04
結局リリアは昼も夜も食事をとらなかった。
書類仕事に切りをつけたマティアスは使用人に果汁と軽食のバスケットを用意させてリリアの部屋の扉を叩く。
日中に使用人たちが何度ノックしても音沙汰が無いと言っていたので、返事がないまま扉を開く。
「リリア、入るぞ」
部屋は暗く、窓から差し込む月明かりを頼りに寝台に近寄ると、横たわるリリアのシルエットが見える。
脇机にバスケットを置いて寝台横の燭台の灯を点す。仄かな灯りに照らされたリリアの目元が朱い。少し息が荒い気がして覗き込むと、びくりと痙攣してリリアの目が開いた。浅い呼吸を繰り返して、きょろきょろと動いていた視線がマティアスを捉える。
「…………マティアス、さま………?」
「すまない、起こしたな」
乱れ髪のまま上体を起こしてリリアは呼吸を整える。
「……ゆめ……?」
「夢じゃないよ」
「…………?
だって、マティアス様が夜這いにいらっしゃるなんて」
「夜這いじゃない。
食事をとってないから、心配で見にきただけだ」
寝起きだというのにリリアの表情が固い。
「……怖い夢でも見ていたのか」
「え、……えっと、はい、でも、……」
リリアの視線がきょろきょろと定まらない。なんだか良くない気がして、マティアスはリリアの目の前に掌を翳して視界を遮る。
「落ち着け。目が醒めたんだから、もう大丈夫だ」
「………はい……」
リリアはひとつ大きく息を吸って、ようやく静かな呼吸に戻った。
「夢が怖いのは、逃げようもなくて大変そうだな」
「マティアス様は、怖い夢は平気ですか」
「俺は夢は見ない」
「え」
「見ているのかもしれないが、全く覚えていない」
「えぇ……? ずるい……」
心底羨ましそうなリリアに笑って、マティアスは寝台に腰掛ける。リリアのひっくり返った髪を戻してやると、リリアは慌てて両手で髪を整えた。
「マティアス様、お渡りの時は予告を頂かないと、わたくし、湯浴みもしてませんし、勝負下着も着てませんよ」
「お渡りじゃない。勝負下着ってなんだ」
「マティアス様に見ていただくためのえっちな下着です」
「なんでそんなもの持ってるんだ」
「メイドが幾つも揃えてくれてます。ご興味がおありなら着てご覧にいれましょうか」
「…………俺の妻は、下着姿になんかならなくても十分魅力的だから、必要ない」
捻り出した台詞は及第点だったようで、リリアの口元が溢れる笑みを堪えるように可愛らしく歪む。
「マティアス様、今の台詞、今度観客の前で披露しましょう!」
「あらぬ誤解を招くからだめだ」
リリアはがっくりと肩を落とす。
「初めは勿体無いので普段着てたんですけど、着てもお渡りがない事にメイドが戸惑うので、今や美しいレースが箪笥の肥やしです」
「………そうか」
「先日サイズアウトしたものは一度も着てないので、ネッカチーフにリメイクしてたら、久しぶりにアリーダの雷が落ちました」
「発想が自由すぎる」
「マティアス様のために頑張ってたのに」
「俺に嫁の下着を首に巻いて社交させる気だったのか」
「だって、レースが」
それはマティアスのためではなくレースのためではないのか。
「……貴女は衣装に興味がない割に、レースや刺繍が好きだよな」
「それは、やはり素晴らしいので」
「まあ、そうだな」
「特にレースは、一次元が二次元に変換されていく様に胸が高鳴ります」
「………そうか」
マティアスはせっかく整えたリリアの髪を大きな手でくしゃくしゃと掻き回す。
「思ったより元気そうで良かった。
軽食を作ってもらってきた。食べられるか?」
「ありがとうございます、お腹空きました」
起きあがろうとするリリアを制止して膝にバスケットを乗せてやる。リリアは泣き腫らした目元のまま嬉しそうに笑んだ。
「マティアス様の奥さんになる方は、幸せ者ですね」
「俺の奥さんは貴女のはずだが」
「はい、わたくしも幸せ者です」
「……そんなに泣かないといけないのに?」
リリアは気まずそうに少し目を伏せた。
形の良い白い指がバスケットの縁を弄る。
「すみません」
「なにが」
「一生会えないつもりで、お別れしてきた筈でした。マティアス様の御厚意で、会えて、手紙も書けるのに、不満を述べるようなことを」
「いい。当たり前のことだろう。
―――アーネストが、王都から離れている時か、俺かアーネストが付いて行けるお忍びの時になら、会っても良いんじゃないかって言ってる。あまり頻繁には無理だがそれで我慢してくれ」
青い目が、燭台の灯りを弾くほどに見開かれる。
「―――でも、そんな……御厄介を」
「いいよ」
「わたくし、お返しできることが何もないです……身体ひとつしか持っていないのに、マティアス様はお召しにならないし」
「まだそんな事を言うか」
マティアスは呆れて眉を下げる。
「………貴女は今でも、俺に抱かれるのは嫌じゃないのか」
「嫌じゃないですよ」
「俺の命令なら、その辺の男に抱かれることも構わないんだろう」
「構いません」
躊躇いのない返答に、マティアスは溜め息を吐いた。
流石にその辺の男と同列にされているとは思わない。だが、ではどれくらいの違いがあって、それがどういうものなのか、マティアスには知る術がない。
仄暗い部屋の中。
重いカーテンが締め切られた寝室は、会話を止めると己の鼓動すら響きそうな静けさが降りる。
燭台の光を弾いて、リリアのシルバーブロンドが柔らかい暖色に揺れる。マティアスが掻き混ぜたせいで顔に掛かったままの髪を払ってやると、無骨な指がリリアの目元に触れた。そのまま、少しだけ指の背を頬に滑らせる。
腫れた目元が、リリアのアレクシスに対する思慕の深さを雄弁に語る。
「………リリア、俺は―――俺もアレクシスみたいに、貴方にだけは、って言って欲しいよ」
アーネストは、マティアスはリリアをどうにでも出来ると言うが、現実にはリリアの言葉ひとつ望むようにはならない。
リリアが困惑した顔で眉を下げる。
「………? あの、ごめんなさい、よく分からない……」
「……そうだな、俺も良く分からない」
首を傾ぐリリアの頭をぽんぽんと叩いてマティアスは立ち上がる。
「俺はもう寝るけど、怖かったら誰か付けておこうか?」
「大丈夫、です」
「そうか。何かあったら呼べ。使用人に、起こして良いと言っておく」
おやすみ、と頭を撫でてからリリアの寝室を後にした。




