95話 水面の下の暗殺
一週間前の夜間、モルタリスカンパニー所有の生物研究所で爆発事故が起きた。
起きたという事実は公にはされておらず情報は隠蔽されているが、逆に隠蔽のことを知らず遡っていったからサーペントは事故の隠蔽のために動いた不自然な人員に気づき、そこから逆算出来たと言える。
爆発事件とは言っても別に研究所で作っていたゾンビ・ウィルスが漏れ出た訳ではなく、どうやらカビやキノコ、粘菌を用いた研究を行なっていたらしい。少なくともバイオハザードは発生していない可能性は高いが、この際にその研究所にあるにしては不自然なほど大きな培養槽が破損していることが判明した。
同時に、この研究槽の管理を行なっていた壮齢の科学者が一人、事故と同時に行方不明になっている。
サキコ・アーキバス・マエモト。
41歳女性で、生物研究の第一人者。
爆発事故後の彼女の行方は杳として知れない。
モルタリス内ではバイオコンピュータ研究の実用性が疑われており、内部のゴタゴタで研究打ち切りが囁かれていた部署にサキコは席を置いていた。行方不明後の調査で彼女には研究費用の私的な流用など複数の嫌疑がかけられ、行方を捜索中となっている。つまり、爆死した訳ではない確率が高い。
このとき、サキコの作った何かが川へ出た。
恐らくは本社の把握していない、何らかの生物が。
すると翌日の早朝に川の中流から下流にかけて不審死した魚介類が複数発見された。
ただし、大量死と呼ぶにはその量はやや控えめだったようで、新聞や記事ではそれほど大きく取り上げられていない。陰謀論コミュニティで研究所と結びつけられ、面白おかしなフェイクニュースが盛り上がっている程度だ。
更に翌日、川から出た海洋で定置網に大穴が空いているのが漁師によって発見される。
海洋生物がぶつかったにしては明らかに断面が不自然な網はしかし、人為的に行なうにしては範囲が広すぎることから何か未知の生物か、この辺りの海洋で発見されたことのない生物が侵入したのではないかと調査を行なっているようだ。
その漁協では遠洋漁業を行なういくつかの船からの連絡が途絶えている。
それから海で魚介や海藻が突然なくなり磯焼け状態の場所が不自然に見つかったとか、ダイバーが謎の影を見たとか、情報は段々確度が低くあやふやなものになっていき、それらを線で辿ると最終的には先日発見された水上バイクカップルの失踪へと繋がっている。
なにせ海は技術が発達した今をして謎の多い世界だ。
現在の人類に地表の七割を占めるとされる広大な海を完全に監視するネットワークは存在せず、将来的にも恐らく構築されることはないだろう。だから、いくら高性能な無人ドローンを複数使用できるとしても、後方支援を行なうサーペントがカバーできる範囲は驚くほど少ない。
(ユアちゃんを守るだけなら十分な数なんだけどな……)
水中ドローンは無線操作に限界があるため中継にオウルの【レイヴン】を借り受け、サーペントは自らのドローン【スネイク】とジルベス海軍採用の水中偵察ドローン【ノーティックⅢ】を併用しても、ヘクラーネ島の周辺をくまなく探索しきるには膨大な時間が必要だ。
しかも、捜索対象である【アスピドケロス】がアルタイムで移動している可能性もあり、そうなると一度調べた場所だからいないとも言い切れなくなる。
(ヘクラーネの海の透明度が高いことだけが救いだな……見通しだけは困らないから)
結局、サーペントは護衛のためのドローンを除く手勢で何かが潜んでいる可能性の高い区域に当たりをつけて偵察するという方法をとらざるを得ない。
あまり数を増やしすぎるとドローンの運用が何者かに露呈する可能性が高まる。
特にジルベス海軍の哨戒の時間と被るとよろしくない。
(……自分がこんな考えを抱くのも不思議だけど、いるかどうかも分からない相手を探すって言うのはまどろっこしいものだね)
――結局、サーペントの捜索も虚しく日が傾き始めても何も発見することは出来なかった。
だが、捜索が空振りでも極論を言えばユアたちが無事この旅行を終えればクアッドとしては問題ない。事実、彼女たちはコーラルビュークルージングの後に昼食に舌鼓を打ってクルーズを終え、ビーチスポーツまでしっかり楽しんだ。
サーペントはそれを常人であれば羨ましいと感じるのだろうと思いながら、夜のドローン探索の準備をする。
深夜の海中探索は視認性の低下から極端に効率が落ちる。
幾らAIを活用してもこの部分は仕方がない。
長い夜になるのは別に構わないが、もっと効率化が出来ないものか――思案に耽るサーペントに通信が入る。ライフガードを継続しているテウメッサからだ。
『クルーズ船が一隻戻ってこないんだ。SOSはないが定期連絡もない』
