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国王の謁見は、一人ずつ入室し、名乗り、祝福を受けて退室する形式的なもので、個人的に会話ができるようなものでもなく速やかに進行した。
デビュタントの舞踏会は二時間ほどしかなく、野心的に新たな交誼を求める者は、舞踏会までの時間を有効活用する。解放されたホールと中庭には、デビューする者たちの他にも既に何人もの貴族が集まり、ワインを片手に交流が始まっている。
リリアと軽食をつまんでいたマティアスは、その中にクライン侯爵の姿を見つけ、声をかけた。
「侯爵。先日は時間をとってくれてありがとう」
「これは、マティアス殿下。そういえば奥方がデビューなさるのでしたな。
初めまして奥方様、アントン・フリードリヒ・クラインでございます。お見知り置きを」
「お初にお目にかかります、リリア・ルイーゼ・フランツィスカです」
洗練された丁寧なカーテシー。
自己紹介ではフルネームを名乗るのがマナーであるが、王族は姓を省略することが通例であるため、式の後はリリアはいつも名前だけを名乗る。クライン侯爵は若い娘に軽んじられたと思ったのか、一瞬不機嫌な顔をした。
「はは、これはお可愛らしい。
こんなめでたい日に、殿下には残念なお知らせをせねばなりません。例の事業は着工が来週に早まりましてな」
「……早過ぎませんか。まだ計画途中だったのでは」
眉を顰めるマティアスを見て、クライン侯爵はにやにやと笑う。
「それは、殿下が中止して欲しいと仰るので時間を差し上げていただけですよ。補償を頂ければ延期すると申し上げているのに」
「補償額を算定するための調査に応じてくれれば、適切に支払う準備はある。言い値で払えないことは理解して欲しい」
「そういうところが、お心が足りないと申し上げているのです」
クライン侯爵は下から品定めするようにマティアスの顔を覗き込む。
工事が完成すれば、影響を受ける農民は数万人に及び、農民自体も路頭に迷ううえ、その農地が支える人々の生活にも大きな負担が乗る。その対策にかかる費用に比べれば、確かにクライン侯爵の提示する額は低い。
「今なら、まだ、延期に踏み切ることはできますが?いかがされるかな?」
「……どうしても、考えを変えてはいただけないか」
「殿下、まるで私が悪者の様な言い方は慎んでいただきたいですな」
「そういうつもりはない。
だがその事業に、下流の農民の不利益に値するほどのメリットはないだろう」
「そんな事は私が判断することです。
事業はやめろ、金も出さないでは子どもの駄々ではありませんか」
「―――農民を哀れには思ってくれないか」
「くどいですぞ。
領自治は、陛下から各領主に与えられたもの。殿下はそれを否定なさるか」
「……そうか。残念だ」
話を打ち切ったマティアスに、クライン侯爵は驚いて食い下がる。
「よろしいのですか?
今なら五億で延期いたしますよ?」
「うん、もういい。
フィッシャー侯爵に捷水路の話を進めてもらうことにする」
突然出てきた第三者の名前に、クライン侯爵は目を見開く。
アルノー川はフィッシャー侯爵領からクライン侯爵領へ流れ込み、蛇行しながらクライン侯爵領のほぼ全域に水の恵みを行き渡らせた後、再びフィッシャー侯爵領に抜ける。
「……フィッシャー領で捷水路……?
まさか、そんなことをしたら」
クライン侯爵領に流入するアルノー川の水量は半減で済めばいいところだ。――そして、直轄領北部へは今まで以上の豊かな水が供給される。
「ばかな、そんな工事には軽く十億はかかりますぞ、こっちは五億で延期すると言っているのに!」
クライン侯爵の大声に、周囲の注目が集まる。
「費用はフィッシャー侯爵領で負担してくれることになっている。
その代わり、来年からの交易路はあちらに整備し直すことになった」
「なっ、私どもの交易路はどうなるのです!」
「あれは国のもので、貴方たちの交易路ではない。廃路になるので、必要ならそちらで整備を続ければ良い」
「な、そんな暴挙が許されると思ってるのか!
我が領の被害はどうなる!
フィッシャーめ、そんなこと一言も……
異議だ、議会で異議を申し立てる!」
「貴方が何度も言っていたように、河川の整備は各領に権がある。棄却されると思うが、好きにすると良い」
マティアスの言葉に、クライン侯爵はわなわなと唇を震えさせる。
「そんな馬鹿な、
……殿下、殿下、実は私は今回の工事には反対だったのです! 下流の農民のことを考えれば、ええ、勿論ですとも。
私めが必ず中止させ、いえ、もうほぼ中止が決まっておりまして」
「そうか。残念だが、捷水路はもう中止にはならない」
淡々と申し渡すマティアスに、顔を青くして食い下がる。
「そんな無慈悲がまかり通る筈がない!
殿下、貴方には我が領の民に対する憐れみはないのですか!!」
「―――そうだな。貴方のような領主を戴く民を、不憫に思う」
耳に届く周囲のひそひそと囁く声に、クライン侯爵は己の威信を傷つけたマティアスを般若面で睨めつけた。
「き、貴様ぁ、この若造がぁ!」
マティアスの胸ぐらを掴んで拳を振り上げる。
瞬間、クライン侯爵の喉元に白刃が突きつけられた。
「下がってください。
王宮で暴力沙汰は御法度ですよ」
アーネストが、いつもより低い声で警告した。
駆けつけた憲兵が侯爵を確保する。
「若造どもが、この私に恥をかかせよって……! 覚えてろ、ちくしょう!!」
憲兵に押さえつけられながら退出する侯爵の姿を、周囲の貴族たちはひそひそと囁きながら見守った。
「ヴォルフ様が『捷水路の話を出さずに撤回させたら見逃してやる』って言った時に、俺はちゃんと、無理だから時間の無駄だって言ったろ」
「うん……」
「必要以上に落ち込むなよ。
クライン侯爵領の人民が苦しむのは、お前のせいじゃない」
「分かってる」
「アーネスト、かっこいいですね」
リリアが感心するようにアーネストを見上げた。
「ありがとう。カッコ良く対処できる時だけ動くのが俺の信条だからね」
爽やかな笑顔でばちんとウィンクするアーネストは大層魅力的で、リリアは、音声が間違いかしらと耳をとんとんと叩いた。
「かっこよくできない時はどうするんですか?」
「そんなの、マティアスが自分で何とかするよ」
「なるほど」
「ちょっと憲兵長に話してくる」
控室に戻ってて、と手を振って、アーネストは小走りに門へ向かった。
「―――今のは、俺たちのために動いてくれたんだよ」
リリアはマティアスを見上げる。
「俺が対応すると、俺と侯爵の揉め事になる。下手したら貴女のデビュタントに泥を塗る。
アーネストも伯爵家だけど、今は俺の侍従としてここにいるから、侯爵はただの騒ぎを起こした人で済んだ」
「なるほど、アーネストはかっこいいですね」
そう言ってリリアはアーネストの消えた門をもう一度見遣った。




