①招待状
人通りのない夕刻の裏路地に、奥へと歩みを進める少女と青年の姿があった。
サァ…と、二人の黒髪を撫でたのは、ほのかに花の香をのせた淡い風。
桜は満開を迎え、季節は春。
ずいぶんと日も長くなった。寂れた裏路地も、この季節は心地よい空気が流れている。それも、桜の花びらが迷い込んでくるせいだろうか。
二人は楽器屋の裏手に差し掛かると、顔を見合った。
「じゃあ、いつもみたいに、お願いします」
もうすっかり慣れた口ぶりで言って、高校の制服姿の少女は、青年を見上げた。
腰丈に伸ばされた黒髪はハーフアップにされ、リボンの形をしたバレッタで止められている。そのリボンの中央には、ピンク・サファイアのブローチが輝き、純粋そうに微笑むその少女――百合の可愛らしさに花を添えていた。
純粋で可憐。
篠原百合は、そんな言葉が似合うような少女だ。
「あぁ。いちいち面倒なものだが……仕方のない」
百合の言葉にそっけなく頷いたのは、隣に立つ、ブラックスーツを着こなした漆黒の青年だった。顔立ちは美しく、長身で、長く真っ直ぐな黒髪は紅葉色の和風紐で高い位置で、結い上げられている。瞳はルビーのように赤く、厳しさをそなえて、鋭い。しかし、少女を見る瞳はどこかに優しさを秘めたものだ。
彼の名はエウラリア・デリジオン。
黒魔術師だ。
訳あって一か月ほど前までは、少女とは敵対関係にあったのだが、今はもう、そのわだかまりはない。それどころか、国語司書教諭として、彼女の担任までやっている。
「行くぞ」
「はい!」
彼は胸に付けたラペルピンを取って、宙へとコイントスするが如く、弾いた。ピンに輝くブラック・ルチル・クォーツが強く瞬く。百合が目をつぶって、瞳を開けた頃には――
――「お帰りなさい!」
百合と同じ年くらいの、水干姿の少年が出迎えるのと同時に、二人にとって見慣れた店内が目に入った。
そこは宝石店。
人間も、エウラリアのような“人ならざる者”も、関係なく集う優しい場所。
小さな店内には、美しい宝石たちが所狭しと並ぶ。どの宝石も、ここの誠実な主人に目利きされた、自慢の一品ばかりだ。
少年は二人をカウンターへ座るよう促した。そこにはすでに温かい紅茶とクッキーが用意されている。
「ありがとう、羽ヶ(はば)矢くん」
「どういたしまして!」
百合に笑顔を見せられて、少年は嬉しそうに頬を染めた。
何を隠そう、彼は百合に好意を寄せているのだ。それは――残念ながら実らなかったのだが、羽ヶ矢は幸せに日々を過ごしている。
外はねの白い髪に、白藍の瞳をした、どこか色素の抜けた感じのする、羽ヶ矢。
また、“羽ヶ(はば)矢”というのは、実はあだ名だ。彼は弓の神であり、本当は“御真弓様”という、いかにもな名前がある。だが、ここしばらくで、そちらの方がすっかり定着してしまったのだった。
「隣……いいかな?」
「うん!一緒に食べよう」
彼は照れくさそうに水干の袖を握ると、彼女の隣に座った。エウラリアは――というと、カウンターには座らずに、壁に背を預けて、何やら封書に目を通している。
仲良くお茶をしていた百合と羽ヶ矢だったが、百合がおずおずと尋ねた。
「イレールさん……遅いね。何かあったのかな?」
“恋人”の名を呼んだ瞬間、彼女の瞳がきれいに瞬いた。
「家出をしちゃった男の子が来たんだけど……うー…ん。時間がかかるような一件じゃないと思うな。きっと、もうすぐ戻るよ……」
羽ヶ矢は、彼女の瞳の変化に気づきながら励ます。
「うん……」
しょんぼりと頷く百合だったが、すぐに
「あ――――ほら」
カチャ……
という、羽ヶ矢の一言と、ドアの開く音で、表情が一変して華やいだ。
――「イレールさんっ!!お帰りなさい!」
勢いよく立ち上がった百合は、まっすぐに恋人のもとへ駆け寄った。“彼”は「わっ!?」と、驚いた声をあげたものの、すぐに優しい瞳を彼女に向ける。
「ただいま戻りました。遅くなってすみません」
軽く、百合の頭を愛おしげに撫でて、黒いスプリングコートを脱ぐ。
宝石店に、主人が戻ったのだ。
宝石たちも心なしか、喜んでいるように見える。
この店の主人――白魔術師イレール・ロートレーズは、コートを棚に掛けると、春風に乱れた長い髪を結びなおした。
優しい薄茶――マロンペーストとも言えるような、柔らかい色味をした飴色の髪が、右肩に赤いリボンでまとめられる。毛先だけに、ゆるい癖のある彼の髪質。それは彼の誠実で優しい人柄を表しているかのよう。
「これで、良し」
独り言のように言ったイレールは、ブルー・サファイアの瞳をよりいっそう優しげに細めると、百合に向き直った。
「準備はよろしいですか?招待状、持ってますよね?」
「はい!これですよね?」
百合は待ちきれませんとばかり頷いた。
その手には、先ほどエウラリアが目を通していたものと同じ封書が握られている。イレールは軽く頷くと、三人を連れて、宝石店の廊下にある、右から二つ目のドアの前に立った。
「言っておくが、ワタシは単独で行動するからな?せいぜい、オマエたちは馬鹿丸出しで、おめでたく過ごすがいい。特に、名前に“イ”のつくヤツと、“ゆ”のつくヤツだ」
「刺のある言い方だね……」
「もう慣れましたよ……」
エウラリアの毒舌に、羽ヶ矢とイレールは苦笑いするが、百合はただ期待のこもった眼差しを、ドアの木目に注ぎ続けている。それに気づいたイレールはフフッと笑って、カチャッとそのドアを開き始めた。
「貴女を私達の世界へご案内しましょう!!」
その扉の向こうに広がるのは魔法界。
つまりは、“人ならざる者たち”の世界だ。
百合は今まさに、イレール達に手をひかれ、そこに導かれようとしている。
ドアの隙間からは光がこぼれていく――
イレールと固く手を繋ぐと、そこへと足を延ばす百合。
四人の姿は光に飲まれていく――
ただこの時は、この一歩が長き旅路の一歩目になろうとは、百合はもちろんのこと、誰しもが予想だにしていなかったことだった。




