9、土魔導士、あの日を思い出す。 後編
父上が両手を叩くと、奥に控えていた老齢の執事セバスチャンが一人と一匹をこの“秘密の庭”につれてきた。
それは耳が千切り取られ、目隠しされた男と生きたウサギだった。
ウサギは両耳をセバスチャンに握られ、バタバタと足をばたつかせ、男は猿ぐつわがかませられ、声が出せないようだった。よく見ると、男のアキレス腱が切られ、足首から血が垂れ流されていた。
セバスチャンは下を向いている。
アークホルンの血を受け継がない彼がここに入れるのはひとえに、代々アークホルン家の臣下の家系であったからだ。
「ご苦労、セバスチャン」と父、ミハイルは微笑むと、その一人と一匹をセバスチャンから受け取った。セバスチャンはこうべを垂れて、そのまま引き返してゆく。
オルテガは、この一人と一匹が儀式にどのように関係しているのだろうか、と思った。
すると、父上は懐に閉まってあったナイフをこちらに放り投げた。
「手に取れ、オルテガ」と父上は言った。だから、オルテガは芝生の上に落ちたナイフを手に取る。
次に父上はウサギをこちらに差し出した。
「このウサギの息の根をとめよ」と父は言った。だからオルテガは聞き返す。
「いつもの狩りのように息の根を止めるだけでよろしいのですか?」
「うむ。そうだ」と父は言葉少な目にいった。
それならいつもやっている。そして、オルテガはアークホルン家の料理を作る幾人かいる召使いの一人の業務も兼任していた。だから、オルテガにとってウサギをさばくぐらいお手のものだった。
……これが成人の儀なのだろうか?
そんなことを思いながらオルテガはウサギにナイフを突き刺し、その息の根を簡単に止めた。そして皮を剥ごうとしたところで「そこまでやる必要はない。今はこのウサギを食べるのではないのだから」と父上は言った。
だから、オルテガ少年はその手をとめる。
「あの……ウサギはどうすれば……」
「その辺に放り投げればよい」
父上の意図が分からなかった。食べもしない生き物をなぜ殺したのだろう?
「では、次はこっちだ」と父上は言い、手に持っていた鎖をオルテガに向けた。
え?
心臓の鼓動が早く鳴る。
父上の手には鎖が握られていた。セバスチャンから受け取った鎖だ。その鎖は目隠しをされ、猿ぐつわを噛ませられた男の首にハマっていた。
「そ、そのそれは……この男の人を殺せ、という意味ですか?」
「そうだ」とまた父は平板な声で言った。
オルテガの頭の中はますます混乱していった。
なぜ父がそんなことを言うのかもよく分からなかった。
そうだ、とオルテガは思った。彼は罪を犯したのだ。きっとそうなのだ。誰かを殺したり、人を傷つけたりした。だから、父上はこんなことを言っているのだ。
だからオルテガは勇気を振り絞り父に聞いたのだ。
「……そ、その……あの……彼は何か罪を犯したのでしょうか?」
「罪?」と意外そうな声を父、ミハイル=アークホルンは出した。
「そう、罪を犯した男だからぼくに彼を殺せというのですか? ミハイル様……」
「いや。……違う」
「あの……では……なぜですか?」
「なぜ? とは?」
「何故彼を殺せと、ぼくに命じるのですか?」
父上は微笑んだ。それは今まで見たことのない酷く奇妙に歪んだ笑みだった。
「その質問は自分にした方がよいみたいだなオルテガよ」
??
「自分に質問できない、というのであれば、我が尋ねよう。我が息子オルテガよ。逆にお前は何故この男を殺さないのだ」
「え? それは……」
「お前はさっき、あれほど簡単にウサギを殺したではないか。そこに打ち捨ててあるウサギだ。何故ウサギは殺せて、この男は殺せないのだ? 何故だオルテガよ」
「え? そ、それは…………」
「うん?」
「……」
「……」
「ひ、人だからでございます」と数秒の沈黙の後にオルテガはそう言った。
「ふむ。何故人はウサギと同じように殺してはいけないのだ?」
「ひ、人の命は尊いものだからでございます」
「ウサギよりもか?」
「はい!」と答えたオルテガの腹をミハイルの拳が突き刺した。
オルテガはナイフを握りしめたまま、膝から地面に崩れ落ちる。
「自分を恥じるのだ、オルテガ」と父上は握りこぶしを固めたまま言った。「そなたは、まったく真実が見えておらぬ。人間がウサギよりも上等な存在と誰が決めた? 立て! 立てオルテガ! 立って我が問いに答えるのだ! 人間の命がウサギの命よりも尊いと誰が決めたのだ! 答えよ!」
オルテガはお腹を押さえながらゆっくりと立ち上がる。
気が遠くなりそうな痛みだった。
「尊いからです」とオルテガは答えた。「人は言葉を喋れますし、文字も読めます。服だってきます……。そして、優しい気持ちだって持っています。憐れむ心や、それに……神だって……神様だってそうおっしゃるはずです」
「はっはっはっはっはっは」と父は笑った。「神か。如何にも神を信じるものはそういいそうだな」
父の言葉の意味が分からなかった。
「よいか」と父、ミハイル=アークホルンは言った。「すべては巧妙な偽りぞ。お前が見聞きしたすべては偽りだ。もっと正確に言えば、この社会が作り上げた偽りの価値観である」
「いつわり?」
「そうだ。命は命。そこに上等か下等かなどの差はない。あるのは強いか、弱いかだけだ。そのことをよく覚えておくのだオルテガよ。この男は奴隷だ。先日市でセバスチャンに買ってこさせた。この意味が分かるか? オルテガよ」
「……」
「この者はこの社会において弱いからこそ奴隷になったのだ。決して下賤者であるから、下等な存在だから奴隷になったのではない。社会において弱い存在だからこそ奴隷になったのだ」
「ならば……」
余計にいたわるべきではないか。
そうオルテガは言いたかった。
父、ミハイル=アークホルンは続ける。
「よいか、覚えていなさい。お前はウサギよりも強いからウサギを狩って食べることができる。お前は蟻よりも強いから気分次第で蟻を殺せる。よいか? この世界にどこまでも広がる真実。それは強いか弱いか、ただそれだけだ」
「し、しかし……」とオルテガは震えた。「どうして人を殺さなければ……」
「弱いからだ」と父上は言った。「弱いからこそ、もっと強いこのミハイルに生殺与奪の権利がある。この奴隷を殺すのも生かすのも、すべては我の胸三寸。その心次第だ。この意味が分かるか? もしもこの男を殺したくなければ殺さなくてもよいのだぞオルテガ。その場合、我が命に背いた、ということでお前を殺す」
オルテガの体を雷が落ちたような衝撃が駆け抜けた。
え? え!? 殺す? ぼくを殺す?
