」
彼は言うなり、静かに歩み寄ってきた。
「学校側が地域交流フェスタへの参加を検討する運びとなった」
一瞬、言葉の意味が脳に浸透するまでに数秒かかった。けれど、それが理解できた途端、俺の心臓はドクンと跳ね上がった。
「ホ、ホントですか!?」
言葉が弾ける。咄嗟に声を荒げてしまった俺に、会長はくすりと口角を上げた。内心では全力でガッツポーズを取っていた。ようやく、ようやく扉が開いた。だが──。
「ただし、学校側から参加にあたり、条件が提示されている」
冷や水を浴びせられたような感覚が、背筋を走る。喜びかけた心が一瞬で現実に引き戻された。
「ぬか喜びをさせてしまったかもしれないな。すまない」
少し申し訳なさそうに眉を下げる会長。その表情は、冷徹な判断者というより、一人の先輩としての気遣いが滲んでいた。
「正直、最初はかなり厳しい反応だったんだ。だが、君の熱意、それに提出された企画書はどれも誠実で、説得力があった。だから、僕も可能な限り尽力した。これは、君の行動の結果だよ」
「いえ……会長には、本当に感謝しています」
俺は素直に頭を下げた。心から、そう思った。あのとき、彼が話を聞いてくれなかったら、すべては始まらなかった。
「よ、よせよ。僕はただ、生徒会長として自分の責務を果たしたまでだ。それにね……少しは自分の任期中に“結果”を残したいとも思ったんだよ」
照れ隠しのように笑う会長の姿に、ほんの少し距離が縮まったように感じた。
「それで……条件、というのは?」
俺は本題を促す。ここからが勝負だ。条件次第では、事態はまた振り出しに戻る可能性だってある。
会長は真顔に戻り、机の前に立ったまま静かに説明を始めた。
「まず第一に、参加する以上、各学年からブースを運営する生徒を選出しなければならない。学年横断的な協力体制が必要というのが学校側の意見だ。これは理解できるだろう?」
「はい、もちろんです」
俺は頷いた。確かに、企画の発起人が1年生の俺一人というだけでは、組織的な活動にはならない。学年を越えて協力を得る必要があるのは明白だった。
「次に、フェスタの運営本部への参加が可能か確認したが、それは問題なかった。まだ空きがあるらしい。正式な申請を出せば、当校も間に合う」
心の中で安堵の息をつく。もしそれが不可能だったら、この数日間の努力はすべて水の泡になるところだった。
「それから、開催日だが……もともとはゴールデンウィーク中に予定されていたが、日程が変更され、後ろ倒しになったようだ」
「後ろ倒し?」
「うん。どうやら、他の参加校からの要望で調整が入ったようでね。当初、うちは不参加予定だったから、正式な日程通知が来ていなかったようだが、新しい開催日は、5月15日の日曜日。ゴールデンウィーク明けになる」
なるほど、それはむしろ好都合だった。以前のスケジュールでは準備期間がわずか2週間ほどしかなく、頭を抱えていたのだ。1ヶ月の猶予ができたことで、実行プランに深みを持たせることができる。
だが、会長の口調がここで重たくなる。静かな沈黙の後、彼は言った。
「そして、これが最後の条件になるが……」
彼の目がまっすぐ俺を見据える。静かな緊張感が、部屋の空気を張り詰めさせた。
「生徒会役員と執行部を除く全校生徒から参加の意思を過半数の支持として得てほしい。これが、学校側の最終的な“承認条件”だ」
その瞬間、俺の中で時間が止まった。
背中に汗が伝い、手のひらがじっとりと湿る。何を言われたのか、理解するのに時間がかかった。
「……は? それって……」
言葉が詰まる俺をよそに、会長は間をおかず淡々と続ける。
「そのために、君には“全校生徒の前で演説”をしてもらう。つまり、正式な場でのプレゼンだ」
「えっ……!? そ、それ本気ですか!?」
俺の声はかすれ、動揺が隠しきれなかった。だが、会長の視線は真剣そのものだった。
「冗談でこんなことは言わない。水曜日の6時間目、この学校では全クラス総合学習の時間だ。その枠を使い、全校生徒を体育館に集める手筈を整えている。そこで君が地域フェスタの意義と参加の価値を全校に向けて話す。その後、生徒にはアンケートを実施する。過半数の支持が得られれば、学校として正式参加が決定となる」
