12
談話室の窓からバルコニーに出て、リリアと二人で宵闇を青く反射する階段を降りる。
装飾用の鐘がバランス良く配置された踊り場でマティアスはベンチに座る。リリアはバルコニーの手摺に手を置いて佇んでいる。
リリアはマティアスと二人になると鉄仮面を外してくれたが、イリッカの好みを知り尽くしているメイドたちに飾られた姿はまるで見知らぬ令嬢のような印象を受けた。
マティアス自身が子どもには手を出さないと公言しているので、二人は未だに周囲から白い結婚であると認識されている。恐らくエアハルトと再婚しても年齢の釣り合いで組み直したか―――イリッカがより有用なマティアスの縁談を見つけただけだと世間にも納得されるだろう。
「………エアハルトと、再婚するのか?」
リリアは静かにマティアスを見た。
「マティアス様が賛同されれば、そうなると思います」
「貴女が言いだしたのか?」
「違います」
眉ひとつ動かないリリアの真意が分からない。
「………俺の妻は、もう嫌か」
「嫌じゃないです」
聞き覚えのある返答を聞いてマティアスは言葉に詰まる。
マティアスがリリアの『嫌じゃない』という言葉を最初に聞いたのは、婚儀の二日後に部屋を訪れた時だ。殆ど初対面の、今回と同じように話も聞かなかったマティアスに抱かれることを、務めだから嫌ではない、と言っていた。
マティアスは己の足元に視線を落とし、自分の成長の無さに恥じ入る。
「………すまない、俺は、貴女は人民のことなど興味ないのだと勝手に思い込んで」
膝の上で拳を握り込む。
小さな綻びから異変に気付き、リリアは考えうる対処はしていたのだ。それを話も聞かずに一方的に距離をとった。
その後マティアスがぐずぐず思い悩んでいるだけの間にもリリアは民の為にひとつづつ進んでいたというのに―――
「そうですね、人民、あまり興味ないです」
「そうだろう、あんまり興味、………………
え?」
想定外の言葉にマティアスは間の抜けた音を返す。
「人民にはそんなに興味ないです」
繰り返されたが、耳が拾った音を脳が上手く処理できなかった。
「いや、………え?
じゃあどうして流行り病に対処しようとしたり、銅山の人工を調整したりしてたんだ? その、母上の孤児院の子どもにも教育を進めてると聞いた」
「孤児院での学習は、子どもに限らず門戸を開いていただいてます。
流行り病は、ルチアが興味ありそうだから声をかけただけだし、人工の調整はニックのサンプル数を増やしたくて」
「母上を説得して、人々に安く薬を」
「治験段階の薬なので、ルチアが効果測定のためにもっと患者が欲しいって」
「……民を憐れんでいたのではなくて?」
「わたくし、学問する人にしか興味はないので、不特定多数に対する憐れみとかは、特に」
リリアは平然とどこの悪徳妃かという台詞を放つ。
「でも、…………、山崩れの対応も、林業の持続のことまで考えてくれたじゃないか。数だけが目的ならそんな必要ないのに、金のない人にも、バクーラ宗派に傾倒している、その……こう言ってはなんだが、自分の頭で考えない人たちにも薬が届くようにしてくれただろう?」
「それは、きっと、マティアス様ならそうしたいだろうと思ったので」
マティアスの問いにリリアは当たり前の事のように答えた。
冷たい風が吹いてリリアのシルバーブロンドの後れ毛がふわりと踊る。バルコニーの小さな釣り鐘が乾いた音を鳴らした。
「………俺のため?」
「間違ってましたか?」
「だって俺は、勝手な思い込みで貴女のことを」
「合っていたので良いんじゃないですか?」
「……そう、いうものでもないだろう」
「そうなんですか?」
リリアは首を傾ぐ。
「俺は、愛想を尽かされたのかと思って……そうじゃないならなぜ再婚話なんかに応じているんだ」
「イリッカ様が、わたくしがエアハルト様と再婚すれば、次のマティアス様のお相手は、マティアス様の希望に添うと仰ったので」
「何だそれは。貴女の希望はどこなんだ」
「わたくしは、マティアス様のお役に立つなら、誰と再婚するのも嫌じゃないです」
十四の少女が何の躊躇いもなく言う言葉にマティアスは唇を噛む。
「…………学園を、守ったからか」
「はい」
