さいごの賭け
初投稿です!
11分で読める短編小説。気軽に読んでみていただけたら、嬉しいです!
雲一つない青空だった。病院の屋上。車椅子の背もたれに寄りかかり、顔を斜め45度に上げ、180度のパノラマで眺める。空は、宇宙まで透けて見えるような澄んだ青色だった。
まさかこの後、あんな出来事が待っているとは、この時は思いもしなかった。
医者から、“余命1ヶ月”と言われたのは、ちょうど1ヶ月前。明日でリミットが過ぎる。僕はもうすぐ死ぬらしい。今日か明日か明後日か……。死んだら、あの空の彼方へ行くのだろうか?
昨日までベッドで起き上がることもできなかった。でも今日はすごく調子がいい。わがままを言って、一人で屋上に来た。ああ、今日は本当に体が軽くて気持ちいい。死ぬ直前の人間には、こういうことがよくあるらしい。回復するのか? と見せかけといて、結局逝くんかい! みたいなやつ。いやいや全然笑えない。
この世を去らなければならない。でもそれはもっと先のことだと思っていた。“死”は、全生物に平等に与えられた権利なのに、それが僕に回ってきただけなのに、30代の僕には、ただの理不尽な出来事でしかない。悔しい。本当に悔しい。でも、どうしようもない。最新の設備と技術を持つこの病院でも、僕の病は治らなかったんだから。青い空も言っている。もうあきらめろって。
「あのぅ」
声をかけてきたのは、一人の青年だった。年は20代前半くらいだろうか。さっきまでこの屋上には僕しかいなかったのに、いつ彼がやってきたのだろう。全然気が付かなかった。彼は、サカイと名乗った。今どきのシュッとした顔立ちをしているが、ひどく痩せて、青白い顔をしている。僕よりも病人のようだった。
「金城先生ですよね? Dメンタルクリニックにいらっしゃった」
青年はおどおどした態度で、僕の職場を言い当てていた。元職場だが。今の僕は無職の患者だが、かつては“先生”だった。心理士として心の病気と向き合ってきた。サカイくんは僕の職業を知って、話しかけてきたようだ。会ったことはないから、何かで僕のことを知ったのだろうか。
「相談したいことがあるんですが、聞いていただけませんか?」
カウンセリングを受けたいということらしい。“余命”な僕にそんな資格があるだろうか? カウンセリングには、パワーがいる。相手を、本人も意識できていない核の部分に導かなければならない。今の僕には、そのエネルギーはない。でも……
「聞くだけなら……」
「え?」
「聞くだけでいいなら」
「ええ。もちろん!」
「本当に、聞くだけですよ」
「はい、お願いします。あぁよかったぁ」
本当は、聞くこともつらかったが、僕も心の医者の端くれだ。断ることはできなかった。それに、“聞く”という行為だけでも、相手が自動的に核へと向かうことがある。わずかだが、それを期待するしかない。僕にはできる。できるぞ。今日は調子がいいんだから。
サカイくんは、屋上の隅っこに置いてあったプラスチックの白い椅子を、僕の車椅子の横に持ってきて座った。
「あの……俺、仕事が面白くないんです」
絶望的な顔でサカイくんは言った。僕はおもわず微笑みそうになる。こちらは、ほんの数分前に、リアルに“死”で絶望していたから、『仕事が面白くないごときで!?』と反射的に思ってしまったのだ。カウンセラーとしてあるまじき反応。反省する。
「お仕事は、何を?」
「配送業です」
「あぁ。クロネコさんとかそういう感じの?」
サカイくんは頷き、受け取ったものをただただ運ぶだけの仕事なんです、と力なく言った。
「そっかぁ。その仕事が嫌だなって思ったきっかけみたいなものって、あった?」
サカイくんは考える。きっかけきっかけ……とぶつぶつ言って思いを巡らせている。
「特に思いつかないですね。ただただしんどいなぁって」
「そっかぁ……」
僕が元気なら、『思いつかない』という答えに対し、もう一度踏み込む質問をするのだが、今の僕にはその気力はない。寄り添うことしかできない。
「あれ? 聞くだけじゃなかったでしたっけ?」
「あ」