つまり、これは最後の戦いだ。学校側は、生徒の意思という形を盾に責任を分散させるつもりだ。それでも……チャンスはチャンスだ。
「……分かりました。やります。だけど……そのプレゼン、いつ……?」
数百人の前で自分の意見を述べるなど、正直言ってかなりハードルが高い。
鼓動がみるみる増していくの感じる。
俺の問いに、会長は急に視線を逸らし、どこか申し訳なさそうに口ごもった。
「……えっと、その……次の水曜。つまり、明後日だ」
時が止まった。心臓の鼓動が耳に響く。
明後日。猶予はたったの二日。
それでも俺は、ゆっくりと頷いた。
ここで逃げるわけにいかないのだ。
*
放課後の中庭には、夕陽に溶けていく柔らかな風が流れていた。
生徒たちの喧騒が徐々に遠ざかり、校舎の影が地面に伸びてゆく。そんな静けさの中、俺は木製のベンチに腰を下ろし、重く深いため息を吐いた。肺の奥に溜まっていた黒煙のような憂鬱が、口元からゆっくりと漏れ出していく。
「……まったく、気が重い」
思わず、そう呟いた。自分でも驚くほど低くて、疲れ切った声だった。
今朝、生徒会長から提示された「地域交流フェスタ」参加に関する条件。
それが頭の中で何度もリフレインしている。気づけば一日中、そのことばかりを考えていた。教室に戻ってからの授業など、ほとんど記憶に残っていない。板書を写したノートのページも、どこか上の空だった。
ぼんやりと見上げた先には、春を終えかけた桜の木々がそよ風に揺れていた。花びらはすでにその大半を散らし、枝先には新緑が芽吹き始めている。移ろう季節の輪郭が、余計に焦りを強調する。
「流石に時間がなさすぎるだろ……」
天を仰ぎ、独り言をこぼす。目に映るのは、これでもかというほどの快晴だった。
雲は1つも見えない天蓋から紫外線という名の凶器を、惜しみなく振り注いでいた。これでは俺のような有機生命体など、ひとたまりもない。
俺はただ、思考を整理したくて静かな場所を探して中庭まで来たというのに、この日差しは明らかに選択ミスだった。額にはじわじわと汗がにじみ、シャツの背がうっすらと湿っていく。
だがこの汗は、果たして気温のせいなのか。それとも、演説という未知の任務へのプレッシャーから来る焦燥なのか。
自分でも、もう判別がつかなくなっていた。
「……ずっと思い悩んでいましたね」
ふいに背後から聞こえてきたのは、暦の落ち着いた声だった。
その声は不思議と温かく、心にじんわりと染み込むような響きだった。俺は空を仰いだまま、彼女に返す。
「まぁな。流石に……時間がなさすぎるからな」
その言葉に、暦は何も言わず、俺の隣へと静かに腰を下ろした。木のベンチがわずかにきしむ音が、風に紛れて消える。
彼女の髪がそよ風に揺れ、ほのかに甘い香りが鼻をかすめた。柔らかく温かな安心する匂い。緊張で縮こまっていた俺の心が、ほんの少しだけ解けた気がした。
「俺はさ、どこかの総統でもなんでもないんだ。演説で大衆を煽動するなんて芸当、出来るのか……って、冷たっ!?」
暦の『えいっ!』と言った可愛らしい掛け声と共に、ぼやく俺の頬に冷たいしっとりとした何かが押し付けられた。
俺は慌てて、それを手に取り見るとヨーグルト風味のパックジュースだ。これは購買横の自販機を彩るラインナップの一つであり、生徒の間からも一定の人気がある。そのためかちょくちょく売り切れの赤い文字を点灯させる。
「差し上げます」
暦は桃色の唇を少し尖らせ、自身の手に持っていたミルクコーヒーと書かれた茶色のパッケージをした容器にストローをやや雑な仕草で突き立てた。
「ありがとう」
俺も礼を言い、ジュースにストローを挿し、冷えた飲み物を一口、口に含む。舌に広がるのは、ほんのり甘酸っぱい優しい味わい。喉に流れ落ちるそれは、火照った身体を少しだけ癒やしてくれた。
「紅茶じゃないんだな?」
軽い冗談のつもりで尋ねると、彼女はきっぱりと即答した。
「さもありなんです」
俺の問いに彼女はきっぱりと言った。
何が当然なんだ?
