プロローグ
初めまして
友人向けに書いていた物語を紹介するため投稿しました。
ぜひ最後までお付き合いください。
たまに見る夢がある。
俺は立っているのか──。
それとも倒れているのか──。
それは分からない。
ただ熱く暗く、何かが燃えているのか、焦げた匂いが鼻をつくことは覚えている。
意識なんてきっとないのだろう。ただ漠然とした虚無が俺を支配しようとしている気がした。
そんな俺に誰かが声を掛けているのは分かった。
その声は少女のような声だったと思う。
その子は俺に何かを言っている。
その子は俺に悲壮に染まった表情を向けている。
その子にとって俺はきっと何か特別な存在なのだ。
「約束は守ります。例えこの身が滅びに向かおうとも必ず──」
少女はそんなことを言っていた気がした。
そして起きたらいつも忘れるんだ──。
*
海と山に挟まれた地方都市、神影市。
歴史ある街であり、開国以来西洋文化の流入点となり、港街として栄えた街である。そして俺の生まれ育った街でもあり、俺はこの街が好きだった。
何故好きかと聞かれると上手く答えることはできないが、この街に愛着があった。
地元だからと言ってしまえばそれまでだが、心のどこかで俺はこの街との繋がりを感じていたのかも知らない。
大人になるまでこの街の輝きは永遠に続く物だと考えていた。放課後の商店街には、コロッケの甘い匂いと、駄菓子屋のばあさんの笑い声。
駅前の広場では、学生たちのにぎやかな声が夜遅くまで響いていた。何もかもが活気に満ち、どこか誇らしく、永遠に続くものだと、疑うことすらなかった。
俺、天戸湊がこの錯覚に気付いたのは、思いの外遅かった。
神影市の公務員採用試験に合格し、地域振興課に配属されてから、ようやくこの街のために活躍出来ると考え奮闘し始めてしばらく経ってからだ。
かつては港街として栄え、力強く思えた街は、気付かぬうちに静かに衰えていた。体裁をばかりを気にした移民政策は失敗し、治安の悪化を招き、多くの神影市が培ってきた歴史は失われた。
人口は減り、商店街には空き店舗が目立ち、駅前の広場もどこか寂しい。
毎日乗る市バスは、ダイヤ改正を繰り返すたびに便数を減らし、車内掲示には企業広告よりも「地域復興キャンペーン」や「路線廃止のお知らせ」が目立つようになった。嫌でも現実を突きつけられる。
地域振興課の仕事は、空き家対策や高齢者サービスの縮小に対する苦情対応が中心だった。
会議では一応、建前だけの議論が交わされるが、誰も本気で街の未来を変えられるとは思っていない。
気付けば俺も、その輪に加わり、目の前の業務をこなすだけの毎日に埋もれかけていた。
ただ、あの頃は信じていた。
この街は、永遠に続くと。
「おはようございます」
地域振興課の古びたフロアに、緩慢な足取りで踏み入った俺を待っていたのは、半分以上が空席となったデスク群。
使い込まれたパソコンと、積み上がった書類の山に埋もれた、灰色の空間だった。
壁には、色褪せた標語ポスター。
《地域の笑顔が、未来をつくる!》は、誰がいつ貼ったのかも分からない。
俺は席に着くと、すでにサービスを終了した古いOSが今なお現役で動いているパソコンの電源を入れた。
カタカタと機械音を立てながら立ち上がるその動作は、この街の行政が辿ってきた“後手後手”の歩みそのものに思えた。
起動にかかる無駄に長い時間を使って、隣に積まれた書類から一枚を無造作に手に取る。
経費削減のために導入されたコピー用紙は、質も色も悪かった。
「天戸君、今日この後、空き家対策の報告書、頼むよ」
隣の席でパソコンの準備運動を終えた先輩職員が、気だるそうに声をかける。
「はい」
俺も気だるく、短く応じた。
この職場では、大きな声を出す者は誰もいない。
地域振興課の仕事は、ざっくり言えば「街を元気にする」ことだ。だが現実は、空き家の管理相談、衰退した商店街のイベント支援、使い切れない補助金の申請作業の繰り返し。
採用面接で語った理想の「街づくり」とは、もはや隣の恒星系にロケットを飛ばすくらい遠い話だった。
昼休みのチャイムが鳴り、俺は重い腰を上げてフロアを後にした。向かう先は、市役所の地下にある食堂だ。
くたびれた廊下を歩きながら、自然とため息が漏れる。すれ違う同僚たちも、皆同じような顔をしている。目の前の業務をこなすだけで精一杯だ。そんな空気が、役所全体を包んでいた。
