80話 尻尾を振る暗殺
『――それで、有意義な話は出来た?』
秘匿回線越しに聞こえるサーペントの声――今は老婆の声らしい――に、サーペントは珍しくうんざりしたような口調で愚痴る。
『ああ、そりゃもう大変有意義でござんしたよ』
今、彼はフォックスの顔で車を運転していた。
内紛であちこち渋滞を起こしたり右左折しなければならない道をオート操縦しながら、気疲れを誤魔化すように栄養剤を飲み干す。甘酸っぱくもどこか薬臭さのある炭酸が喉を潤した。
『ルクレツィア・マレスペードは大分前から結論を出していた。すなわち、もうマフィアという形式の組織に未来や居場所はない。だから彼女はずっとラージストⅤと水面下で交渉してたんだ。具体的にはモルタリスに、自分たちをお抱えにしないかとね』
『十年前の戦争で軍紀違反を犯した連中が使った手を今更ねぇ。モルタリスと話はついたの?』
『ついてるんだよねぇ。主に僕らのせいなんだけど』
『私たちの?』
心当たりがないとばかりにサーペントが聞き返すが、彼はテウメッサが説明する寄り先に答えに辿り着いた。
『先だっての新薬騒動か。あれで内部のパワーバランスが崩れたんだね』
『そういうことだよ。熱心なイグナーツ君を重役に選出した重鎮が引責辞任。データを抜かれたことでの機会損失でてんやわんや。空いた重鎮の椅子を巡って無茶なことする輩も増え、裏の伝手がもっと必要になったんだ』
もっと言えば以前にクアッドが【ベクターホールディングス】の暗部を壊滅させたこともあり、正体の知れない何者かの存在を悟ったモルタリスは元々暗部の増強を画策していた。
『ボスにとっては途中まで都合の良い流れだったが、ニクスくんが最悪のタイミングで内紛を起こしたものだから、もう、大変さ』
サーペントはボスとの会話を思い出す。
◇ ◆
マフィアのドンが高級な装飾に身を包んで町を闊歩していたのは遠い昔の話だ。
今のマフィアは秘密主義で、存在を特定されないことで『目には見えないが確かにいる』という恐怖で人々に畏怖を抱かれていた。
組織の存続の為に資本主義に染まるにはそれしかなかったが、同時に加速していく情報社会の中で逮捕されずに活動を続けるには華々しい生活を捨てるしかない。
マレスペードファミリーのボス、ルクレツィア・マレスペードもそうだった。
「嫌になっちゃうわね。ニクスの坊やの言い分は分かったけれど、正直彼の打った手はマフィアを殺すのに最も有効な一手よ」
ルクレツィアの外見は、普通の初老の女性だった。
鼻が低いペットのフレンチブルドッグをリードに繋いで散歩していれば一般人と到底見分けはつかないだろう。どこにでもいるマダムだ。そのように振る舞うことで彼女はマフィアのボスだと悟らせないようにしている。
家も普通、服装も普通、そうなるように巧妙に偽装し、ファミリーのメンバーでさえ常に居場所を把握している者はいない。相談役で先代ボスの彼女の父親さえもだ。
だが、ニクスはマレスペードファミリーの表の顔を虱潰しに襲撃させた。それも脅迫の通用しないただの一般暴徒や主義者、準構成員を織り交ぜてだ。
「彼が襲撃した場所はどこもうちのシノギにとって重要な拠点。言わば毛細血管に血を行き渡らせる動脈のようなもの。でも全ての建物が警察に注目されたことで建て直すために迂闊に動けないし、代わりの場所を用意しようにも内紛が邪魔して間に合わない。構成員の裏切りに組織内も動揺してる。ニクスはファミリーに本当に献身的だったもの……」
「まぁ、彼はあらゆる意味で珍しいタイプだと思いますが」
「どちらにせよマレスペードファミリーは活動資金どころか物資の補充までもがやりづらくなった」
ジルベスに細々と生き残っている現代マフィアの本質は、暴力ではなく秘匿性だ。警察に尻尾を掴ませず、情報を漏らさず安定して収入を得るには表の商売もするしかない。
グレーな方法や裏の方法もあるが、それは警察の手が届きにくい土地が必要であり、今のマレスペードファミリーはそのよからぬ輩が吹き込む土地を維持する力も失われつつある。
ニクスの一手は、マフィアの最大の強みである秘匿性を引き剥がしたに等しかった。ここから一つでも対応を誤れば、マレスペードファミリーの手の内が芋づる式に警察に暴かれかねない。
「立て直そうにも弱体化は避けられず、そもそも離反者と戦争しなければならない。警察の大規模介入に匹敵するかそれ以上の危機的状況を、たった一手でニクスは作り出した」
「それでいて、彼はこの状況に対応出来ないようならマフィアを潰して自分も死ぬと言っている。なんというか、究極の状況ですね」
「そんな考えの持ち主が生まれるほど世界は変わってしまったのね……」
ルクレツィアはペットのフレンチブルドッグを手招きする。
尻尾を振って駆け寄ってきた愛剣を抱きかかえて頭を撫でながら、彼女は懐かしむように目を細めた。
「大規模なAI導入、十年前の戦争を生き延びた軍人崩れの傭兵たちの流入、オーバーエイジ計画による警察の能力強化……全てがマフィアの逆風になった。特にドローンポリス。あれには本当に参ったわ」