今さらだが、彼女の口癖だと思われるこの『さもありなん』とは当然とか、間違いないとかそういう意味合いの古語だ。
俺がそんなことを考えていると、不満げな表情を浮かべつつ、彼女は語る。
「最初は試しに買って飲んでみました。けれど、あれは何ですか。あの、砂糖水は!」
彼女はぷいと俺に顔を向け、怒りを宿した青い瞳でぐいっと睨んでくる。あまりの迫力に、思わずのけぞりそうになった。
「紅茶と名乗っているくせに、茶葉の香りも風味も消え失せて……ミルクと砂糖で全てを台無しにしているのですよ? もはや紅茶とは呼べません。全く理解に苦しみます」
怒りのあまり、手にしたパックが今にも破裂しそうな勢いで握りしめられていた。俺は内心、彼女の紅茶へのこだわりを改めて実感する。
「私はですね、あのような水溶液に、紅茶という文化的かつ深淵な嗜好品の名を冠した輩に、鉄槌を下したいのです!」
「……コーヒーはいいんだ?」
なんとなく意地悪な気持ちでそう尋ねてみた。暦はムッとした顔のまま、無言でミルクコーヒーのパックを俺の方へ突き出してくる。
「え……?」
「喫してみてください」
どこか挑戦的なその声に、俺は内心焦った。ミルクコーヒーは好きだ。甘くてやさしい味が、ブラックよりも疲れを癒してくれる。でも今、俺が戸惑っている理由はそこじゃない。
彼女がさっきまで口をつけていた、そのストロー。
つまりそれは、今から俺が口をつけるということだ。……そういうことだ。
「どうしました? わたしのミーコーが飲めないとでも?」
どこか不機嫌そうな、でもどこか期待しているようなその声に、俺はつい視線を泳がせてしまう。まるでお酒を無理やり勧めてくる酔った上司のような圧だ。観念して、そっとストローに唇を寄せる。
ひんやりとした冷たさを残すそれは甘く、後になり少しずつコーヒーの苦味を演出する。
嚥下し、食道を下っていく冷たい液体の感触。
いつもなら気にもしないこの感覚が今は妙に鋭敏に感じられた。
「どうですか?」
「う、美味いが?」
俺の曖昧な返答に、暦はフンと鼻を鳴らした。
「全く、分かっていませんね。これも泥水もしくはそれに準ずる水溶液の一種です。ですが、紅茶ほどコーヒーには私はうるさくないので、まぁ……許容範囲です」
言いながら、彼女は再び自分のミルクコーヒーにストローを咥えようとしたが、口の手前で動きを止めた。
ピタリと静止する暦。数秒の間、そのまま固まり……。そして次第に顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。
わなわなと震える肩。どうやら、さっき俺が口をつけたストローの存在に、今になって気づいたようだ。紅茶とコーヒーの議論に夢中で、すっかり忘れていたらしい。
「こ、暦……?」
思わず心配になって声をかけると、彼女は羞恥に染まりながら、必死に強がるような声を張り上げた。
「う、うるさいですねっ! な、なんでもありませんから!」
そう言い放つと、彼女は勢いよくストローを咥え、そのまま残りのミルクコーヒーを一気に飲み干した。
その姿は、羞恥心という敵を、気合いだけでねじ伏せたようだった。
よく他県の人間は神影市民はプライドの塊だと揶揄する。
まさしくその精神性を体現したかのような彼女の行動に俺は内心で称賛を送る。
「まったく……湊さんには、なんというか……いつも調子を崩されてばかりです」
ミルクコーヒーを一気に飲み干した暦は、紙パックをそっと両手で包むように持ち直すと、未だに顔にわずかに残る紅潮を隠すように、かすかな咳払いを一つ。その声音はどこか照れくささを滲ませており、言葉の語尾が少しだけ震えていた。
「俺のせいかよ……」
呆れたように返すと、彼女はすぐに言い返した。
「そうですよ、全く。困った人です、あなたは」
言葉とは裏腹に、暦は澄ました表情を無理やり作っているようだった。どこかぎこちなく、完璧に装うには若干ほころびがある。そのわずかな揺らぎが、むしろ彼女の可愛らしさを引き立てていた。
俺は彼女の横顔をちらりと見やりながら、ふと視線を上へと向けた。
午後の陽射しが斜めに差し込む校舎の3階、空き教室の窓辺に、ひときわ細やかな動きでサックスを演奏している少女の姿があった。
窓越しに映るのは、三宮沙羽。