サカイくんの言葉で初めて気が付く。そうだった。聞くだけだと念押しまでしたのに、僕は無意識に質問していた。
「いや。俺は嬉しいですよ! ばんばん質問してくれるの。悩み解決しそうだもん!」
僕は微笑んで、質問させてもらうことにした。エネルギーが続く限り。いや、このカウンセリングをすること自体、僕のエネルギーになっているのかもしれない。
「あ、えっとなんでしたっけ? あ、しんどいと思ったきっかけでしたね! う~ん。わかんないなぁ。最初からだったのかなぁ……でもマジでしんどいんです」
「マジでしんどい……そう、思ってるんだね」
「はい……マジでしんどいって、マジで思ってます」
マジで、を連発され、なぜか脳みその端がぴりりとした。仕事のしんどさなんて、死の宣告に比べたら、マジで悩みのうちにも入らん。さっき反射的な思いを即行で反省したにも関わらず、どうしようもなく腹が立ってきた。でも、それと彼の悩みは関係ないのだ。僕は、自分の怒りを横に置き、質問に集中した。
「しんどい、と思ってしまうことが、サカイくんにとって、どんな風に問題なの?」
「どんな風に? どんな風にかぁ……。その角度で考えたことなかったなぁ。いやぁ、さすがだなぁ、金城先生」
サカイくんの笑顔は、少年らしくてさわやかだった。僕もあからさまに褒められて、自然と笑顔を返した。サカイくんは少し考えて答える。
「う~んそうだなぁ。仕事ってさ、誰かを幸せにするためにするもんでしょ?」
「まあ、そうだね」
「なのにさ、俺の場合、悲しくさせちゃうんだよね」
「うん? どういうこと?」
「俺が運ぶものって、ちょっと特殊だからさ」
特殊で悲しませるもの? なんだそれ……麻薬的な? 密売的な? このサカイくんが? こんなピュアな笑顔を持つ青年が? いや、まさか……。
僕は正直動揺し、ちょっと顔に出てしまった。
「大丈夫ですか? 金城先生」
サカイくんは心配してくれる。
「う、うん。ごめんね」
「すみません。ムリさせちゃって」
やっぱりやさしい子だ。そういえば、さっきからくだけた話し方になってきている。最初の緊張感が取れてきて、いい関係が築けているのかもしれない。僕は嬉しかった。まるでこの屋上が、Dクリニックのカウンセリングルームのように感じた。僕は深く息を吸い、落ち着きを取り戻す。例え、目の前の青年が麻薬の運び屋だとしても、今は僕の患者だ。
と、急にサカイくんは立ち上がって、僕の方を向いて言った。
「やっぱり、もういいです。忘れてください」
「いや、続けよう。大丈夫だから」
「でも……」
本当にやさしい子だ。なんとかしてあげたい。心からそう思った。
「僕が続けたいんだ。だから、座って」
サカイくんは、嬉しそうに微笑んで、プラスチックの白い椅子に座った。
僕は質問を続ける。
「その仕事が人を悲しませる、っていうのは、何を基準にそう思うの?」
「それはもう、世間一般としてです。常識的に見て」
「本当に? みんながみんな悲しむの?」
「いや……たまに、ホッとしてる人もいるかな……」
「そうなんだ。悲しむ人もいるし、ホッとする人もいるんだ」
「そう言われてみたらそうだな。悲しむ人ばっかりではない……でもなぁ……」
「サカイくんにとって、この悩みで支障をきたしているようなことはある?」
「そうですね……良心が傷つきます」
「良心が傷つくんだ……。他には?」
「落ち込んで、集中力がなくなったりするかな」
「なるほど。落ち込んで集中力がなくなる……それはしんどいよね」
「そうなんです。マジでしんどい」
「マジで、か」
マジで、を柔らかい気持ちで繰り返した僕を、サカイくんはじっと見つめた。気を悪くしたのか? と思ったら、違っていた。
「……先生。やっぱやめよう」
「え?」
サカイくんが、まっすぐな瞳で僕を見て、話し始める。
「ちょうど1か月前に、余命1ヶ月って言われた先生にさ、こんなしょうもない相談して。俺、史上最高に良心が傷ついてるわ」
僕は声が出ないくらい驚いた。何を言ってるんだ? なんでサカイくんが知ってるんだ?
