9話:災害の傷跡
毎日投稿が目標ですが、物語が進むつれて
色々と整合性を考慮し始めて筆が遅くなってきました...
ぜひ初めての方は最初から読んでくれると嬉しいです。
確率というものがある。
現代の人間、特に令和を生きる若者たちは、この「確率」という言葉をやたらと多用する。
スマホゲームに始まり、コンビニのくじ引き、果ては人間関係や恋愛にまで「確率」が持ち出される。
まるで万物に統計学を適用しなければ気が済まない世界だ。確率で世界が回っているとでも言わんばかりに。
だが、俺はその確率というやつに、今まさに弄ばれている。
平成のこの時代に、タイムリープという非現実に巻き込まれた今も、なお。
春。
やわらかな日差しが降り注ぎ、草木が青々と芽吹いている。気温も暖かく、風は穏やかで、眠気を誘うほどの心地よさだ。
そんな春の日、俺は神影市の中心街の生元エリアにある大きな公園のベンチにクラスメイト共々集結していた。
周囲には花壇が咲き誇り、幼稚園のお散歩中の子どもたちの笑い声と小鳥のさえずりが響いている。
パンジーやチューリップが咲き乱れるここは、まさに春真っ盛りの光景だった。
「いや〜、マジでびっくりしたよね! ねぇ、桂木くん!」
「それな!予想外すぎて笑っちまったわ!」
晴人と沙羽が声を揃えてケラケラと笑っている。まるで昼休みのテンションがそのまま校外に延長されているようなノリだ。
「わたしも、本当に驚きました。でも……すごく嬉しいです」
暦も微笑を浮かべ、軽やかに言葉を重ねる。柔らかな声に合わせて、金色の髪が陽光を受けてきらめく。
「ほんっと、暦ちゃんは今日もお人形さんみたいで可愛い〜!天使だよ、マジで!」
「ふふ、ありがとうございます♪」
沙羽はたまらず暦に抱きつき、その髪をわしゃわしゃと撫で回している。まるで高級犬種にご執心なセレブのような所作だった。
……この状況を簡単に説明すると、数日前に遡る。
*
あの日、ホームルームが始まると同時に、我らが担任・倉敷洋子が教室のドアを蹴破る勢いで現れた。
「は〜い!レディース・アーンド・ジェントルメーン!!」
その声はどこかの夢の国の入場アナウンスのようであり、いや、むしろ夢というより悪夢に近い。
踊るように教卓に向かう彼女の手には、またしてもあの悪名高い「クラシキー式抽選BOX」がぶら下がっていた。何度見てもそのセンスには恐れ入る。
金や銀の折り紙、ハート型のビーズ、謎のリボンに謎の羽。それが蛍光灯の光をギラギラと反射し、教室中の視神経を刺激してくる。
今だけあの部分だけに都合よく視神経乳頭が出来ないものか。
以前、彼女から教員の残業時間が長いという愚痴のような話を聞いたが、こと彼女の残業はあの箱を制作する時間に当てられているのかもしれない。
もしそうなら、それは自業自得というものであろう。
『はいは〜い、リッスン〜』
これから何が始まるのかと期待と不安で満ち、ざわめきで響めく教室は彼女の言葉で束の間の静寂を得る。
『知っている人もいるかもですが〜街中探索オリエンテーションがありま〜す!』
その言葉で俺はそんなものもあったなと記憶の隅を突いた。
彼女曰く、連絡用のプリント配布で通達はあったらしいが、そんなもの碌に読まず今日まで再びの学園ライフを満喫していた俺は、今になりそのことをようやく認識するに至る。
要するに、これは神影市の町を散策して、「自分たちの住む街をもっと知ろう」という教育的催しである。
入学からしばらく経ち、クラス内の人間関係も温まってきた頃に開催される交流会のようなものだと思って差し支えないだろう。
『一応言っておくが〜遊びじゃないかんな〜!終わった後、どこに行って、どんなことを感じたのか。レポートの提出あるかんな〜』
そういう倉敷先生の言葉にクラス中から不満の声が上がる。学業の単元である総合の時間の一環である以上、後日のレポート提出はいささか仕方がないことだとは理解できるが、面倒だと感じるのは共感できる。
令和の時代ならAIに書かせて、速攻で終わることだが、いかんせんこの時代にはそんな便利なものはないため、どうしても宿題という形式で自主的に時間を作り、制作する必要が出てくる。
「それじゃ、誰と回るかは〜……ランダムマッチじゃぁあああ!!!」
ドン!と教卓の上に箱が叩きつけられ、運命のくじ引きが始まった──。
*
そして現在に至る。
くじ引きの結果、俺、晴人、沙羽、そして暦の4人が同じグループになった。
……あまりにも予想通りのメンツだ。
少し数学の時間だ。
クラスは全部で36人。全部で9チームを作る。その中からこの4人がピンポイントに選ばれる確率はどのくらいでしょうか。直感的に確率はそれほど高くないようにも思える。
ざっと計算して約0.015%となる。
そして、席替えの時といい、妙に似たような組み合わせが続いてる。普通に考えて、偏りすぎだろう。
それこそ全体的に見て、天文学的数値だ。
あまりにも出来すぎな結果に俺の心の中の警告ランプがチカチカと赤く点滅する。
なぜそんな確率計算ができるのかって?
