90話 厄介な暗殺
正常性バイアスとは実に便利な脳の機能だ。
思考能力を高めすぎて無駄な事ばかり考える人間が必要以上に考えないためのフィルターは、少し前まで危険に満ちていた空間を日常の世界であると受け入れさせる。
警察の公式発表によってマフィアの内紛の終了宣言が為されると、メディアに拡散された情報を鵜呑みにした国民達は先日までに流れた流血も忘れて賑わいを取り戻していた。
顔もよく知らない相手を襲撃していた暴漢達は消え去り、残るのは久々にカフェショップの新フレバーを試しに行きたいとか、我慢していた分だけ外食しようとか、他愛のない身近な欲求に飛びついてゆく。
そんな中で、一人の老婆が道端の段差に躓いた拍子に荷物を取り落とす。
「あら、いけない……よいしょ。いやねぇ、歳を取るとこんなことも一苦労だわ」
老婆はあまり調子の良くなさそうな腰を曲げて拾おうとするが、動きは緩慢で見るからに危なっかしい。
しかし、人には傍観者効果という実に都合の良い機能が備わっている。
老婆が荷物を落としたことは多くの人間が認識している。
認識した上で、別に自分がやらずとも誰かがやるからと自己の行動を優先させる。
結果、荷物一つを拾うのにも苦労する老婆の危なっかしさを誰もが無視して素通りするという歪な現実が姿を現す。
人は、人が思っているほど優しくはない。
それは間違ったこととは言い切れない。
自分の面倒を見るだけで精一杯の人間はいるだろう。
誰もが正しいことをしたいと思いつつ、誰か余裕のある人間がやればいいと無責任に願っている。
幸いにして、老婆の前に余裕のある人間は現れた。
彼女の前に屈んで荷物を拾った男性は、爽やかな笑みを浮かべる。
「よければ家まで運びますよ」
「まぁ嬉しい。でも大丈夫、自分で持てますから」
「そうですか? なんだか心配です」
「貴方の善意は嬉しいけれど、親切心の裏でお金の勘定をしている人って悲しいことにいるのよね。お隣のディアスンさんは認知症のせいで荷物持ちを口実に家に押し入られて何度もお金を盗まれたって言うし、自衛しないとね」
「ご立派なお考えですが、それで貴方が怪我をしては意味がないと思いますよ?」
老婆は結局男性を信じて荷物持ちを任せることにする。
老婆の遅々とした歩きにぴったり合わせて歩く彼は、周囲から見れば老婆の歳の離れた息子か孫に見えたかもしれない。
誰もがその光景を疑うことはない。
その二人こそがこの町を騒乱に導きかけたルクレツィア・マレスペードとニクス・ジガンディーノであることなど。
人通りが多く喧噪響く大通りを並んで歩きながら、ニクスは何食わぬ顔で呟く。
「お話は纏まりましたか?」
「ええ。取引したお馬鹿ちゃんたちがあちら側の情報を握っていたわ。私たちに見切りをつけようとしていたことも、無関係の人間をどさくさで拉致しようとしていたことも」
「大した情報でもないですね。本当に大丈夫なのですか?」
「今回の件で私たちは彼らも追えない深海に潜った。彼らは潜水艦を持っていないけれど、こちらからはいつでも撃てる」
「成程、それは相手方も機嫌を損ねたくないでしょう」
「それもこれも、貴方が最初から最後まで演じきってくれたおかげよ。いい子ね」
「ファミリーの為ならその程度のことは苦にもなりませんよ」
最初から――ニクスという都合の良い旗頭がいたことも、ファミリーの重鎮が何人も死んだことも、【ネスト】の環境が一変したのも、全てはルクレツィアがニクスに命じ、二人で描いた絵だった。
クアッドも、警察も、誰も彼もが時代遅れのマフィアに踊らされた。
マフィアがスムーズに古き慣習を切り捨てて新たなステージに立てるように。
これほど大胆な会話を行なっても、周囲はその異様さに気付かない。
音が氾濫した環境の中では老婆と男の会話に興味がないから――或いは、興味が湧かないほど自然に彼らが会話しているから。
ニクスはルクレツィアに問う。