「そりゃ知ってるよ」
見透かすように答えるサカイくん。
「先生がさ、リストに載ってるの見てさ、俺、これはチャンスだって思っちゃったんだよね。俺の仕事の悩み、心理士の先生に相談できる数少ないチャンスだって」
「リスト?」
「で、引き取る前なら時間あるなぁって思って、つい……。本当ごめんなさい」
「『引き取る』って……」
頭の中が洗濯層のように、ぐるぐる回転する。そして、一つの可能性が浮かんだ。
「サカイくんが運ぶものって……もしかして……」
「うん。魂」
「君…………死神?」
「そうっす」
おいマジかよ……そんなのあり得んだろ……どう見ても人間だし、サカイって名前だって……。
「まあ、こっちにいる時は基本この姿なんですよ。サカイって名前も、あの世とこの世のサカイを行き来してるって意味で」
「あぁ……そう……なるほどね……。で、僕の魂を引き取りに来て、持って行く前にカウンセリングしてもらおうってことかぁ」
真面目な顔で頷くサカイくん。いや死神。絶望が蘇ってくる。逃げられない。もうあきらめろって、また空が言う。
「やっぱり悲しいよね。俺が来たら、たいだいみんな悲しい」
「…………」
「俺の悩みは解決しない。うん。だからもういいよ。カウンセリングは終了だ」
「フフフ……」
僕は笑っていた。
「あれ? 先生? ショックでおかしくなっちゃった?」
「いやいや。よく考えたら、死神が仕事の相談するって、おかしくね?」
絶望を通り越して、僕は心の底からこの変な状況を面白く感じ、笑った。
「うー……本当だ。確かにそうだ。ハハハ……」
サカイくんもつられて笑う。
「やさしいね、サカイくんは。こんなことで悩んで。死神のくせに優しすぎる」
「先生こそ。俺の正体わかっても、変わらない態度でいてくれてる」
「あのさ、さっきの続き、しようよ」
「え?」
「カウンセリング」
「いいの? 先生」
「うん」
僕はサカイくんと名乗る死神の悩みを、どうしても解決させてあげたくなった。幸い、まだエネルギーもある。
「じゃあ聞くよ」
「はい!」
「サカイくんが、一番望ましい状態って、どんなかな?」
「そうだなぁ。うーん……」
「想像してみて。ゆっくりでいいよ」
「うん……」
「ほしい状態でもいいよ……」
「ほしいかぁ……うーん。休みかな。休みがほしい」
「休みかぁ。いいね」
「申請してみようかなぁ。有給もたまってるし」
有給って……死神もサラリーマンみたいなシステムなんだな。と笑いかけて、僕はあることを思いついた。一発逆転。もしかしたら、うまくいくかもしれない……。
「じゃあ、申請しちゃおう。いつする?」
「え、いつ? それは……どうしよう。シフト決まってるしなぁ」
「でもさ、善は急げじゃない?」
「そうだね、先生! その通りだ! じゃあ今すぐに、申請、出してくる!」
「それがいい! 今行こう! さあ、行ってらっしゃい!」
「…………」
「…………」
サカイくんこと、死神は、僕の「行ってらっしゃい」をスルーして、1ミリも動かずに、僕を見つめていた。僕は作った笑顔がこわばり、上げていた手をゆっくり降ろす。
「……行かないの、かな?」
「先生。そう簡単に僕を誘導しようなんて、虫が良すぎますよ~」
「な、なんのこと?」
「しらばっくれないでくださいよ~。僕をさっさとあの世へ送って、死神の仕事させない気だったんでしょ? 魂渡さずにもうちょっと生きるつもりだったんでしょ? お見通しですよ~」
「…………」
その通りだった。僕は生きながらえるために、サカイくんを手ぶらで帰らせ、休ませるという最期の賭けに出た。それで、寿命が一日でも二日でも伸びるなら……と願ったが、見事失敗に終わった。
「バレバレですよー先生。笑い堪えるの、大変でしたよ~」
「あーバレちゃってたか。いやいや恥ずかしい……あはは……」
力なく笑う僕に、真顔のサカイくんが手を差し出す。
「先生の魂、いただきます」
僕は観念した。「はいはい、あきらめますよ」と空に向かって、呟いた。あれだけしがみついていた命を手放す。ついにその時がきたのだ。そう確信すると、すーっと楽になって、感謝の気持ちが込み上げてきた。
「サカイくん……いや、死神さん」
「はい」
「最期の最後に、仕事をさせてくれて、ありがとう」
「……」
「僕は自分に誇りを持って、あの世へ行けるよ。君のおかげだ。ありがとう。本当にありがとう」
僕の言葉を、彼はきょとんとした顔で聞いていた。
僕は、彼の手をぎゅっと握った。冷たい手だった。そして、もう一度、「ありがとう」と言うと、意識が遠のいた……。
目を覚ましたのは、集中治療室のベッドの上だった。
僕は、屋上で気を失っていたところを発見され、ここに運ばれた。そして、不思議なことに、いつ死んでもおかしくなかった体が回復し始めた。そのスピードたるや、奇蹟としか言い様がないと、医者も驚くほどのものだった。
明日、一般病棟に移る。
サカイという死神は、本当にいたのだろうか?
最期の賭けが失敗に終わった僕は、覚悟を決めた。そして、素直に湧き出た感謝を述べた。あの時の彼の顔は、今でも僕の脳裏にしっかりと残っている。彼が欲しかったのは、休みではなく、たった一言「ありがとう」の言葉だけだったのかもしれない。
屋上で発見してくれた看護師に後で聞いたが、僕の車椅子の近くに、プラスチックの白い椅子が倒れていたそうだ。
おわり