タイムリープ前、公務員試験の勉強で死ぬほどこういう勉強をしたんだ。数的処理とかいうヤツだ。まさかこんな形で活用するとは思わなかったが。
ともあれ、こうして不思議なチーム編成でのオリエンテーションが始まったわけだ。
「さてと!どこ行こっかー!」
沙羽が片手を空に掲げ、元気いっぱいに言う。脳内には間違いなくファンファーレが流れているに違いない。
「まあ、適当に歩いて、それっぽいとこでメモって終わらせればいいっしょ〜」
晴人はややテンション低め。レポート作成というワードだけで彼のやる気ゲージがマイナス方向に傾いているのがわかる。
そんな中、暦がふわりと手を上げて一言。
「それなら、わたしがご案内しましょうか?」
「お?マジで?頼りになるぅ〜」
晴人が食いつくように暦を見る。意外とこういう時、彼は素直に他人に頼るタイプだ。
「お任せください。こう見えて、神影市のことなら結構詳しいんです」
「暦ちゃん、ガイドブックより頼もしい〜!こりゃおんぶに抱っこに肩車だ!」
沙羽はさらに暦にぴったりくっつき、テンションマックス。
「……湊さんは、どうでしょうか?」
暦がこちらに静かに問いかけてくる。
「ああ、構わない。暦に任せる」
暦は神影市の正真正銘の擬人化少女だ。教師ウケしそうな場所も、穴場スポットも網羅しているに違いない。ここは黙って彼女に任せるのが最適解だ。
こうして、我々4人は暦を先頭に、ゆるやかな春風のなか、探索の旅へと踏み出した。
*
暦が導く最初の目的地は、駅前の喧騒を抜けた先に広がる、神影市でも特異な雰囲気を持つ一角──外国人街だった。
路地の入り口から一歩足を踏み入れるだけで、空気ががらりと変わる。
どこかエキゾチックな香辛料の匂いが風に乗って漂い、頭上には異国語の看板が並ぶ。
中華、東南アジア、アラブ、欧州……あらゆる文化がごちゃまぜに溶け合った、独特な混沌がそこにはあった。
かつて、開国の時代から動乱の時代を超え、現代まで続くここはさながら映画のワンシーンのような場所だ。
「改めて来ると、カオスよね、ここ」
沙羽が周りをキョロキョロと見回す。
主に観光客が訪れるエリアであり、俺たちのような現地人はあまり足を伸ばさない場所である。
逆に新鮮味を感じてしまう。
「なるほど、外国人街か。確かに、街の歴史を紹介するならベタで王道……」
俺は内心、暦のセンスに軽く感心していた。真新しいさはないが、街の歴史的にも考えて教師ウケは抜群だろう。何より説明がしやすい。王道には王道たる理由がある。
……と思っていたその時。
「ここです」
暦が唐突に立ち止まり、古びた中華風の店先を指差した。看板には肉まんを誇るうたい文句が刻まれている。
彼女は迷いなくその店に入り、黙々と肉まんを4つ購入。袋を提げて出てくると、何の前触れもなく俺たちにそれを配ってきた。
何も言わずに食べてみろとばかりに視線を向ける彼女。俺たちは促されるまま、肉まんを口に運んだ。
しっとりとした生地はほのかに甘く、溢れる肉汁と共に姿を現す餡はスパイスのアクセントの効いた非常に美味なものだ。
「美味しいっ!」
沙羽は目を輝かせながら、肉まんを頬張っている。
「だな!」
それに同調する晴人。
「この肉まんは、戦前から続く味なんです」
暦がそっと語り出す。
「移民が多く集まる神影で初めて中華食堂を開いた家系で、今のご主人は三代目。原材料から調味料まで、創業当時とほとんど変わらず受け継がれているそうです。神影の街には数多の肉まん屋さんがありますが、ここの味を原点としています」
