真南の空に半月(やわらかな陽4)
夜半に急に目が覚めた。
仄暗い部屋、分厚いカーテンの隙間から、一筋の光が私の目の前を横切る。
布団から起き上がり、カーテンを少しだけ開け、夜空を仰ぐ。
夕方のぼった半月が、今、真南の空高く輝いている。ピンとはりつめ、刺すほどに凍りついた空気を身にまとい、眠りについた街を怖いくらいに静かに照らしている。
私は急に大きな不安感に駆られた。足元から這い上がってくる孤独感、せつないくらいの寂しさに喉がつまりそう。月の光に囚われてしまったかのような……
枕元の時計を見ると午前二時を指している。こんな状態では、きっと眠れない。
どうしよう…薬を飲み足そうか…バッグに手を伸ばして止めた。決められた以上の量は飲まないこと。そう七生と約束したのだ。
二年前に離婚して以来、少し心が不安定になっている私は病院で薬を貰っている。
薬は慣れてくると、どうしても多く飲みがちになってしまう。そんな私を心配して、幼馴染の七生は言う。
「フミちゃんは、心がちょっと風邪をひいただけなんだ。いいかい?たいした事じゃないんだよ。だから絶対にお医者さんに言われた以上の薬を飲んだら駄目だよ」
「でも、飲みたくなる。飲むと安心するから」
「じゃ飲みたくなったら、俺を呼ぶこと。いいね」
そう怖い顔して言う。同い年の癖に、まるで父親みたいな口ぶりで私を叱る。高校教師という職業のせいかもしれない。
バッグから薬ではなく、携帯電話を取り出す。迷った末、恐る恐る七生の番号を押す。
五回ほどルルルルルを繰り返した後、
「フミちゃん?」
少しだけ眠そうな、でも少しも怒っていない、いつもの優しい七生の声が聞こえた。
「うん」
「どうしたの?眠れないのか?」
「月を見てたら」
「え?」
「どうしてだか、急に何だか不安で…寂しくて、寂しくて…ひとりぽっちで」
「フミちゃん?」
「お薬、飲んでもいい?」
消え入るような声で私は聞いた。
「駄目だよ。約束したでしょ」
はっきりと七生は言った。
「でも…」
「フミちゃん、今からそっちに行くから」
「えっ?だって、もう二時過ぎだよ」
「大丈夫。十分で行くからね。庭で待っておいで」
そう言って電話は切れた。
私はパジャマの上にガウンを羽織り、リビングのテラスから庭に出た。
一月の夜半の空気が頬に痛い。私は座り込み、膝をかかえて空を仰いだ。月はさらに高い所から私を見下ろしている。
少しすると、遠くから道を走る足音が聞こえてきた。間違いなく七生の足音…
「フミちゃん」
白い息を切らしながら、七生が庭に入って来た。
紺色のトレーニングウエアの上下を着ている。そのまま体育の授業でも出来そうな格好だ。
「七生」
私は近づいて思わず抱きついた。耐え切れず、思わず嗚咽がもれる。子供のようにエンエン
声を上げて泣いた。
「大丈夫だよ」
七生も抱きしめてくれた…思い切り力を込めて。息が苦しいほどだった。
「ごめんね、七生。いつまでも、こんなに弱くてごめんね。迷惑かけてごめんね」
「フミちゃん」
七生はいつもそうするみたいに、私の頭をクシャリと撫でた。
「いいんだよ。そんな事は気にしなくていいんだ。俺が自分で言ったんだから。薬を多く飲みそうになったら俺を呼べって」
「でも…こんな時間に」
「いいんだって」
七生はさらに力を込めて、私をギュっと抱きしめてくれた。
「これで安心できるだろ?」
私は頷いて、七生の胸に顔を埋めた。子供の頃から知っている、懐かしい七生の匂いがする。甘い植物の匂いに似ている。しばらくそうしていると、本当に心が落ち着いてきた。
「七生、ありがとう。もう落ち着いた」
「大丈夫か?」
「うん」
私は七生からそっと身体を離した。
七生は照れ臭そうに笑った。それから
「本当に月が真上に居るんだな」
「うん」
「俺は月見てたら、狼になりそうだ」
「フフっそのセリフ、何だかタイミング良すぎるよ。私がフラリと来ると思う?それに今夜の月は半月だよ」
「おっそんな突っ込みが出来るくらいなら、もう、大丈夫だね」
そう言って、七生はもう一度私の頭を優しく撫でた。
月は何にも言わず、ずっと二人を照らしていた。