一歩
「長浜先生、本当にあれでいいんな?」
「いや、森田先生、むしろ何が問題でしょう?」
「えっ」
「えっ」
※※※
「……先輩!」
「どこまで進んだの?」
「結構やりましたよぉ」
遅れて音楽室に現れた笹原に、水橋が駆け寄る。
笹原は、不思議そうに首をかしげた。
「今階段上がってきて、第二音室の吹部しか聞こえなかったけど」
「……今は、休憩ですぅ」
「……ぁあ、それは、見てればわかる。」
部員たちが談笑する音楽室の端の方で、鈴木夏帆―3年アルト、副部長―が?机上に平べったくなっている。
ああ、なんか失敗したんだな――笹原はそう思って、鈴木の側へ寄る。
「鈴木、どこまでやった?」
「……キツイ……」
「声出しは?」
「……それはやった、きちっとやった」
「それから?」
「……私、パー連の才能ないわ」
「あ、パ連したんだ」
「……知ってたけど、やっぱコケるとヘコむわ……」
「はあ」
「……笹原、あとは任せた……」
「鈴木は?」
「……いや、寝る」
「あ、寝不足か?」
「……試験だし……おやすみ」
「中崎先生、もうすぐ来るぞ」
「……そのうち、起きるわ……」
鈴木はそう言うと、机に突っ伏した。本気で寝るようだ。
「……単に寝不足か……」
「先輩だって、疲れたーって顔してますよぉ」
その辺にいた水橋が、笹原の頬を指差して言う。
「……隈とかなかったけどな……」
「オーラが違いますぅ」
「……そうか。ありがとう。」
笹原は、水橋のほっぺたをぐりぐりしてみた。
案外に柔らかかった。
「……むぅ」
「そうだ、清掃活動のやつだけど」
「ふぁい?」
「さっき中崎先生に会って、来週の月曜の朝だって。夏休み始まる前にって。」
「ほぇ?」
「……何で驚く?」
「先輩、受験しないんですよね?」
「あ、いや、することにした」
何気なく発した一言で、水橋は凍りついた。
少なくとも凍りついたように見えた。
「……水橋?」
「……先輩って……」
「うん?」
「……意外と……えぇ……流されやすい……?」
「まぁね」
「……でも……え……えとぉ……っ……ごめんなさいっ!」
「どうした?」
水橋の声が急に変わって、笹原は慌てて水橋の手をとった。
「落ち着いて、水橋。ゆっくりゆっくり」
「……ぅ……ごめんなさい……」
「何で謝る?」
「……だって、私があんなこといったばっかりに、先輩、突然、受験するってぇ……」
「……いや、それはないかな……」
「……えとぉ……?」
笹原は、水橋の手を握ったり放したりしながら言う。
「あれだ、きっかけになったんだよね。水橋に言われてさ、何となく上がるより、やりたいことをね、やった方が絶対いい、って思えるようになったと言うか……今まで、何となくで済ませてた所を、きちっとやっていこうって、決めただけだから。」
「……」
「それで、自分が今までやって来たことって、結局、皆がストレスフリーでやっていける環境、environmentを作ることだなぁって、前から思ってたんだけど、それを一生かけてやってくのって、やっぱり教職だなぁ。とか考えて決めた。」
「……先輩、先生になるんですか?」
「教育学部か、県立教育大に行こうかな、とね。御大層な理由はないけど、何となく経済とかよりはマシなはず。」
「……」
「というかね……本当の理由は若干違ってて……」
「……えぇ……?」
「なんか、水橋にあんだけ言われて、安心したというか、一歩踏み出す勇気をもらったっていうか……やっぱり心のなかで迷ってたんだよね。受験って負担だから……でも、やってやろうかなって、そう思えたんだよね」
「……私、何にも言ってないですぅ……」
「なんだろうな……無条件な肯定、かな……」
「……」
「『先輩はすごい人です』って言われて、自惚れじゃないんだけど……嬉しかった。……なんかその、暖かいっていうかね……」
「……むぅ……」
「ありがとう。背中を、押してくれて。そういう、なんていうのかな……包括的?……全部を受け容れてくれるというか……優しい、暖かい……守ってくれる訳じゃないんだけどね……」
「先輩、もうやめてくださいよぉ……」
頬を赤らめた水橋を、故意か無意識か、笹原は無視して言葉を紡ぐ。
「そういうね、……背中を押す仕事が、したいなぁ、とね。思ったんだよ。ありがとう。」
そう言うと、笹原は水橋の頭をわしゃわしゃと撫でた。
頭ひとつぶん水橋の方が背が低く、これではお子様ではないか、と水橋は思う。
「また、子供扱いしてぇ……」
「……?」
「……むぅ」
「……あぁ、ごめんごめん」
「もう、この件は許しませんから」
「えっ」
言葉のトゲは、照れ隠しじゃない、はず……
※※※
敷島「笹原先輩とは!?」
水橋「な、何にもないよぉ」
敷島「ダウト!」
水橋「えぇぇ……」