語りながら、彼女もぱくりと一口。ふわっと頬を緩ませ、目を細めた。
「……ふふっ、やっぱり美味しいですね」
俺は黙って口に運ぶ。
正直、文句のつけようがなかった。
*
次に暦が案内したのは、人通りの多いアーケード街を抜けた先、有名なブランドの路面店が立ち並ぶ通り。そこの裏路地の奥にひっそりと佇む小さな洋菓子店だった。建物は白いタイル張りで、丸いガラスのドアに金の文字でフランス語で店名が書かれていた。
「ここ知ってるわよ!」
店の前に立った沙羽が嬉しそうに言った。
「知ってるのか?」
俺が尋ねると、彼女は笑顔を浮かべて頷いた。
「もちろん!″Hの裏″でしょ?」
「なんだ、その隠語みたいなのは」
沙羽曰く、それなりに有名な店らしく立地が丁度、Hから始まるフランスのエレガントな革製品が有名なハイブランドの路面店の裏に位置するため、そう呼ばれているらしい。何とも悲劇的な愛称か。
「お待たせしました」
そうしているといつの間にか洋菓子店でシュークリームを購入してきた暦が袋を抱えて出てきた。
そして、肉まんの時と同じくようにそれを俺たちに配り出す。
再び渡された食べ物を手に、沙羽と晴人は喜々としてかぶりつく。
「んんっ!!やばっ、クリームとろっっっ!!」
「生地サックサクで、クリーム冷えてる!……このコントラストが最高!!」
などと食レポをかましている。
そんな2人を尻目に俺はシュークリームを口に運ぼうとする暦に言った。
「食いもんばっかじゃねぇーか!?」
「何を言いますか!?外国の温かいファストフード、洋菓子は神影市の文化であり、魂ですっ!この後はわたしオススメの洋食屋さんに行きますよ!特にあそこは開店前から並ばないと大変なことになるので、スケジュール管理は大切です!」
どこからか取り出した眼鏡をわざわざ掛け、何も書かれていないメモ帳を片手に暦は眼鏡の縁を指て軽く持ち上げる。
「おめーは俺たちに食レポでも書かせる気か!?」
俺は声を荒げ、彼女に思いもよらぬツッコミを披露してしまう。
そんな彼女は俺に優しく聖母のような表情を浮かべる。
「いいですね、食とは文化です」
「物は言いようってか!?うぐっ!?」
「うるさいですねぇ……」
暦は若干ヒートアップしつつある俺の口を手に持っていたシュークリームで塞いだ。
生地から溢れるカスタードクリームは濃厚で甘く、生地の香ばしさと合わさり、非常に美味だった。
*
時刻は昼下がり。太陽は真上を少し過ぎたところで、白く眩しい光が街を優しく照らしていた。
空はどこまでも澄んで高く、風は乾いていた。
俺たちは、とある公園の木陰に腰を下ろしていた。舗装された園路と芝生の境には、小さな野草が咲き誇り、どこからか子どもの笑い声が風に乗って届く。
結局、暦の提案していた洋食屋に行く計画は中止となった。
理由は単純で、俺も含めた全員が昼食を持参していたからだ。弁当を膝に広げる俺たちを見た暦の顔には、露骨にショックが浮かんでいた。目を丸くし、一瞬口を開いたまま固まるその様子は、言葉こそ出なかったものの「なんで教えてくれなかったんですか……?」と全力で語っていた。
仕方なく、彼女は近くのパン屋で買ったサンライズを一つ手に取り、無言で頬張っていた。
その表情はどこかむくれていて、時おりこちらに鋭い視線を向けてくる。
……いや、これ、俺が悪いのか?