地下へ降りるエレベーターの中、無言の職員たちと肩を並べる。
扉が開くと、年季の入った食堂が姿を現した。
壁紙は色褪せ、床には微かなひび割れが走り、使い古された木製テーブルとイスが雑然と並んでいる。ここもまた、かつての活気をすっかり失っていた。
カウンターには、無愛想な職員がぽつりと立っていた。並んでいるのは、俺たち職員だけではない。
役所に用があって来た市民たち、疲れた表情のサラリーマン、近所に住む高齢者。それぞれがトレイを手に、静かに自分の順番を待っていた。
「日替わり定食、ひとつ」
今日のメニューは、唐揚げ、千切りキャベツ、漬物、小鉢に味噌汁という定番コース。
乾いた唐揚げを見て、心の中で苦笑する。
安く提供するためとはいえ、ここまで質素になるとは思わなかった。
トレイを手に、空いている席を探していると、後ろから声がかかる。
「天戸くん、ここ空いてるよ」
振り返ると、同僚の杉山が手を振っていた。
俺は軽く会釈し、彼の向かいに腰を下ろす。
「また、いつもの定食か」
杉山は苦笑しながら、唐揚げを箸でつまみ上げた。
「まあ、腹が膨れればいいよ」
俺も同じく、無感動に唐揚げを口に運んだ。
油の匂いと、パサパサした食感。
それでも、何も食べないよりはマシだ。
「昔はさ、もっと楽しかったよな、ここ」
ぽつりと杉山が言った。
思い出す。
俺が新人だった頃、昼休みの食堂は本当に賑やかだった。職員たちは弁当を持ち寄り、自家製のおかずを交換し合ったり、「このお惣菜、うちの子が好きなんだ」とか、「昨日の夜に作りすぎたから持ってきちゃった」なんて話に花を咲かせていた。
育児の話題、趣味の話、休日に家族で出かけた先の土産話。テーブルのあちこちで笑い声が響き、温かい空気に満ちていた。
あの頃は、今よりずっと、“この街を支えている”という誇りが、ここにいた誰もにあった。
「……懐かしいな」
俺はぼそりと呟く。
「なあ、天戸」
杉山が、少し顔を曇らせて言う。
「俺たち、このまま歳だけ取ってくのかな」
その言葉に、何も言い返せなかった。
正直、俺自身も同じことを、ずっと思っていた。
誰もが現状に慣れ、諦め、惰性で日々を送るだけ。
街も、役所も、俺たち自身も、少しずつ色褪せ、静かに沈んでいく。
そんな未来しか想像できなかった。
「……頑張るしかないよ」
苦し紛れにそう返すと、杉山はふっと笑った。
「俺は親父が公務員だった時は大違いだ」
「お前、親父さんも役人かよ」
「言ってなかったっけ?」
記憶になかったため、それについて尋ねてみた。
「俺たちと同じ部署だよ。あっ、でも俺と親父はかなり歳が離れている。なんせ親父が44歳のときの子供だからな」
「親父さん頑張ったんだな」
俺の言葉に杉山は笑った。
その後、食事を終え、杉山は先に席を立った。
トレイを片付け、俺に軽く手を振って、食堂を後にする。
俺は残った味噌汁を飲み干しながら、もう一度周囲を見渡した。どのテーブルにも、かつてのような笑い声はない。疲れた顔をした人たちが、ただ静かに箸を動かしているだけ。
どこで何を間違えたんだろう。
子供の頃に思い描いた未来は、こんなにも寂しいものじゃなかったはずなのに。
立ち上がりトレイを片付け、再びエレベーターへと向かう。
扉が閉まる直前、ふと食堂を振り返った。
薄暗い灯りの下、誰も気づかないような小さな溜息が、いくつもこぼれていた
子供の頃、俺が感じていたあの熱気は、いったいどこへ消えたのだろう。
神影市の人口は、長年右肩下がりだ。
若者は近隣の大都市に流れ、地元に残るのは高齢者か、定年後に戻ってきたUターン組ばかり。
人が「戻ってきた」といえば聞こえはいいが、行政としては福祉に割く予算が増え、むしろ頭を抱える事態となっていた。
昼食を終えた俺は、まだ休憩時間が残っているにも関わらず、席へ戻り、今朝頼まれた書類に目を通す。
「はぁ……」
ため息を吐いた俺に、杉山が声をかけてきた。
「うっす、何見てんの?」
彼は俺の手元をちらりと見て、同情するような顔をした。
「この前のやつだろ? 古民家再生のリフォーム会社とコラボして、盛り上げるとかいう企画」
「それ、失敗したよ。SNS映えするカフェを誘致しようって話だったけど、結局どこも本気じゃなかった」
厳密に言えば、名乗りを挙げた業者はいた。
だが、どこも運営資金を補助金頼りにしており、持続可能とは言い難かった。
