メガネの男は恋愛を語る
「君は、どうして人が恋をするのか知っているかね」
目の前のメガネの男はにやにやとしながらも真剣な声色で私にそう聞いてきた。
この男とは昔からの知り合いなのだが、こいつはこういう事を
突拍子もなくよく話してくる。
たいていは自分の考えをぺらぺら喋りたいだけでこちらの言葉などあまり聞いておらず、
それゆえに人からは少し疎まれている節があるが、私はあまり嫌いではない。
嫌いではないが、もちろん好きであるわけもなく
まあ、参加型のラジオのようなものだと割り切ってしまえばこれはこれで楽しいものなのだ。
「君、聞いているかい」
私が足の爪きりに夢中になりつつ、そうつらつらと考えていると
ラジオが続けて喋った。
「聞いているよ、私にはまったく分からない」
聞いてはいるが、考えもせず私は答える。
足の親指の爪がひどく内側に巻いていて、それがすごく痛むのだ。
「ふむ、良くないね!」
その言葉が口火になったのだろう。
待ってましたと言わんばかりに彼はそれを切ると、そこからぺらぺら話を始めた。
「まず、恋愛、恋とは本来必要のないものなのだよ」
「だって考えてみると分かる。この地球に生きる生物で恋をするのは人間だけじゃないか」
「他の動物は多少の差はあれ、ただ生殖のためだけに相手を探すだろう?」
「一見それは短絡的だと思うかもしれないが、子孫繁栄こそが生物の生きる目標なのだから彼らのほうが正常なのさ」
「つまりは生殖に関して恋なんてものが付随している人間のほうがおかしいという訳なのだね」
皮膚に食い込むように巻いている爪をどうにか反対に治そうとするが、どうもなかなかうまくいかず、話を聞きつつもそれに夢中になっていると
「おい、聞いているかい、君」
と、ラジオが催促をしてきた。
人の話はこいつも私も聞かないが、ただ喋るだけでは嫌なのだろう。
「ああ、聞いてるよ。でも他の動物だって恋はするだろう。求愛をして断られている鳥をこの前テレビで見たぞ。あれはどう見たって失恋じゃないか」
爪に8割、話に2割の割合で脳を振り分けているため、返答が少々遅れつつもそう答えたところ、
なかなかいい返答が出来たようで、
「ふうむ、君は相変わらず良いところをついてくるね!」
彼の反応から見ても、それは明白であった。
ラジオがまた語りだすのを適当に聞きながら、私は爪いじりを続ける。
「実はそれは失恋ではなく、ただ遺伝子的に合わないと判断されただけなのさ」
「生殖が目的ではあるが、もちろん適当に相手を選べばいいと言うわけでもない」
「これから先も自分の血が絶えないようにするために、強くて相性のいい相手を選ぶ必要がある」
「だから人間以外の生物は相手の大きさや匂い、しぐさでそれを判断しているってわけさ」
「もちろん人間の恋にもそこは含まれているけれど、残念ながらそれのみでは恋にはなりえず、それのみである彼らのそれらは、よりよい子孫繫栄のためのそれに過ぎないのだよ」
それそれそれと、代名詞の多い言葉に少し頭を使ったが、その言葉を聞いて、ふと私の中に疑問が湧いて出た。
気が付けば私は爪いじりの手を止めていて、そしてそのまま彼のほうに顔を向けた。
彼は片手に持ったコップから水を飲んでいる。
「じゃあそもそも君の恋の定義はなんなんだ、何をもってして恋だと思う」
その彼に私は生まれた疑問を投げかけた。
「ううむ、君はやはりするどい質問をしてくるね」
私のその疑問を聞いて彼はそう言い、コップを机に置く。
「恋は苦しみだよ」
そしてそう答えた。
「苦しみ?」
あまりに予想外の答えに私は反射的に聞き返す。
「そう、平坦な道しかないなら、それは恋じゃない。急で苦しい坂道があって、これまた急できつい下り道があってこそ、恋は恋になるのさ」
「そしてその道がどこに向かっているのかは誰にも分からない。それでも、二人で信じてその道を歩く。それが恋なのだよ。」
「ずいぶん、抽象的だな。」
「形はないからね。」
「でも、そんな聞いただけでうんざりするような恋をする理由ってのはなんなんだ。しかも恋は無駄なんだろう。」
「人は恋をするようにできているからさ。生物的には必要のない恋をするために人は生まれてくる。」
「そして、そんな無駄こそが人生を豊かにする。たとえそれが良くないところにたどり着いたとしてもね。無駄こそが一番の豊かさなんだよ、何事においてもね」
「だから人は恋をするんだ、必ず。」
気が付けば爪の痛みなど気にならなくなっていた。