パンの端をかじったまま、頬をふくらませた彼女の視線に耐えきれず、俺はそっと目を逸らした。
やがて昼食が終わると、俺たちは再び立ち上がり、足を伸ばして「ポートパーク」と呼ばれる港湾エリアへ向かった。
この場所は市の南側に位置し、観光地として整備されたエリアだ。海風が通り抜ける広い敷地には、カフェや遊歩道、展望台などが点在していて、潮の香りが漂ってくる。
午前中は、正直なところあまりレポートに使えそうな成果はなかった。
さすがにそれでは不味いという話になり、ここで俺たちは二手に分かれて、テーマになりそうなネタを探すことになった。
「さてと、どうしましょうか?」
晴人と沙羽が仲良く並んで歩いていくのを見送りながら、暦が俺に声をかけてきた。
彼女の髪が海風にさらわれ、陽光を受けて細かく揺れる。長いまつげの奥の瞳は、どこか浮かない表情をしていた。
「まぁ、正直、適当に後でネタくらい捻り出せるだろ」
俺は無責任にもそう言って、海辺に置かれた石製のベンチに腰を下ろした。
硬いが、ほどよく冷たくて気持ちがいい。背もたれがないのは不満だが、ゆるやかな潮の香りを含んだ風が顔を撫でる感触は心地良かった。
視線の先には、湾を囲うように広がる海と、対岸に建つ高層ホテルのガラス窓が、日差しを反射してきらきらと輝いていた。
そのすぐ脇には、街の象徴とも言える真紅のタワーが空に向かってそびえ立っている。
ああいう港の塔って、何でか赤いものが多い気がする。記憶では福岡県にある博多タワーも赤だった気がするな……などと、ぼんやりと思った。
「楽しかったです」
隣に腰掛けた暦が、ふとぽつりと呟いた。
風に揺れる自分の髪を指でそっとつまみ、それを弄びながら、遠くを見つめるような目をしている。
「そうか……」
「はい」
暦の言葉には少しだけ寂しさをという感情が混じっているように感じられた。
彼女のような存在は滅多なことでは、今のような実体を持って人と関わりは持たないと言っていた。
きっと彼女は孤独だったんだ。
街に浸透する意識として、人々の暮らしをただ俯瞰してきた彼女にとって、晴人や沙羽、それに俺といった生の人間と触れ合う感触は決して口にしない彼女の寂しさに染み渡っているんだと俺は感じた。
「どうした?」
暦の声がしたかと思うと、彼女の視線がふとどこかへ向いた。
俺もそちらに目を向ける。
彼女がじっと見つめている先は、遊歩道から少し外れた海沿いの一角。何かが、ある。
「行ってみるか──」
俺は立ち上がり、彼女と共にゆっくり歩を進めた。
足元には砕けた石や、風に巻き上げられた砂が散らばっていて、踏みしめるたびにザクザクと音がした。
目的の場所はすぐそこだった。
傾いた街灯、割れてひびの入ったコンクリート。
そこに打ち寄せる波が、静かに、そして確かに、傷跡を洗うように引いては戻っていた。
それは10年前に神影市を襲った『神影大震災』の痕跡。自然の猛威がもたらした破壊の証であり、あえて残された震災遺構だった。
あの日を境に、神影市は一度その機能の多くを失った。
特にこの港は壊滅的な打撃を受け、長らく船の往来は止まったままだった。
今でこそ再建が進み、少しずつ賑わいを取り戻してはいるが、震災以前の活気には遠く及ばない。
多くの企業が隣県へと拠点を移し、戻ってこなかった現実がそこにある。
「暦──?」
ふと隣を見ると、暦が震災遺構を見つめながら、どこか儚げな表情を浮かべていた。
そのとき、不意に胸の奥が疼いた。
言葉にできない記憶の断片が、心の底からじわりと浮かび上がるそんな感覚だった。
『絶対に貴方を見捨てたりはしないっ!約束なんですっ!』
誰かの声。確かに、そう言われた気がした。
頭の奥が締めつけられるように痛み、俺は思わず足を止める。
「湊さん?」
暦の声がすぐそばから聞こえた。現実に引き戻される。
「な、何でもない」
