喧騒
「さて、部室の鍵をなくしたというわけで」
「そうですね……ごめんなさい」
日直の先生に音楽室の鍵を返して、笹原駆―高校三年、合唱部長―は昇降口をくぐった。
一歩後ろをついて歩く水橋結菜―高校一年、合唱部員―は、ほぉっ、と息を吐いた。
「で、いつ、なくしたの?」
「え、えーと、えと、うーん……わかりません!」
「マジすか……」
「そもそもなくしたの私じゃないですしぃ」
「……なんで?」
「ゆかりんに貸したらなくなりました!」
「……あぁ、うん、その……なんだ……」
笹原は思わず天を仰いだ。うん、夕日が眩しい。
「……?」
「鍵って、ほいほい貸しちゃダメなやつでは……?」
「……あ、そうなんですかぁ」
まったく危機感のない後輩に、笹原は諭すように言う。
「つまりね、鍵は学年の代表者が一本ずつ持つことになってるでしょ?なんで決めてるのかと言うと」
「責任をもってどーたらこーたら、っていうあれですね、それは覚えてますよぉ、さすがにぃ」
「……覚えてたら、なんでなくすかなぁ……」
「一回言われただけで完璧にできる人なんて、居ないですよ、先輩。えへへ」
「うーん、反省してほしいもんだけど……」
「反省してますよぉ……大丈夫ですってぇ……私のせいじゃないですけどぉ……へへへ」
「いや、なんだろうな……」
水橋の開き直った態度と、危機感のない緩んだ表情に、笹原は呆れ半分、諦め半分といった気分になった。もちろん声には出さないが。
「それにしても、水橋、なんでそんな元気なの?音楽室ではマジな感じだったけど……」
「怒られると思ったんですけど、先輩、怒らなかったじゃないですか。ちょっと怖かったんですよぉ、これ言うの。部長、そういうとこだけは厳しそうですしぃ、一人で中崎先生に言いに行くとか、もっと怖いですしぃ」
心からの安堵、といった弛緩した声色でそう言う水橋に、笹原は困ったような、半笑いの表情を浮かべた。
「はいはい、わかったわかった、俺が怒ればいいんだね?」
「先輩、怒っても怖くない人ですよねぇ、たぶん」
「まぁね、よく言われるよ」
「それなら安心、安心ですねー」
「……バカにされてるのかなぁ……これ……」
「そんなわけないですよぉ」
「あ、はい。はいはい。」
笹原は苦笑して、水橋はほっとした表情で、校門を通り抜けた。
「さてと、そろそろ何があったのか教えてほしいなぁ」
「あ、そうですそうです。それですけど」
片側二車線の大通りは、夕闇から逃げるように急ぐ車で混雑していて、二人はその喧騒から互いを守り合うように横に並んだ。
「一昨日の放課後、ゆかりんが私から鍵を借りてって、そしたらなくなりました。以上です!」
「……頼むから、詳しく聞かせてよ……」
「……?」
わかっていない顔の後輩に、笹原はまたも呆れ顔。
「……『ゆな~、部室開けてぇ~、楽譜おいてきちゃったよ~、お願い~』って言ってましたよ?」
「あ、声マネ、意外と上手いんだな」
「えへへへへ」
「……それで、敷島が鍵を開けてほしいと言ってきて、どうした?」
「でも、すぐ帰らなきゃいけなかったので、鍵を渡しました。絶対返してねって言いました!」
「……はい、常識だね、それで?」
「なくなりました!」
「……詳しく」
「ええと、探しても見つかりません!」
「それは『なくした』の定義だね?」
「なくなったんですよぉ」
「多分に主観的な解釈だね……」
どうも、今日の水橋は、話していて疲れる後輩である。
「……それで、鍵を渡して家に帰って、それから何があった?」
「……え、私生活ですよ?デリカシーないんですか?」
「いや、敷島がなんとか言ったとか」
「ええと、夕方ぐらいに学校のゆかりんから電話があって、鍵を返したいって」
水橋が携帯を取り出して振る。ピンクのガラパゴス。
「……校内で電源いれたら違反じゃん……?」
「今時そんなの律儀に守らないですよぉ」
「……そうだな、俺を含めてな……」
「ほらほらぁ……あ、秘密にしてくださいね?」
「善処するよ」
「先輩、優しいから大丈夫ですよねっ、信じてますよ?」
「……」
突然向けられた柔らかい表情に、笹原はとっさに言葉を出せなかった。
制服の白いセーラー服。ふわっと翻ったショートカット。脱力した頬。細くなった目。柔らかい眼差し。
可愛いというか、美しいというか、それでも繊細で細い、細っこい、いや、暖かい、きゅっとした、とにかく、笹原にはわからない、そんな感覚。