62話 紛れ込む暗殺
アゲラタ病院――それが、ユアが臨床試験のアルバイトの為に三日間過ごすことになる病院の名前だった。
病院行きのバスから外を眺めていたユアは、目の前に広がる広大な土地の中心に佇む白亜の巨大建造物に圧倒される。
「すごい……ネットの資料とは迫力が全然違う」
病院と言えば個人経営のクリニックか町病院にしか行ったことがないユアにとって、そのスケールはまさに桁外れだった。
二十階建ての巨大な建物はちょっとした高層ビルであり、清潔感のある白と沢山の窓ガラスの青が美しいコントラストになっている。建物自体もひとつだけではないようで、いくつかの施設が併設されている。
特筆すべきはその敷地の広さだ。
以前に見学で訪れた大学のキャンパスくらいはあろうかという土地は整然と道路が敷かれ、池や庭木、ちょっとしたテニス場のようなスポーツの為の空間も遠目に確認出来る。
これらの土地全てが病院の為に用意されたというのだから、病院の母体となっているモルタリスカンパニーの隆盛ぶりが覗える。
「今日からあそこで三日間かぁ」
家族や学校には既に連絡済みで、友達には知られるとたかられるので誤魔化した。オウルたちクアッドは同行していない。というのも、アゲラタ病院はモルタリス傘下で十指に入る程度には大きな病院らしく、産業スパイ対策が厳しいので気軽に入り込めないのだという。
(皆のことだからそれでも隙間を見つけて入り込むんだろうけど)
心配性のオウルがわずか三日とはいえ自分の目の届かない場所にユアを置きっぱなしでいるとは思えない。どうせユニットの力を使って既に病院の屋根の上からユアを見下ろしたりしているに違いない。
ユアはただ病院で検査されたり採血されなから三日間過ごせばいいだけだ。病院内ではスマホを自由に使えないらしいので漫画や雑誌、小説もいくつか持ってきている。心配することなど何もない。
(って言ったらオウルったらまったく信用してない顔してたなー。もう、心外だよね。私だってオウルたちに会う前は普通に平和に過ごしてたんだから、そういつもいつも問題が起きる訳ないじゃん……)
オウルはともかくミケにまで若干疑われてユアは不満だった。
あれから彼女だって臨床試験についてある程度は調べた。
ジルベスは世界でも珍しく未成年の臨床試験が行なわれているが、それは肉体が未成熟な未成年であっても万一副作用で容態が急変しても余裕を持って助けられるだけの技術があるからだ。
モルタリスは裏は真っ黒などという話も聞かされたが、病院の治療にまで影響を及ぼすことはないだろう。
(お金は貰う。安全に過ごす。おまけに薬のデータでシュトロイエンザ患者が助かるかもしれない。うん、完璧じゃん!)
無事に帰ってオウルに「問題なかったでしょ?」と胸を張って言ってやろうとユアは内心で誓い、バスが病院に到着するのを今か今かと待ち望んだ。
◇ ◆
うきうきで病院に向かう彼女の姿を遠視したミケは「相変わらずユアちゃんは可愛いなぁ」と微笑ましげに見送った。
今、彼女はユアの言った通り病院の屋根に腰掛けていた。
ユニットのステルスと迷彩込みだ。
これから長丁場になるだろう、と、彼女は先だっての作戦会議を思い出していた。
『結論から言って、アゲラタ病院内ではユニットの使用は原則禁止だ』
それが、いつものようにバックアップに回ることが決まっているサーペントが出した結論だ。今回のサーペントはゴスロリファッションの女になっているがクアッドは誰も気にしない。
『中にユアちゃんがいる以上は重火器の使用など以ての外。そもそもユニットで暴れて騒ぎになったら彼女に確実にばれる。なんせ彼女はこれから三日も病院で過ごすんだからね』
『厄介だな。白兵戦における部分展開や防御に使うのが関の山か』
オウルの意見にサーペントは頷く。
『ステルス機能も過信は禁物。天下のユニットも流石に病院のような狭い屋内にステルス状態で進入すれば人の五感で気付かれたり衝突する可能性が排除できない』
クアッドが最強無敵の殺し屋なのは、ユニットがあるからだ。
無論、ユニットは最終手段でもあるのでそれに頼り切ってきた訳ではなく、ユニットを用いない暗殺も数多く成功させてきた彼らに不安はない。
むしろ、ユアに偽薬が投与されるよう差し向ければ後は見守ればいいだけなので、侵入さえ成功すればどうにかなる。なる、筈なのだが――。
テウメッサが皆の不安を代表して口に出す。
『なぁんかヤな予感するんだよなぁ』
『ユアだからな』
『ユアちゃんだもんねぇ』
全員が全く根拠がないはずなのに説得力を感じる理由で肩を落とす。
本格的な護衛開始初日にビルが落ちてきて、その後町が崩壊しかけていることが発覚し、ファクトウィスパーにたまたま的にされたかと思ったら今度はベクターズホールディングスが総力を挙げて滅ぼしにきた彼女である。
殺人鬼メイヴの一件では流石にやや無関係気味だったが、その反動が今回やってくるという全く科学的根拠のない共通の不安が全員にあった。
何故ならそう、護衛するのがユアだからである。
『話を戻そう。病院への侵入なんだけど、案の定モルタリスの施設だけあって厳重だ。アゲラタ病院に敷設された研究棟では危険な病原菌やウィルスも取り扱っている。当然新薬の開発も。だから物理的な出入りは勿論、電子的にも厳重だ。バックアップで監視カメラやドアロックを弄ることは出来るけど、これまでほど堂々とはしていられないのを肝に銘じてくれ』
超一流ハッカーのサーペントが厳しいと言う以上は本当に厳しいのだろう。モルタリス側を調べていたテウメッサも付随する。
『おまけに新薬開発の関係上、産業スパイやモルタリス内部の派閥争いで人の監視自体が厳しい。人の目とカンを誤魔化すのは難しい。これほど厳重な環境の中で、更に厳重な臨床試験用の薬品保管庫まで辿り着かなければならないんだ』
『ほうほう。で、どうやって入り込む?』
オウルの問いに答えたのは、ミケだった。
『古今東西いつ如何なる時代にも、権力を得て女を侍らせたいスケベなおじさんは必ずいるのです!』
それは人間に性欲がある限り決して潰えることのない古典的手段、ハニートラップ。そしてオウル達はミケ以上のハニートラップの天才を知らない。
彼女の手には、彼女の魅力に堕とされた哀れな男が縁故採用ルートを駆使して必死に作り上げたミケとテウメッサの病院内IDと制服が握られていた。
『オウルは子供だから流石に無理でした!』
『構わない。俺は直接セキュリティを掻い潜って侵入する』
――こうして、クアッドはユアの予想通り病院への侵入に成功していた。
「ネコはどこにだって音もなく入り込むのです!」
『俺らまで勝手にネコにするな』
『ユアちゃんを監視カメラで確認。ミケは中に入っていいよ』
「にゃーお」
『人語を喋れ、人語を』
ミケはユアが無事に病院内に入ったのを確認すると、猫のような軽やかさでぴょんと屋根を飛び降り、病院の影に姿を消した。