「大丈夫ですか?顔色が優れませんよ?」
心配そうに覗き込んでくる彼女の顔が、近い。
俺は慌てて視線を逸らした。
「だ、大丈夫だ……」
そんな俺を見て、暦は小さく首を傾げる。
「それならいいんですが……」
話題を変えようと、俺は口を開いた。
「や、やっぱり震災のときも暦はいたんだよな?」
聞く必要もない当たり前の話題だったが、今の俺の脳ではこれくらいの話題を振り絞るのが精一杯だった。
「さもありなんです。今でも思い出しますよ。戦火から復興した街がたった1日で壊滅し、灰燼と化す様子はわたしの無力さを痛感しました」
彼女は小さく苦笑しながら、鉄でできた柵にそっと手を置いた。
「湊さんも被災されてますから、大変でしたよね」
そう言って、彼女は俺に向き直った。
「ああ……」
当時俺は5歳か。タイムリープで35年分の記憶を持っているせいか、それとも幼かったからか、俺にはあまり当時の記憶がない。
ただ人がひしめく避難所で目覚めたことくらいしか覚えていない。
彼女にあの頃の話を聞いてみようかとも思ったが辛い記憶だろう。
彼女が自分から語らない限り、無理に聞くべきじゃない。
そう思っていたら、暦がふっと笑った。
「何があったか教えてくれって顔してますよ?」
「すまない、あまりよく覚えていないんだ」
「仕方ありません。当時の湊さん5歳ですしね。漠然とこうだったという記憶しかないのは当然です」
柔らかく、包み込むような口調だった。
その声音は、確かに俺の心にまで届く温かさを持っていた。
「震災の光景は、戦火の後にも似ていました。誰もが恐怖に叫び、助けを求めていたんです。けれど、ひとつだけ違っていたのは……誰も、希望だけは失わなかったということです。その希望が、街を復興させたんですよ」
でも暦の声には、どこか寂しさが滲んでいた。
「不思議ですよね。あれだけ互いを支え合って、前を向いて生きていたのに……時が経てば、少しずつ街も人も、静かに衰えていってしまう。湊さんの時代には衰退しきりました」
「そうだな」
俺は呟いた。そして、風の中でぽつりと語り出す。
「震災があったことは、記録としては残っている。でも、それを“本当に知ってる”人間はいずれいなくなる。知らない世代が大人になって、知らないままに街を受け継いでいく」
俺はそこで一度言葉を切り、空を見上げた。
「“忘れちゃいけない”って、よく言われる。でも結局、人は今を生きる。明日の生活、目の前の現実、それを優先するんだ。だから過去は風化していく。それが、人間ってもんだよな」
皮肉なことだと思った。震災遺構——記憶を残すための場所で、俺はその“忘れられていく過去”について語っている。
「でも……俺はそれを、悪いことだとは思わない」
潮の匂いを運ぶ風が吹いた。
「過去を抱いて生きる人もいれば、未来だけを見つめて生きる人もいる。どっちが正しいとかじゃない。それぞれの“生き方”があるから、今のこの瞬間が成り立ってるんだと思う。どれも必要で、どれも尊い」
言い終えたとき、暦はしばらく黙っていた。
そしてふいに、ふわりと笑った。
「あははっ、湊さんらしいお言葉ですね」
「……なんだよ、それ」
「いい意味ですよ。綺麗事だけじゃない、現実をちゃんと見てるあなたの考えが……素敵だと思ったんです」
そう言って、暦は風に髪を揺らしながら、真っ直ぐこちらを見つめた。
その瞳に見られていることが気恥ずかしくて、俺はつい目を逸らしてしまった。
「さてと、そろそろ学校へ戻りましょうか。沙羽さんと晴人さんからも、先に戻るって連絡が来てますし、わたしたちも遅れる訳にはいきませんよ」
そう言って、暦は制服のスカートを翻した。
「私は必ず未来は変えられる。湊さんなら救えると信じています」
俺の少し前を歩く小さな背中が、そう呟いた。
その声は小さく、けれど確かな希望と信念を宿していた。