「さぁ、十数えるぞオルテガよ。その間にお前はどちらかを選ぶのだ。社会が作り上げた偽りの価値観や美学を大切にし、死を選ぶか。それともこの世の真実に従うか、をな」
全然話が呑み込めなかった。
どうして突然ぼくを殺すと父上は言い始めたのだ?
なぜだ?
「十……」と父上はカウントを始めた。
オルテガはナイフを握りしめ、目の前の男を眺めた。心臓がバクンバクンと鳴っていた。膝も震え、全身が痙攣したように上下した。
殺したくなかった。
こんなの間違っている、と思った。
すると、目が見えず、耳も聞こえないはずの奴隷の男は、何かを感じ取ったのか突然叫びだした。それは猿ぐつわにさえぎられ声にならなかったが、必死の抵抗に思えた。
最後の抵抗。
すると、彼の叫びに心が震え、殺したくない、という気持ちが体中を支配する。
だが「七! 六!」と父上のカウントは無情にも進んでゆく。
いやだ。
こんなの間違っている! 弱いからすべてが否定されるなんて、そんなこと絶対に間違っている!
そう思いナイフを父に向ける。
すると、父上は微笑み、アークホルンに代々伝わる大剣「グリフィス」を抜いた。そして、父上は上段の構えをとり、この土を踏みしめた。
その全てが禍々しく見えた。
そして、同時にこう思った。
父上は本気だ。本気でぼくを殺す気なのだ。
「四……、三……」
全身の皮膚という皮膚が粟立ち、この父に立ち向かうことを拒否していた。
何もかもが震え、どうしようもなくなる。
だから、たぶん、卑しくもオルテガは涙を流し命乞いをしてるであろう奴隷の方を向きなおしたのだろう。
自分でも自分がよく分からなかった。
どうして、ナイフを握っているのか。どうして勢いよくこの大地を蹴ったのか。そして、どうしてこのナイフは奴隷の胸に突き刺さっているのか。
ナイフはいつの間にか奴隷の心臓を貫いていた。
奴隷の心臓の鼓動に合わせるようにオルテガの顔に血が吹きかかる。
奴隷の顔をのぞき込んだときには既に彼は絶命していた。
胸から吐き気がこみあげてきた。
それをそのままオルテガは庭にぶちまけた。
人を殺してしまったという重みがナイフを通じて伝わってきたのだ。
その手に肉の感触がまだ残っていた。
チン、という剣を鞘に納めた音が後ろでする。
「最初だけだ」と父上は言った。「最初の一回だけはそういう気持ちになる。他の物事でもそうだろう? だが、やがては慣れるものだ。何にでもな。人殺しにだけ慣れないなんて、そんなことは嘘だ。人はなんにせよ慣れるものなのだよ、オルテガ」
それから父上は手を差し出してきた。
「よくぞ成人の儀を乗り越えた。オルテガよ」
オルテガはその手をとり、立ち上がる。
自分の体が、何か別の物体と化した気がした。
いろいろな感情がない交ぜになり、どうしてよいか分からなかった。
しかし、刻み付けられたのは強烈な教訓だった。
強いものが弱いものをどうにでもしてよい、という圧倒的な現実。
だからこそナイフは自然に奴隷の心臓へと向かったのだ。
知らず知らずのうちに、その現実をオルテガは理解し、実行してしまっていたのだ。
「オルテガよ」と父上は続けた。「お前は落とし子という立場にいる。ミッドランド法によれば、お前の立場はあの奴隷とさほどに変わらん。我の言っている言葉の意味が分かるな? オルテガよ」
あのあとの言葉は強烈に印象に残っている。
そう、今に至るまで……ずっと……
「二度と我に刃を向けぬことだ。お前は弱い。お前が死んでも誰も気にしない。お前の命など、このミッドランドではクズに等しいものと心得よ。よいな? 落とし子のオルテガよ」