08
翌朝、二人の儀長に連れられてマティアスとリリアは神殿の最奥、祭壇の手前の小部屋に通された。
神殿に入ってから口を噤んでいたマティアスに、リリアが説明する。
「ここより向こうは神殿の外なので、共通語で話して大丈夫だそうです。戻ってきたら、また、神殿の門までは喋らないでください」
「分かった」
「ここで、お待ちしてますね」
「うん」
扉を更に二つ潜ると神殿の裏の広場に出た。外気に触れる度、眩しいほどの日照と空気の冷たさの落差がイドゥ・ハラルの日常なのだと感じる。
強い日差しが広場の地面を更に白く見せていた。
手前にある四阿に、護衛らしき二人の女兵士を背後に立たせてアイディティア女王が座っていた。
護衛の一人がマティアスを迎え、扉の内鍵を閉める。
「座ってくれ。
昨日は眠れたか?」
アイディティア女王は共通語でそう言ってマティアスに椅子を勧めた。
二枚の合意書、署名のための筆と硯。それだけが置かれた机に、マティアスは女王と向かい合って着席した。
昨日の尋儀ではかなり距離があったうえ、神幕の影でよく見えなかったイドゥ・ハラルの女王。一つの国を統治する女性に相応しい精悍な面持ちを、額と頬骨部の紅い入れ墨が神秘的に彩っている。装飾品は多いが、絢爛なものではなく、まるで戦士のように見えた。
昨日の女王は最後に結論を申し渡しただけで、あまり積極的な発言はなかったと記憶している。
合意書に目を通すと昨日リリアから聞いた内容が忠実に記載されていた。
「あの通訳殿は、そなたの細君なのだな」
マティアスが署名し終わったのを見て、女王が声をかけてきた。
「正直初めは、ヴィリテの老人たちは、怖気付いて弱い女に役割を押し付けたのかと思った。
そういう根性をハラル人はとても嫌う。
昨日の尋儀は、初めからそなたには相当不利だった」
今回のことは、イドゥ・ハラルでも概ね事故と受け止めていた。
しかしイドゥ・ハラルに於いて王とは神、王太子は神の子。それを殺されたとあっては、本来なら全面戦争か、少なくともヴィリテの王太子を仇首として祭壇に捧げなければ儀長たちの心も、人民の信仰心も均衡が保てない。
どうしたものかととりあえず仇首のひとつとして第三位を呼びつけると、死地についてきたのは年若い女で、儀長たちはヴィリテの態度に忿懣を隠せずにいた。
しかし話を聞けば、ヴィリテの第三位はイドゥ・ハラルの神に正しく敬意を払い、王子を失ったハラルの民の心に寄り添い、命で贖うことに異論の無い様子。長い尋儀の末、これは仇首には相応しくないということになった。
「あの通訳殿はちょっと凄かったな。帰らぬかもしれぬ旅にあの通訳殿を出したなら、それはヴィリテの誠意ととる。
そなたも我々の信仰をよく学んでくれていると、案内人が酌量を願い出ている」
筆を硯に置いて、マティアスは女王に向く。
「申し訳ないが、俺は、あなたがたのことは殆ど知りません」
「謙遜は要らぬ。
霊峰ポルカに礼を尽くし、道祖に詣り、己の運命にも関わらず案内人たちに敬意持って接していたと報告を受けている」
「世話になっている人に敬意を払うのは当たり前のことだし、その他のことは、妻に、それがあなたがたの心に沿う行動だと教えられただけです」
「変わり者だな。
そういうことにしておいて助命を願ったりは考えないのか」
「……それくらいのことで助かる命なら、昨日リリアが勝ち取っていると思うので」
「………すまんな」
突然の女王の謝罪に、マティアスは驚いて姿勢を正す。
「そなたには理不尽なことだろう。
だが、我らには我らの秩序と信仰がある」
「承知してます。御子息を亡くされてなお毅然と国を治める陛下を尊敬します」
それはマティアスの本心からの言葉だった。
ヴィリテの人民も、イドゥ・ハラルの人民も、無為に失いたくはない。その願いは同じものだと思う。
マティアスは軍にいた数年間、若いながら戦力として申し分のない実力を持っていた。同僚たちが前線に送られ、時に凱旋して階級をあげ、時に帰らぬ人となっていく中、ずっと演習にしか参加させてもらえないと気付いた時から知っていた。自分は前線ではなく外交で使うための駒なのだと。
この首ひとつで戦争がひとつなくなるなら、良い使い方だったと言うしかない。
「―――少し、歩くか。
滅多に見られることのないポルカの祭壇を見せてやろう」
女王に付いて、荒削りの石段を登る。絶壁に迫り出した岩の上部が八角形になっており、更にその上に大きな祭壇が掘り出されている。八角形の台には何やら幾何学的な線が走っているが、マティアスにはその意味は分からない。装飾は殆どなく、周囲に八つ、見たこともない動物が彫られていた。
「ここが、我が子シンとそなたが空に還る場所だ」
霊峰ポルカの白い頂を前に、白い祭壇に緋色の幕が映える。雲ひとつない抜けるような青。
宏漠たる大地から吹く風がどこまでも高く昇る。
空に還るための場所だと、素直にそう感じた。
「美しいところですね」
「なにか、聞いておきたいことはあるか」
「……いいえ、俺は臆病者なので。
ああ、でも、ひとつだけ。イドゥ・ハラルの考え方では、俺はシン王子に会えるのですか」
「会える。ずっと仕えてもらうことになるな」
「では、伝言を承ります」
アイディティア女王は、凛々しい顔を崩してきょとんとマティアスを見た。
「俺は、家族とは別れを済ませてきました。
陛下にも、王子に言伝の機会があっても良いでしょう」
「……な、に……」
じり、と一歩後退る足が石段を踏み外し、アイディティア女王がバランスを崩した。
マティアスは慌てて支えようとしたが、護衛の一人がそれを阻み、もう一人が女王を支える。
「==========!」
マティアスを阻んだ女兵士が何かを叫ぶ。
「……別に、何もする気はない、転んでしまうかと思って」
女兵士を宥めながら女王が笑う。
「ああ、いや、すまない。夫以外の男は私に触ってはならんのだ。ことと次第によっては、王位を返上する騒ぎになる。赦せ。
………ふふ、伝言か。面白いことを言うな。
そうだな、では伝えてくれ。
―――この親不孝者、と」
一瞬見せた表情に、我が子を失った母親の哀しみが滲んでいた。
「承ります」
伝えることができたなら、親不孝者同士酒を酌み交わしたりできるのかもしれない。そんなことを考えると、少し恐怖が薄らいだ。
 