「我々はなんなのでしょう。我々は秘密結社でも特殊部隊でも宗教団体テロリストでも企業でもない存在になった。高度に情報化した社会の潔癖さの隙間に隠れ住みながら情報統制の波に逆らわず、さりとて潔癖でもない我々は、マフィアと呼べるのでしょうか?」
「元々マフィアなんて高尚な存在じゃないわ。時代に呑み込まれて消えるなら、それもマフィアの定めなのでしょう」
マフィアの首領ともあろう者の見も蓋もない言葉。
しかし、ルクレツィアという女は決して達観している訳ではない。
「今、マフィアは求められていない。でも時として時代は進みながらに遡る。信仰を科学が淘汰した後に信仰宗教が人の心を掴んだように、王制を打倒し民主主義を樹立した国家が選挙を信じられずに絶対の君主を求めたように、人の本質は長い時をかけても変わるものではない」
「我々にも復権の時がくると?」
「それが私たちの生きている間に訪れるとは限らないけれど、ね」
ニクスは押し黙った。
彼が古き良きマフィアに憧れていたのは本当のことだ。
最低限ルクレツィアから指示を受けてはいたが、彼女の行動如何によっては本当に彼はファミリーを跡形もなく消し去るつもりだった。
しかし、自分たちの名と生き方がいつかの未来に到達するかも知れないというルクレツィアのロマンティックな考えを、彼は信じてみたくなった。
「ロマンチストですねぇ」
不意に――背後から、二人の聞き慣れた声が聞こえ、二人は心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。
「……フォックス」
「私を驚かすなんて、いけない子ね」
「これは失敬」
そこには、今回の黒幕に仕上げられた哀れなピエロたちに爆破された筈の情報屋、フォックスが何事もなかったかのようにニコニコ笑いながら追従していた。
フォックスは微かに早足になって二人に追い抜くと、振り返って二人にピースサインを送る。
「お困り事の際は引き続きこのフォックスにご相談を。あ、表向き死んだことになってるから二代目って扱いになるけどね!」
それだけ言い残し、フォックスは揚々と町行く人混みの中に消えていった。
ルクレツィアもニクスも、フォックスのことは殺すつもりでいた。
彼が爆破されるようにそれとなく情報を流して誘導した。
政府関係者である彼にこれから更に潜るマフィアの実態の一部でも知られたくなかったし、優秀すぎる彼をこれ以上抱え込むのは危険だったからだ。
しかし彼は死なず、得体の知れないまま再び現れた。
二人がここで出会うことは他の誰にも知りようがなかった筈なのに。
ルクレツィアは、ため息を漏らす。
その吐息は微かに震えていた。
ニクスはそれだけで、あの情報屋が自分の想像を遙かに超える存在であることを悟ってしまった。
警察と企業まで翻弄したマフィアの首領でさえ底を見切ることが出来なかった、その本質を。
「何歳になっても見通せないものってあるものね」
「化け狐め……」
「上手く付き合って行きましょう。あれはもしかすれば、特務課なんかよりよほど厄介な存在かもしれないわよ」
気付けば身近にいる恐怖――それは決してマフィアだけのものではない。
この世界にはもっと得体の知れない化物が、人の皮を被って闊歩している。
◇ ◆
テウメッサの身体は万全にはほど遠かった。
見てくれは綺麗に治っているが、蓄積したダメージは大きく、あと二日くらいは仕事を避けた方が良い状態だ。クアッドで二日も休養が必要なのは異例のことだが、ユニットとの戦いであればこうもなるという貴重な参考になった。
(やってくれたよね……恐らく磁界に関しては次から対策を立てられるだろうな。同じ事が二度あるとは思いたくないけど、対策を考えないとだな)
本来ならば一度の失敗も許されないクアッドにとって、二度目の失敗は壊滅に直結しかねない。テウメッサは自分が消えるのは特に思うところはないしサーペントとミケは死んでいいが、オウルを巻き添えに死ぬのは出来れば遠慮したかった。
そんなテウメッサは片手に紙袋をぶら下げていた。
中にはオウルの鶴の一声で始まったユアの推し活グッズ集めの成果物が詰まっている。