『うん、今こちらでも確認したよ。セレブ御用達の最高級じゃないか。ユアちゃんたちがクルージング中に目視確認したあのキンギョ鉢だね。でも、騒ぎにはなってないようだけど?』
『客が金にものを言わせて航行スケジュールがずれることが今まで何度もあったから今回もそれじゃないかって話になってるんだけど……映画だとこういう船が襲われるだろ?』
テウメッサまで非化学的なことを言いだしたな、とサーペントは思う。
映画のそれは登場人物に迫る危険を可視化して不穏な予兆があると伝えることと、思い入れのない相手の滑稽な死に様を披露することで次にいつ残酷な死が訪れるのか身構えさせ緊張感を煽るためだとサーペントは分析している。
しかし、テウメッサはサーペントがそう考えるであろうことを知っている筈だ。
ならば彼は言葉通りのことを期待している訳でもなく、なんの当てもなく調べるよりは正体不明の何かに狙われる可能性の高いものに注目してはどうかということだろう。
『船の場所に近いドローンを何機か向わせて確認するよ。まぁ、これだけ有名な会社の船なら危機管理はしっかりしてる筈だけどね』
可能性が低いことは分かっているが、それで大きく効率が落ちるかと言われると誤差の範囲だ。
サーペントは軽い気持ちでドローンを向わせたし、テウメッサも面白半分に回線を繋いだまま様子を見ていた。
その面白いという感情が消滅したのは、夕日が水平線に沈み、海を暗闇が包み始めた頃だった。
『……』
『……』
二人はドローン越しに送られてくる映像に黙りこくった。
長らく殺し屋として様々な人間を様々な方法で始末し、裏社会にも精通する二人を以てして、それは瞬時に形容することの難しい異様な光景だったからだ。
ユアがキンギョ鉢と称したコーラルビュークルージング用の透き通った客席の中には、黄ばんだ液体と、衣服や装飾を纏った無数の人骨が転がっていた。完全に白骨化しているものもあれば、僅かに内部にぐずぐずに溶けた肉が残っているものもある。
テウメッサは恐怖や嫌悪感はないが、困惑した声を漏らす。
『……鉢のなかに強酸性の液体でも注いだのかな?』
『客全員を融解させるほどの酸を用意するのも、溶かした後の酸を船外に放出するのも現実的とは思えないな』
『じゃあ霧状の強酸を……』
『それだとあんなに人体が溶けないと思うよ。なんにせよ、もしこれが人の手によって行なわれたのなら犯人は史上最悪のサイコパス犯罪者として犯罪史に燦然と名を輝かせるだろうね』
果たしてこのなかで骨になるまで溶かされた連中はどのような経緯を経て死に至ったのか――サーペントには分からない。だが、常人ならここで死者に思いを馳せるのではないかと考えたサーペントは彼なりに感想を口にしてみる。
『全身を酸で溶かされたとすれば、この世のものとは思えない苦痛の末に藻掻き苦しんで死んだんだろうな。痛みともかゆみとも判別のつかない神経の疼きや皮膚が爛れて肉が剥き出しになってく様をまざまざと見せつけられた人々は喉が引き裂かれるような絶叫をあげ、やがてその喉さえ……』
『あのさ、サーペント。精一杯死者に対する何かを言おうとしてるのは結構だけど、多分世の99%がこの状況見てそういう考えるだけで総毛立つようなグロイ想像聞きたくないと思うよ』
『え? そうかな……可哀想だって言うならなぜ可哀想なのかなるべく理解を示せるように死者の心情に寄り添うコメントをした方が普通かと思ったんだけど』
『その、なんか違うんだよなぁ……努力は認めるけど、そこは「こんな死に方絶対イヤだ」とかそういう方が自然じゃない? もっと言えばこの異常な光景を前に普通の人は言葉を失うとか、少なくとも冷静にペラペラ喋る気にはならないと思うよ』
人の感情に詳しいテウメッサが言うのならば、サーペントは思い切り間違ったのだろう。
曖昧な言葉が多くて何を間違ったのか即座に分析は出来ないが、今回の仕事を終えたら個人的に解析して今後のコミュニケーションに役立てようと彼は決心し、会話ログをプライベートフォルダに放り込んだ。
『喋るべきだったり黙るべきだったり、常識って難しいなぁ……いや、それよりこれは【アスピドケロス】の仕業なのか?』
『中身だけじゃなく船の外壁にも張り付くこの黄色い液体を見るに、色味はほぼ同じか。成分分析にかけるためにサンプルを取ろう』
幸か不幸か船には生存者がおらず、ともすればSOSもなくライフガードも即座には来ないため、二人は手分けしてドローンを操り船の調査に乗り出した。
沈む夕日を反射して煌めく水面の下に広がる地獄は、昏さを増しつつあった。
待たせて申し訳ないです。
やっとちょっと書けたぞ!




