05
充てがわれた部屋は狭く、褪せたシーツの寝台は大きさはあっても固く寝心地が悪そうだ。
イドゥ・ハラルでは寝台にマットがあるのは貴族の家だけだと、事前にリリアに聞いていなければ冷遇と勘違いするところだった。
「ヴィリテの方からすれば、質素な部屋で申し訳ないのですが」
「いいえ、いい部屋をありがとうございます。マティアス様に寝台で休んで頂けるとは思わなかったので、嬉しいです」
「自己紹介がまだでした。
私はラビンドラ・パンデ。
八曜……ええと、この国の、貴族のようなものです」
「八曜」
「ご存知ですか」
「それは、はい……儀長様がお出迎えくださるとは思わず、申し訳ありません」
リリアはポルカの山にしたように、床に膝を折って頭を下げた。
「ああ、よろしいのです、頭を上げてください。
―――貴女は、我が国のことをよく勉強しておいでなのですね」
「いいえ、知らぬことが多く、失礼をしないかと不安ばかりです」
「私は、ヴィリテに留学していたこともあります。何かお力になれるかと思いご挨拶に参りました」
「儀長様、お運び頂いたここでお渡しするのは失礼とは存じますが、今後機会があるか分からないので………ヴィリテからイドゥ・ハラルに、受け取っていただきたいものがございます」
リリアは荷物の中から畳紙の包みを出し、恭しくラビンドラに差し出す。
ラビンドラは中身を察したのか、受け取った畳紙を優しく撫でる。少しの間目を閉じてから、悲痛な面持ちでマティアスを見た。
「マティアス殿下。
殿下が我が国を呪うのは仕方のないことと思います。ですが、どうか、合意を成して双方の民をお救いください。通訳殿には、憎しみでなく、親愛をお持ち帰りいただけますよう」
「俺も、開戦を避けたくてここに来ました。
貴国の大切な王子を、我が国の人間が奪ってしまったこと、誠に申し訳なく思います」
ラビンドラは何かを言いかけ、持ち上げた手を引いて口を噤む。
リリアが姿勢を正して質問する。
「ラビンドラ様。
大使様は、交渉はイドゥパクタル語で行うと仰いました。何か理由があるのでしょうか」
「……今回のことは、こちらでも落とし所を探っているのです。殿下に尋儀に参加していただき、神の前で決着をつけたいということです。私は、要塞の外交室で共通語で話し合いをと言ったのですが、賛同を得られませんでした」
「……まさか、神殿で交渉を……?」
「リリア、ジンギとは何だ?」
「ヴィリテでの裁判のようなものですが、その決はもっと厳正なものです。神殿で開かれ、神の前で決めたことは生半可なことでは覆りません」
「約束を破られることはないということか?」
「合意がとれればイドゥ・ハラルは理由なく約束を破ることはないと思います。寧ろ、交渉が決裂した時……」
リリアが下唇を噛む。続く言葉をラビンドラが繋ぐ。
「―――そう、決裂した時に、戦を止める術が殆どなくなってしまいます……殿下は不利な状況で交渉をせねばならず、儀長たちの納得を得るのは、………」
「先に加害した我々が有利でないことは仕方がない」
「………マティアス様、状況は最悪に近いです。
わたくしたちは、金銭的な被害ではなく、神を失った人の心を宥めなければならない。なのに、言葉を尽くすほどに不興を買う」
「……なぜ」
「ポルカの神殿では、イドゥパクタル語以外の言葉を発することは、神殿を汚すことだからです」
怒りを収める交渉に来たのに、喋ると顰蹙を買う。そんな条件の話し合いで、どう折り合いをつけるのか、とラビンドラは説得を試みたが、未だシン王子の死に心揺れている儀長たちは頑なだった。
「本当に、力及ばす、申し訳ない。
せめて事前にお伝えし、通訳殿とのやりとりを減らす方法があればと」
「………そこに、悪意はないのですか」
怒った風でもなく尋ねるマティアスに、ラビンドラは強く返す。
「全員の考えが分かる訳ではありませんが、尋儀を望むのは、神のお心に諮るため。敵愾心からではありません」
「………そうですか」
マティアスは顎を撫で、少し考えてから、渋い顔で言う。
「リリア」
「はい」
「貴女は俺の正妃候補だったから、宮廷内の事情はアリーダが教えている。殆ど会ったこともない人々だろうが、覚えているか?」
「アリーダが満足する程度には頭に入れてあります」
「今年と来年の歳出入見込みは覚えているか?」
「先月の諮問会議の資料は概ね目を通しました」
「うん。
―――リリア。今回の交渉を、貴女に一任したい」
リリアは驚いた顔をする。
ラビンドラは更に驚愕の眼差しでマティアスを食い入るように見た。
「わたくしはただの通訳で、彼らの交渉すべき身分ではありません」
「初めに貴女の言葉は俺の言葉だと思っていいと説明してくれ。納得させるのに必要なら、貴女を害する方法でなければどのようにでも応じる」
「マティアス殿下、自棄を起こさないでください! 信じていただけないかもしれないが、我々はちゃんと交渉を」
「ラビンドラ殿」
マティアスの声は落ち着いている。
「自棄ではありません。
俺はイドゥ・ハラルの文化には疎いが、神殿を汚すと言われて、それを良しとは思えない。それに……、」
少し躊躇ってから、マティアスはリリアを見た。
「―――そうでなくても、交渉事なら俺より貴女の方が勝率が高い」
床に膝をついたままだったリリアを立たせ、両手を握る。
「我が国の対価も、決裂の見極めも、俺の処遇も、貴女の判断で良い。
共に過ごした一年半、俺は貴女の庇護者だったが、官吏としてはずっと生徒のようなものだった。
どんなものでも貴女の判断を受け入れる。ヴィリテにも、俺の結論だったと報告して良い」
マティアスはリリアの静かな瞳を見る。
一方的な提案だ。リリアはマティアスの頼み事はきっと断らない。
こんな幼い人に課すような事か。そして自分はただ座っているだけのつもりか。心の中で抵抗する良識を捩じ伏せる。
―――全て承知の上で、今は、利用できるものは利用するしかない。
「重い仕事を押し付けている自覚はある。
でも、貴女に頼むしかない」
もう、何の礼をすることもできないけれど。
「………そうですね、わたくしは割と小賢しいのは得意です」
「貴女のような人のことは聡明と言うんだ」
「……交渉の、目標はどこですか」
「戦争を回避すること。
俺の首を、可能な限り高く売りつけることだ」
「―――かしこまりました」
納得がいかない様子のラビンドラに、マティアスは言う。
「ラビンドラ殿、条件が厳しいことを心苦しく思ってくださっているなら、もう少し力を貸して頂きたい。今晩、リリアの質問に付き合ってくれないか」
 