物流センターが騒乱の場になることは結果的に避けられなかったとはいえ、予め彼女の荷物だけ確保しておくことは不可能ではなかった。この損失はクアッド側の失態である。とはいえ転売ヤーに頼らずにこのようなファンの多いアイテムを集めるのは一苦労で、フェアトレードや善意の譲渡、公式販売元への問い合わせなど方々手を尽くしても目標の半分しか確保できなかた。
(抽選を潜り抜けてなけなしのお小遣いをありったけ注いだみたいだからなぁ……)
これで許して貰えなければクアッドは滅ぶかもしれない。
ただの女子中学生であるユアは一時の感情に流されることもあるだろうが、その流れで滅ぼされるのは勘弁願いたい。普通に考えればその可能性は低いとは言え、年頃の女の子の心の機微は一流暗殺者でも心理を読み切れない。
そんな不確定要素の塊であるユアの家に行くと、見覚えのある車が停車していた。
あれは――イーグレッツ・アテナイの車だ。
以前オウルをご機嫌なドライブに誘った国産高級EV車、ニコラVX。
買い直した訳ではなくきっちり修理したようだ。
(あー、オウルはこういう気分だったのか)
イーグレッツのことだからユアに会いに来たんであろうことは想像に難くないが、ユアに近いだけにその周囲にいる人間に鋭い視線を送るという意味では何をきっかけに疑われるか分かったものではない。そして、彼の疑いはクアッドでも晴らすことが難しいものだ。
彼らに取っての目の上のたんこぶは、テウメッサを撲殺しようとした冷酷無比なユニット操縦者とは思えない低姿勢でユアに紙袋を差し出している。
「本当に申し訳ございませんでした。方々手を尽くしたのですが、我々ではこれを用意するのが精一杯で……」
「そんな! わざわざ見つけてくてくれただけでも嬉しいです!」
沈み切っていたユアの機嫌を急上昇させていたのは、彼が差し出したグッズ類だった。
あの後、被害を調べるうちにユアの荷物が無惨にも砕け散っていることに気付いたのだろう。
警察が被害を補填するとは思えないので、彼が自力で集めたと思われる。
イーグレッツの精神性からしてそれくらいのことはやりそうではあるが、ユアが笑顔を浮かべてくれたことに心底ほっとした表情を浮かべている辺り、ユアは罪な女なのかもしれない。
「あっ、そうだ! ちょっと待ってて下さいね!」
ユアは何かを思いついたように慌てて家の二階に駆け上がっていく。
その間に玄関に到着したテウメッサは何食わぬ顔で「これって浮気現場?」などと冗談めかしてイーグレッツに声をかける。
「だっ、誰だ君は!?」
「どもども、あの子のカレシの友達でーす。テウメッサって言います」
「あ、ああ……イーグレッツ・アテナイだ。それと、ユアさんは不埒なことなどしない。僕が用事があって彼女に会いに来ただけだ」
「そりゃ良かった。お? どうやら目的は一緒みたいだね」
言いながら、テウメッサは自分のかき集めたグッズとイーグレッツのそれを比較する。
運が良いことに、二人の集めたグッズを合わせれば当初ユアが購入していた分を全てカバーできそうだった。或いはイーグレッツが迅速にかき集めたからクアッドが集めきれなかったのかも知れないが、結果オーライだ。
イーグレッツは突然現れたテウメッサに訝しんでいたが、流石に先日自分が殺そうとした存在と同一人物だとまでは考えていないようだった。ただ、完全に違うとも思っていないのか、視線の奥にはじっくりとこちらを観察する警察の目が働いている。
階段から駆け足気味に降りてきたユアがテウメッサの存在に驚く。
「あれ、テウメッサさん!? 珍しいですね、一人で来るなんて」
「なに、可愛い友人たちの破局の危機には急いだ方がいいと思ってね。ほら見てよ、彼と僕とでグッズを合わせれば……」
「全部揃ってる!? すごい、本当にすごい! お二人ともありがとうございます!」
「今度他の手伝ってくれた面々にも言ってあげてよ」
「そうしますね! あっと……イーグレッツさん良かったらこれお礼にどうぞ!」
そそっかしくユアが彼に差し出したのは、缶バッジだった。