ジルベス合衆国警察が全国的に配備した警察所有のドローンは、警察の現着前に動き出して現場に向かい情報を収集し、場合によっては暴徒鎮圧用の武装で犯人を拘束することもある。
制御は半分人間、半分AIで、嘗てドローンの最大の弱点だった電波妨害もコンパクト化したAI技術で擬似的に補われてしまっている。このドローンを警察は大量に所持しており、マレスペードファミリーの縄張りでも平然と空を飛んだり屋根の上から下の様子を監視していることがある。
ドローンは数が多く判別が困難で、大量生産品故に壊してもきりがなく、命がないから脅しも効かない。
嘗てなら警察を脅したり懐柔する手もあっただろうが、犠牲を厭わないドローン軍団と遠い場所から監視するAIへの介入はもはや現実的ではない。それらに手を出すには政界やラージストⅤクラスの権限が必要で、そのラージストⅤはもはやマフィアより暴力的な力を有している。
「だから、我々のようなやくざ稼業が生き残るには一本独鈷という訳にはいかない。幸いラージストⅤが抱え込んだのは軍を脱走した傭兵だらけで、裏での仕事のノウハウはマフィアの方が上だった。だから我が組織の実質的な相談役である貴方にせっかくパイプを繋いで貰ったのに……はぁ」
「そんな過大な。自分は一介の情報屋に過ぎません」
「だとすれば、一介の情報屋にも劣る頭脳を持った父上は真の役立たずね」
くすくすと笑うルクレツィアは、そのままテウメッサの懐に斬り込んだ。
「まぁ、現役の政府関係者である貴方には相談役の肩書きは重すぎるかしら」
(――やっぱりこのボスは切れ者だな。ちゃんと気付いていたか)
政府関係者というのは的外れだが、ユニットを与えられているという意味ではクアッドは政府の組織とも受け取れるし情報網もそれと遜色ないためあながち外れていない。
もちろんテウメッサは自分の素性を完璧に偽っているが、ほんの僅かな違和感を覚えればテウメッサの正体が政府関係者ではないかと予想できるよう誘導していた。
もし万が一気付いた人がいても完全に正解には辿り着けないようにと用意した誘導ではあったが、それは言わば身分詐称の最後の最後に潜む罠だ。辿り着けた時点で異常と言える。
「フォックス。モルタリスカンパニーは今回のことをどう考えているのかしら?」
「援軍を寄越す気配はありませんね。勝ち残った方を誘うかもしれませんが、そもそもあそこはマフィアへの執着がある訳ではない」
「援軍は望めない。尤も、これで泣きついてくるようなマフィアなら下についても使い捨てられるだけかしら」
ルクレツィアは、尻尾を振って顔を舐めようとするフレンチブルドッグに笑顔で回転拳銃――EFハンドレッドの銃口を腹部に押し当て、躊躇いなく発砲した。
乾いた銃声。
ギャンッ、と、悲鳴。
犬の腹部から貫通した弾丸と血飛沫がテウメッサの真横を通り過ぎて壁に張り付いた。ペットが糸が切れた人形のように目を開いたままぴくりとも動かなくなった様に目配せ一つせず、ルクレツィアは微笑む。
「他に何か言うことがあるのではなくて?」
何の前触れもない突然の凶行。
この残虐性、暴力性は、目の前の女が間違いなくマフィアのボスであることを証明している。幹部以上の影響力を持つ相談役に匹敵すると称したテウメッサに、それはそれとして今の自分はマフィアのボスであると言葉にせずに伝えたのだ。
頬に掠った犬の血を拭うことなくテウメッサは「では少しばかりの土産をボスに」と動じない態度を見せる。
実際のところ、テウメッサならルクレツィアを殺す事など造作も無い。
しかし、ルクレツィアもテウメッサに反撃されるリスクを理解した上で敢えて意思表示のために行なったことだ。
その度量に敬意を表し、テウメッサは「政府関係者」という役割の上で最大限の譲歩をする。
「ジルベス合衆国警察特務課がマレスペードファミリーの周囲を監視しています」
「特務課……U.N.I.T.の所持及び使用を許された警察の鬼札。政府は我々を完全に潰そうとしていると?」
「いえ、彼らはそのような特殊部隊のような指示は受けません。彼らは彼らの判断と裁量で事を片付けるでしょう。ただ、特務課の長はニクスに負けず劣らず熱い男だそうでして、市民を愛し悪を罰する気持ちがお強いのだとか」
「成程ね」
テウメッサとルクレツィアの間にそれ以上の会話は必要なかった。
今、ルクレツィアの脳裏では特務課の情報がこう変換されている筈だ。
事態が深刻化して市民の犠牲者が増えれば、特務課の絶対的暴力であるユニットが介入し、両勢力は悉く潰されるだろうと。
マレスペードファミリーは戦わなければいけない。
戦い方を選ばなければならない。
戦い抜いたとしても助かるとは限らない。
床で物言わぬ骸となって転がるフレンチブルドッグは、飼い主の持つ絶対的な力の差に抗うことが許さず尻尾を振るしかなかった。そして今、飼い主は絶対的な力に見下ろされる中で自分に利用価値があるとアピールする為に裏切り者と戦わなければならない。
退路はどこにもない。
戦って少しでも生き長らえる可能性に縋るか、戦わずして殺されるか。
それが、闇社会で恐れられた暴力の象徴であるマフィアに時代が突きつけた惨めな選択肢だった。




