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津軽藩起始 六羽川編 (1578-1580)  作者: かんから
第五章 開戦。安東軍侵攻 天正七年(1579)旧暦六月下旬
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虐殺 第三話


 旧暦六月二九日。雨は昨晩より激しく降り始め、早朝から予定されていた蔵舘への本格的な行軍は中止された。しかし古懸(こがけ)不動尊より前方の唐牛(かろうじ)館へ本営は移されたし、別動隊として北畠勢は唐牛館より西方にある大安国寺(おおあんこくじ)へと着陣した。ちなみにこの寺の名前がなまって大鰐(おおわに)という地名が生まれたという言い伝えもあるが、本当かどうか定かではない。後に津軽藩成立後に蔵舘の神岡山へと移り、名を高伯寺(こうはくじ)と変わり、さらに明治になり大円(たいえん)寺となるのは別の話。こうして唐牛と大安国寺併せ千五百兵は雨の中、戦さ前の最後の休息を取ったのである。



 そして午後になり雨の勢いはおさまった。小雨(こさめ)になったし雲の色も真黒な色から白っぽいものに変わったので、安東軍は4㎞を蔵舘に向けて侵攻。平川を挟んで南側には大将の比山勢が五百、西側の宿河原(しゅくがわら)というところに浅利勢が二百、北畠勢五百は後方の長峰(ながみね)に着陣。そして滝本はというと……残り三百を率いて蔵舘につながる尾根筋より進もうと、山の木々に身を隠す。


 籠る蔵舘の兵らにしても台地につながる尾根筋のみ唯一見晴らしが悪いので、特に警戒をしていた。高所から低いところへ矢を放つのは防衛の意味で有利だが、そこだけ同じ手が使えぬ。一応は尾根筋を絶つように土堀を設けているが、結局は敵兵の出方による。……こんなことを考えたところで安東軍は圧倒的な兵力を持っているし、蔵舘は三百に過ぎない。援軍が来ない以上はすでに死兵と化し……こうなれば一人でも多く道ずれに殺すだけだ。




 そして今にも日が沈むかというときに、滝本の三百は尾根筋より攻め入った。最初は互いに矢を放ちあい、土堀を境に互いに近づけぬ。そのうち南側より平川を渡って比山勢が正門へと迫る。浅利勢も示し合わせたように動き出す。蔵舘の兵らはというと彼らに対し台地の高いところから容赦なく矢を射かけるのだ。


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