彼女はまるで音そのものに心を預けるように、真剣な面持ちで唇をリードに添えている。俺の視線に気づいたのか、わずかに身体を揺らしながら、唇を離さず片手をこちらに振ってみせた。笑顔はなかったが、そのしぐさはどこか温かかった。
「案外、あいつも練習熱心なんだな」
俺がぽつりと呟くと、すぐ隣から静かな声が返ってきた。
「沙羽さんは、とても良い方です。そして、とても努力家です」
その言葉に少し驚きつつ、俺は小さく眉を動かした。
「随分と三宮を評価してるんだな」
「ええ、よくお話もしますし。放課後にはメールのやり取りもしていますよ」
「仲良くなったんだな。意外だったよ」
本当に、意外だった。俺と暦は常に一緒に行動しているようなものだが、電話やメールといったやりとりは、ほとんどしていなかった。それは関係が浅いからではなく、言葉を使わずともわかる距離感でいたからだ。だからこそ、暦が沙羽と積極的に交流しているのは少し不思議に感じた。
「ふふっ。お友達ですよ。この前も一緒にお出かけしたんです」
暦は嬉しそうに、少し肩を揺らして笑った。
「マジかよ?」
「マジです。アニメ映画を観ました。あの子どもになった名探偵が、豪華客船で事件を解決するお話です」
懐かしいなと思った。
そのアニメ、20年後でも新作映画が出ているぞ。
「久しぶりに映画館へ行きました。最後に観たのはそうですね、キネトスコープで見たのが最後でしたから」
「キネトスコープってなんだよ……」
「19世紀末、ある武器商人が神影市に持ち込んだ、原始的な無声映画の再生機です」
暦の口から出てくる言葉は字の如く時代を平気で越えてくる。
流石にもう驚かない。
「あの頃は、本当に感動しました。箱の中で、人が動いているんですよ」
少し遠い記憶を懐かしむように、彼女は優しく言葉を綴った。その声音には、過去への哀愁と、今への慈しみが滲んでいた。
その視線は再び、サックスを吹く沙羽の方へと向けられた。窓越しにまだこちらを見ていた彼女に、暦は手を振る。小さく、しかし確かな想いを込めて。
「……わたしは、今が好きです。湊さんがいて、沙羽さんがいて、晴人さんもいて。そんな今が、とても愛しい」
ふと吹き抜けた風が、まるで彼女の言葉を運ぶかのように中庭を通り過ぎていった。
日差しの届かない空気が肌に触れたとき、どこか寂しさを感じたのは俺の心のせいだろうか。それとも、暦の奥に秘められた静かな孤独が、風に乗って伝わったのだろうか。
「演説は……きっと、大変だと思います」
彼女は穏やかに言った。
「多くの人は、あなたの話に耳を傾けようとしないでしょう。強制的に集められた観客なら、なおさらです」
その言葉には、慰めでも励ましでもない、冷静な現実認識が込められていた。それでも、暦は俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
俺が視線を返すと、彼女の青い瞳に、今にも崩れそうな自分の情けない顔が映っていた。
「でも、前にも言いましたよね。初めから上手くいくことなんて滅多にありません。でも誰かは、必ず見てくれています」
「……だと、いいけどな」
弱々しい声でそう返した俺に、彼女は優しく微笑んだ。その笑みは、太陽のように明るくはなかった。けれど、確かに心に灯る灯火のような、静かで温かい輝きを持っていた。
「大丈夫です。湊さんが感じたこと、思ったこと、やりたいことそれを、言葉にしてくれればそれでいいんです」
俺のために、こんなにもまっすぐに言葉を紡ぐ彼女こそ、本当は一番苦しい立場にいる。自分の存在が、未来がかかっているというのに……それでも、彼女は笑う。
なぜ、こんな優しい奴が都市星霊なんてやっているんだ。
そう思った瞬間、いや、違う。
優しいからこそ、都市星霊なんだ。
この神影市という街の心が、彼女という人格を形作ったのなら俺はこの街を、そして彼女を、何があっても守ってやりたいと思った。
「……ふっ。ありがとう」
鼻を鳴らして、少しだけ目を伏せた。
暦はそれに答えるようにゆっくりと立ち上がり、一歩、二歩と歩いたのち、振り返る。
そして静かに、けれど確かに言った。
「もし失敗しても、大丈夫です」
風に揺れる彼女の髪が、夕暮れの光にきらめいた。
「あなたのことは、ずっと……この神戸暦が、見ていますから」