ただ金を出すだけでは、地域再生など夢のまた夢だ。結果として、時間と人件費を浪費しただけの、大赤字プロジェクトに終わった。
杉山は気まずそうに笑い、そのままフロアを後にした。
残されたのは、デスクに突っ伏して仮眠を取る課長と、俺だけ。街の至るところで目に入る閉まったシャッター、錆びた遊具、空き店舗に貼られた『テナント募集』の貼り紙――。そんな、見慣れた光景が心に重くのしかかっていた。
失敗しておいて、恥ずかしい話だが、俺は古民家カフェの計画に自信があった。昨今の流行りをリサーチし、口コミ力のある女性をターゲットに街おこしを企てた。
実際、隣県は同じような方法で県外からの観光客の呼び込みに成功した。
発案時は乗り気だった上長も失敗となれば、掌を返し、隣県の二番煎じで上手くいくわけがないと俺をヤジった。
正直、その時に俺の心は折れたのかもしれない。
もう何をしてもダメなんじゃないかと。
過去に立案した街おこしのアイディアもすぐに予算という壁に当たり、それが通ったとしても周りの人間はいかに自分の懐に公金を流し込むかを第一に考える。
定時を過ぎ、俺は席を立ち、タイムカードを押して外に出る。湿気を帯びた夕暮れの空気は、どこか寂しげだった。
最寄りのバス停で待つこと十数分。
黄昏の中、市バスがウインカーを光らせて姿を現す。
今では市営の看板を掲げているものの、運行は民間に完全委託されていた。
ラッシュ時にも関わらず、乗客はそこまで多くない。運転士にとっては好都合だろうが、俺にはどこか物悲しかった。
バスが走り出すと、窓の外に子供の頃、駆け回った広場が見えた。錆びついた遊具が、風にきしみ、哀愁を漂わせている。
終点近くでバスを降りる。
寂れた住宅街。街灯の下には、誰のものかも分からない自転車が、朽ちかけたまま放置されていた。
「ん?」
バス停から少し歩いたところで、俺は立ち止まった。少し離れた場所に、少女が立っているのが見えた。
あたりはすでに薄暗くなっていた。
それなのに、その少女だけが、まるでぼんやりと光を放つように、異様に鮮やかだった。
いや、光っているわけじゃない。
彼女だけが、この世界から浮いて見える――そんな不思議な感覚に襲われた。
覚束ない足取りで、こちらへゆっくりと歩み寄ってくる彼女に、俺は思わず駆け寄った。
「大丈夫か?」
声をかけると、少女はそっと顔を上げた。
金色の長い髪はシルクのよう美しく澄んだ青い瞳は宝石のようだ。白いブラウスに、肩紐付きの丈の長いスカートは、ワンピースのような印象を与える服装。
白く透き通る肌に、幼さを残しつつも、どこか儚い美しさを湛えていた。
彼女の顔を認めた時、何が頭を過ぎるそんな感覚があった。でもそれが何なのか分からなかった。
「……なさい」
少女の小さな唇が、かすかに震えた。
「ごめん……なさい……」
「ど、どうしたんだ?」
突然の謝罪に、俺は戸惑う。
スマートフォンを取り出し、慌てた様子で少女の目線まで膝を落とした。
「何かあったのか? 警察呼ぶか? それとも救急車か?」
「ち、違うのです……」
「違うって、何が……?」
少女は涙を浮かべたまま、か細い声で続けた。
「もう、時間が残っていないのです……」
「時間って……何のことだ?」
少女の瞳が、俺を真っ直ぐに見据えた。
「わたしと湊さんの時間が――!」
「時間?」
何のことだ。
明らかに苦しそうにする少女の様子に俺はたじろいでしまう。
その場に崩れ落ちてしまう彼女を俺は支えた。
「ホントに大丈夫か?」
「わたしの責任……なんです……」
今にも消えてしまいそうな声で少女は言葉を紡ぐ。
「でも、もうこうするしか湊さん……根幹が.....」
もはや何を言っているか聞き取れない。
「と、とりあえず救急車呼ぶからなっ!?」
俺はスマホを操作し、119番をコールする。
クソっ!?この辺AEDとかあったか?
「湊さん、これから湊さんにはたくさんのご迷惑をおかけ……します」
「ああっ、話なら病院で聞いてやるからな!」
電話口に出た消防に俺は状況を伝え始めた。
そんな俺をよそに少女は言った。
「い、今からまだ間に合う時に行きます。あとは──」
その言葉が聞こえた瞬間、
世界が反転した。
俺の身体がアスファルトに無力に倒れ、鈍い衝撃が全身を襲う。冷たく深い無意識へと、意識は沈んでいった。