「リリア、それは違う。
学園が残ったのは、それだけの価値があったからだ。俺は窮状を宰相に話しただけで、父上も宰相も初めから残す方向で考えてくれた。
実際に減った予算でやりくりしているのは学長だし、生活費が減らされても学術を続けているのは会員たちだ」
言い募るマティアスをリリアは不思議そうに見遣る。
「―――俺は、貴女にそんな恩義を感じられるような事は、何もしてない………」
リリアは暫く考えるようにしてから、俯くマティアスの隣に腰掛けた。
「マティアス様、わたくし、淑女教育、辛かったです」
リリアはマティアスから視線を外し遠くを見る。
「学園が残る最後の機会だと思って頑張りましたけど、それでもうまくいく可能性はあまり高くないと思っていました」
「そうなのか」
「マティアス様は豊満な女性がお好きだし」
「その与太話はもう忘れろ」
「婚儀までの半年間でお互いを知り合えば良いと言われて王都に入りましたけど、マティアス様は一度もお屋敷にいらっしゃらないうえ、結婚に納得していないという話ばかりが聞こえて」
当時マティアスは婚儀の直前まで結婚を拒んでいた。王都入りしたリリアと顔合わせの後、次に会ったのは婚儀の当日であった。
「わたくしには、少しでもお情けを頂いて、マティアス様に縋るしか方法はなかったのに―――」
「………すまん」
「ハリーの言葉がなかったら、諦めていたかもしれません」
「誰だ?」
「わたくしにちょっかい出そうとしてアレクシスにぼこぼこにされた化学者です。
ハリーが、嗜む男は、大人の女性が好みでも、十四歳は別腹だって」
「………そいつはただの変態だ」
「婚儀の日の夜は、わたくし、どきどきしながらマティアス様をお待ちしてたんですよ。
わたくしの旦那様になった方が、十四歳を別腹で嗜む方だったら、良いなって」
「………………そうか。期待はずれですまないな」
だんだん自分が何を聞かされているのか良く分からなくなってマティアスは眉間を押さえる。そんなマティアスを気にもせず、リリアは話を続けた。
「初日にマティアス様を怒らせてしまって、わたくしは一度、諦めました。でもマティアス様は学園を残してくださった。
マティアス様のお役に立つなら、わたくしに出来ることはなんでもします」
「だから、俺は何もしていない。
俺が言わなくても状況を知れば多分宰相は動いたし、」
「どうやって知っていただくんですか?」
リリアがマティアスの言葉を遮る。
「わたくしも、状況さえ周知できれば、誰かが動いてくれるという期待はありました。
でも、そんな地位の方に陳情できる機会は、田舎の公爵の娘にはなかった。
わたくしが王都に入った時にはもう解体に向けて準備が始まってました。マティアス様、そんな学園の状況を聞いたことがありましたか?」
「………ない、と思う」
そもそもマティアスは学園のことは名前しか知らなかった。
「マティアス様の側室になれば、やんごとなき方々にお会いできる機会はあるでしょう。
でも、初対面の十四の娘が語る国家予算の話を、誰が聞いてくれますか?」
「………まぁ、それは、そうだ」
「今思い返しても、わたくしにはマティアス様の関心を得てお話を聴いていただくしか方法はなかったと思います」
「………そうかもしれない」
「どれくらいでそんな関係が築けるのか、間に合うのか、とても不安でした。婚儀からたった三日で予算を頂けるなんて、思いもしなかった……」
リリアは祈るように組んだ指で口元を押さえ、思い返すように瞼を閉じる。
「たぶん、普通なら、聴いてもらえなかったんです。
納得してない側室なら会わなくても良かったし、気分を害した相手の食欲など気にしなくて良かったし、知らない子どもの泣き言など、ただかわいそうにって言っておけば良かった」
マティアスが黙って聴いていると、リリアはマティアスを見てふと微笑んだ。
久しぶりに見るリリアの笑顔に少し気が軽くなる。
「でもマティアス様は、わたくしに会いに来て、不愉快な思いをしたのに心配して―――殆ど初対面のわたくしの言葉に、子どもの戯言と言わず向き合ってくださいました。
学園と、わたくしの心を守ってくれたのは、マティアス様です」




