03
何を考えるでもなく酒場でエールを飲んでいると、見知った男が声を掛けてきた。
「マティアス殿下でいらっしゃいますね。
いやぁ、最近この店においでになると聞いて、失礼ながら………」
アーネストの実家のビュッセル伯爵家といくつか取引のあるマイヤー子爵だ。何度か社交界で挨拶をしたことはあるが、マティアスはこの男の為人までは知らない。
普段は馴染みの店を作らないように気をつけているのに、ここ数日ぼんやりして同じ店でエールを飲んでいた事に気づき、マティアスは内心で舌を打った。
「こんばんは、寒くなってきましたね。
俺はそろそろ帰るのですが、座りますか」
こういった切掛で話しかけられる内容には碌なものがない。にこやかに席を立とうとするマティアスに、マイヤー子爵が低い声で囁いた。
「殿下、実は、奥様のことでお耳に入れたい事が」
「そうか。確認しておくから、屋敷に連絡をくれるとありがたい」
「奥様は学園のご関係者でしょう。是非とも学園のことで急ぎお耳に入れたいのですが―――まあ、殿下にはご興味のないことでしたかな」
不信感は拭えないものの、簡単に引き下がる子爵に本当に親切心の可能性も捨てきれず、半刻だけとの約束でマティアスは店の二階に上がる。
商談用らしき部屋は、店の外観の割に瀟洒な内装だった。
出された紅茶を、エールで満腹だと謝って断る。
いつまでも当たり障りのない世間話をする子爵にマティアスは本題を促す。
「それで、ご用件はどういったものですか」
「殿下、まあそんな焦らず……奥様を大事になさっているのですね」
「そうですね、大事にしてますよ」
「しかし、こう言ってはなんですが、奥様はまだ幼い方でしょう。アッチの方を満足させるおなごも必要なのでは?
実は私の家に、年頃の娘がいまして」
この手の話は珍しい事ではない。
未だに未成年のリリア一人しか妻を持たないマティアスの手が付けば、王族の側室に入れる可能性があるばかりか、場合によっては国母になれる可能性もある。
そうしたやりとりも社交の一部であり、それ自体はマティアスも否定しないが、プライベートを付け回して偽りで設けた場での話を聞くほどお人好しではなかった。
やはり初めから相手にすべきでは無かったとうんざりして、マティアスは話を切り上げる。
「これ以上の用件が無いなら失礼する」
そう言って立ちあがろうとして―――膝に力が入らず、体勢を崩す。手を突いたテーブルが揺れ、ティーカップから紅茶が溢れた。
「―――な……?」
視界が歪み、霞がかる。
「やれやれ、やっと効いてきましたな」
マイヤー子爵はほぅっと嬉しそうに息を吐き、額を拭った。
「ほほ、私は毎日の様に使っていてもうあまり効きませんが……殿下には心地好いものでございましょう。暫くおなごの肌に触れていないのであれば尚更」
にやにやと講釈をたれる子爵の言葉が耳を滑る。
背筋を走る衝動にマティアスは唇を噛む。
視界がちかちかと眩しい。空気が上手く吸えず、息が震えた。
「紅茶を飲んで頂けないことくらいは想定の範囲内、今は無臭の薬を香で焚くこともできるのですよ。私の作戦勝ちですなぁ」
「………なにを……」
「なに、お体に悪いものではございません」
マイヤー子爵の口元が下卑た笑いを湛える。
「さ、入りなさい」
子爵の視線を追うと、戸口に豊かな黒髪の豊満な女が胸元の露わな衣装を着て立っていた。
「どうです、なかなか良い女でしょう。殿下、私どもは、殿下をお慰めしたいのですよ」
女はマティアスの隣に座り、動けないマティアスの腕に胸を押しつける。
「殿下、どうか、我慢なさらないで……」
そのまましなだれかかる女の長い髪がマティアスの首筋に流れた。不愉快さに肌が粟立ち、反射的に女の身体を払い除ける。
テーブルに身体を打ち付けた女が悲鳴を上げたが、構っている余裕はない。子爵を睨んで声を絞る。
「お前、自分が何をしてるか、分かっているのか」
予想外の抵抗に子爵は驚いた顔をしたものの、直ぐにまた不愉快な笑みに戻った。
「そんな、お厳しいことをおっしゃらず。
今日はお帰しできませんし、娘を可愛がってやってください。
―――殿下は、手を付けた女をぞんざいに扱われるような方ではないと承知しておりますよ」
足に力を入れて立ち上がると、扉の前を三人の男が塞ぐ。
「さあ、殿下、もう諦めて―――」
近寄ってくる子爵の顔を殴り飛ばす。
目を剥く女を無視して、更に手元の燭台で扉を塞ぐ三人の男を殴る。力加減など出来ず、それも構っている余裕はない。
力の抜けそうな足を叱咤して店を後にした。
通りに出て、流しの馬車を拾う。
呼吸の荒いマティアスに、何かの病気なのかと不審な目を向ける御者は、それでもマティアスの身形を見て丁寧な対応をした。
自宅の屋敷と、代金は執事から受け取るよう告げて、早々に座席に乗り込む。
―――身体が熱い。
ふわりと頭が軽くなる度に甘い誘惑に飲まれそうになる。
気を抜くとあっという間に意識を持っていかれそうで、掌に爪を立てて拳を握りしめた。
くそ、あの野郎、覚えてろ……
マイヤー子爵の卑俗な顔を思い出して、マティアスは毒づく。
あの女に、露ほどの魅力も感じなくて助かった。そうでなければ今頃既成事実を作らされ、責任をとらされるところだった。
こんなえげつない効果のものではなかったが、この薬は、たぶん過去にも吸ったことがある。
恋人が女優だったと知って半ば自棄になっていた頃に、母親の手配した女性たちが焚いていたものだ。その香りを嗅ぐと、気の乗らない日でも容易く女を抱けた。
治まらない熱が屋敷に帰れと急かす。
この効果は、一晩寝てしまえば抜けるはず。
だから、早く屋敷に帰って――――
ぞわり、と何度目かの衝動が身体を駆け巡る。
「………くそっ」
その度に頭を過ぎる面影を何度も振り払う。
そんな対象ではなかったはずだ。
ずっと、妹のように可愛いと思っていたはずだ。
いつか自分の元からはいなくなって、遠い北の地で幸せになってくれるはずの、まだ十五歳の少女。
たった一度の恩義で、マティアスのために命までかけてくれる、大切な人。
―――熱い身体が、他の誰でもなく、リリアが欲しいと啼いていた。
 




