進捗
なお、作者の進捗はダメです。
「あちゃぁ……」
10月上旬、朝の自室で水色の大きな封筒を開けた笹原は、冊子の2ページ目を開いて、うめき声を上げた。
第三回○○予備校全国共通実力判定試験 成績表
笹原駆
第一志望
B判定―A判定まで あと 2点―
9月の模試は、受けたときも、そのあと復習したときも、“ちょっとミスった”感触だった。
自己ベストではなかったけれど、悪くなかったはずだった。
数学も国語も英語も、特に大崩れした記憶はない……自己採点も上々だったはずな。
「また……ボーダーだな……ギリギリ受かるか落ちるか……」
毎回毎回、自分が瀬戸際のキワキワに立っていることを、改めて見せつけられる。
B判定なんて、Aだって2割は落ちるのに、どこも喜べない。
「……いっそ、D判とかE判とかなら、諦めるのにな……」
――あとちょっとで手が届くなら、届きそうなら、背伸びしたいじゃないか、怪我するってわかってても――
その他の項目をざっと確認すると、笹原は冊子を封筒に入れ直し、足元の箱にぽんと投げ込んだ。
突然の衝撃に、箱はあっけなく倒れ、過去の模試の成績通知が床に広がった。
「……はぁ……」
夏から並べてきたB判定の束を、拾い上げてまた箱に入れた。
――もう一ヶ月も前に、あと2点だったんだから、もう今頃はA判定じゃないか、きっと――
――夏休みに、あれだけ勉強したのに、まだB判定なんて、見込みないんじゃないか――
「……」
何か手を動かしていないと、とても落ち着いてなんていられなくて、笹原は問題集とノートを開いた。
だんだん顔馴染みになってきた数式たちと、今日も一日。明日も、一日。
見覚えのあるようなないような英単語たちと、毎日毎日、顔合わせ。
※※※
時は流れて10月末の体育祭。
笹原は、倉庫とトイレの間の日陰で世界史用語集をめくっていた。
先生が見回りに来たら「ちょっと腹が痛くて」などと言い訳をしよう、とすっかり心に決めて、歓声を遠くから聞いていた。
「先輩、お久しぶりですっ」
そもそも、体育祭なんていうイベントは、運動部の連中が騒ぐ日である。合唱部、すなわち文化部の自分の出る幕はないはずである。
しかも、高3の競技は午後である。朝の開会式から2時まで待たされる意味がわからない。
「……せんぱぁい?」
ファショダ事件。オーストラリア独立。サライェボ事件。無制限潜水艦作戦。ロシア革命。ヴェルサイユ条約、インド統治法。
「先輩!」
戦間期の世界。第一次世界対戦によって、世界のパワーバランスは大きく……ん?
笹原が顔をあげると、ショートカットの後輩が体操着姿で立っていた。
「あー……一年生は競技中でしょ、戻りなさい」
「もう終わりましたぁ」
「え、ほんとに?」
「今終わったところですぅ」
笹原は、背中を預けていた倉庫から離れて、校庭の方を覗いてみた。
確かに、フィールドは無人である。
「はい、お疲れさま。」
「先輩こそ、何してるんですかぁ?」
「『これ一冊できっちり解る世界史用語集』だけど?」
「え、そうじゃなくて」
「世界史は、細かい知識だけ覚えようとしないほうが」
「そうじゃないですぅ」
膨れっ面の後輩に、笹原は曖昧な笑みを浮かべた。
「察してくれよ……子供じゃないんだから……」
「せっかくの体育祭ですよぉ……楽しまないんですかぁ?」
「……何を?」
「体育祭の、あれ、あれですよぉ」
「体育祭の?」
「……そのぉ……なんだろ……空気?」
「いい線ではあるけど、曖昧だね。」
「……むぅ」
笹原は持っていた世界史参考書を、水橋の目の前に掲げた。
「高3はまだしばらく競技もないし、そもそも午前は何もないしね、受験生だから勉強しててもいいでしょ?」
「……先輩、もういいですよ、先輩の人らしさがどっか行っちゃったって、いいですよ私のことじゃないですし知りませんよぉ」
「なんで機嫌悪いの?」
「機嫌悪いんじゃないんですよぉ……先輩、わかってないですね」
「わかってないし、わからなくて良さそうだけど?」
水橋は改めて背筋を正し、参考書に向きかけていた笹原の目を覗き込んだ。
「先輩、問題です。あなたの前にいる後輩が、今あなたに求めていることは?」
「雑談、でしょ」
「惜しいっ」
「……ギブアップ」
「思考力が足りませんね、先輩」
「はぁ」
「ほんとは自分で言っちゃ、可笑しいんですけど」
そう前置きして、水橋は息を継ぐ。
「正解は、ねぎらいの言葉が欲しい、でしたぁ!」
笹原は、予想斜め上の正解に、不意を突かれて一瞬硬直した。
秋の賑やかな風が二人を囲んで吹き抜ける。
笹原の手が―空いている方の手が―ゆっくりと水橋に伸びる。
その手は、水橋の頬に触れて―――
「はいはい、えらいえらい、おつかれさまでした」
「えと、先輩、そのぉ……」
「ん?」
「あ、その、な、な、な」
「な?」
「なちゅらるに頭撫でないでくださいよぉ……!」
「あ、ごめんごめん、ご所望だったのでさせていただきましたが」
「気持ちの表し方と心のこもり方が違いますぅ」
「それ、全部だね」
「ていうか、先輩、それじゃ子供扱いみたいじゃないですか!」
「……そだねー」
「男子に棒読みされてもかわいくありませんー」
「いや、それは狙ってない」
これじゃ自分で言い出しただけ損じゃないですか、とか言う水橋を眺めながら、何がどう損なんだろうか、と思った笹原は、再び参考書を開いた。
センター試験まで、あと二ヶ月半。