男性アイドルもののようだが、顔写真などはなくグループ名や周年記念ロゴのようなものがキャッチーなデザインで描かれており、バッグや帽子につけても違和感のないものになっている。イーグレッツはアイドルに興味はなさそうだが、ユアに手渡しされたという点で緊張しているようだ。
「よ、良いのですか? こういうのに詳しくはありませんが、大切なグッズなのでは?」
「大事ですけど、お礼の気持ちは大切にしたいですし。なるべく普段使いしやすいものを選んだつもりですけど、もし興味あったら曲とか聞いてください。ファンが増えたら私も嬉しいですし」
「仕事が終わったら早速確認します! では、その……また何か起きた時は頼って下さい。失礼します!」
勢いよく礼をしてその場を後にするイーグレッツは、どこか足取りが軽やかだった。
人を殺しかけておいて暢気なものだ。
やはり正義も悪も、大した違いは存在しない。
なのに、どうしてこうも――。
「テウメッサさん、なんかイライラしてます?」
不意に投げかけられたユアの言葉に、テウメッサは内心驚く。
「……まいったな。君に見破られるほど顔に出てた?」
「いえ、なんとなくそんな雰囲気な気がしただけですけど」
ユアとしては本当に何となくだったようで、むしろ自分の予想が的中していたことに驚いていた。
テウメッサは後頭部を掻くと小さなため息をつく。
「まぁ、プライベートで色々とあってね」
「お茶くらいは出しますよ。どうぞ?」
そう言いながらスマホを手にすると、ユアは察したように自分もスマホを持つとテウメッサを家に招き入れる。九割九分監視の目はないが、念のためだ。
『T:彼らがいるとどうしても仕事しにくくてさ』
『Y:警察と暗殺者ですもんね。テウメッサさんがイライラなんて、なんか意外です』
『T:僕も意外なんだ。イーグレッツを見てるとイライラする。こんなに私情を感じたのはオウルと出会って以来だ』
『Y:あの人とオウルってなんか波長が似てますよね。だからあんなに仲悪いんだと思います』
ユアは実際にオウルとイーグレッツが本当の意味で啀み合っている所を見たことがない筈だが、彼女の感性では二人は似ているらしい。テウメッサはそういうものなのかな、と懐疑的だったが、続くメッセージに目を奪われた。
『Y:似たもの同士だから、自分たちが絶対に相容れないって分かってるんじゃないかなって』
そのメッセージはすとんと収まりよくテウメッサの胸中に落ちた。
オウルは全てを分かった上で殺し屋をしている。
人の心も善悪も責任も、全てを受け止めた上で不敵に笑う。
イーグレッツも全てを受け止めるのは同じだが、感情が作用する方向性は真逆だ。
テウメッサの好きになった要素を持ちながら、テウメッサの好きになった人の障害に必然的になってしまう存在――それがイーグレッツという男なのだ。
サーペントならば論理的に邪魔だと判断しただろう。
ミケであればどっちも愛するかもしれない。
オウルは、邪魔だと思いつつも存在自体を否定はしないだろう。
許せないと思うのはクアッドの中ではテウメッサ唯一人。
自分にとっての特別であるオウルと同じ性質であるのが余計に許せない。
それは、言葉にすれば余りにも陳腐だが――。
『T:推しと敵対するライバルを邪魔者扱いしてる厄介ファン』
『Y:え?』
『Y:それってなんの話ですか?』
『T:ユアちゃんは天才って話』
『Y:???』
その日から二日間、テウメッサは休養が必要な人間とは思えないほど穏やかに過ごした。
何故テウメッサがそんなに機嫌がよかったのか、終ぞ誰も分からなかった。
これにて6章完結です。
マフィアの話だらけで怒られるかなと思ったら特にそんなこともなくて一安心です。最後の話は少々長くなりましたが、分割するような内容でもないと一度で出し切りました。
次は夏だ! 海だ! サメ映画だ! ……となるかは分かりませんが海に行くつもりです。
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