プロローグ
あるところに、心優しい聖女がいました。
あらゆる怪我や病気、そして心の傷などの――“人”が負う痛み
その全てを、彼女が使う魔法は癒し、和らげることができました。
それだけではありません。
彼女は暗雲の立ち込める世界に、平和を導きました。仲間たちとともに、戦乱に痛んだ世界を癒したのです。
これが、彼女が聖女と呼ばれ、愛される所以です。
彼女の名前は“光の聖女”――Santa-Lucia
残念ながら、彼女はもう……この世にはいません。
でも、
Santa-Luciaは死してなお、家族や恋人、友人たち、さらには世界中の人々を、大切に、大切に、見守っています。
―――「百合ちゃん……巻き込んでごめんなさい」
花園に座り込んだ聖女Santa-Luciaは、ブルー・サファイアの瞳を寂しそうに揺らした。長い睫毛を伏せて、彼女は澄み渡った清らなる泉に視線を落としている。
揺れる水面には、光り輝く四つの宝石が映像として浮かび上がっていた。
ダイヤモンドに、エメラルド、サファイア、ペリドット
どれも丁寧にカットされ、美しく輝きを放っている。
彼女は座り込んだまま、天を仰いだ。そこには、無機質な鉄格子がドーム状に広がっている。
まるで鳥籠だ。
自由に歌い、慈悲を施していた聖女を、その中に捕らえているのだから。それでもなお、聖女は意志の強そうな瞳をしてみせた。
「私の力で、みんなの力になってあげて。ううん、それだけじゃない!
どうか――この世界を救って……!百合ちゃん!」
聖女の言葉は、鉄格子の向こうの青空へと、染み渡って溶けていった。
―――――――
薄暗い室内。
フードを被った男は、フラスコの丸底を下から注意深く、覗きこんだ。
底にたまった無色透明な液体が、それに従って、さらりと揺れる。そのとき、人の影がそこにぼんやりと映った。それは次第にしっかりと見て取れるくらいに形をもって、鮮明な場面に変わっていく。
ゆらりと現れたのは、三人の人物。
一人目は、獄に囚われ、うなだれて顔を押さえる壮年の男性
二人目は、舞台の上で華やかに役を演じる女優
三人目は、荒野に座り込み、猛獣を手懐ける少年
卓上にたった一つだけ灯ったランプ以外明かりのない、薄暗い室内。
そこにはギギギと、古い機械が起動しているかのような、かすれた音が響いている。その音を遠くに聞きながら、男は黒いフードから覗く口角を上げて、ニヤリとする。
深めに被ったそのフードのせいで、男がどんな顔をしているのかは分からない。
男はフラスコを卓上に立てると、不意に背後を振り返った。
「Santa-Luciaの意志を継ぐ者達を抑えるため……貴公らの力を貸してもらう」
男の背後――同じくフードを深めに被った三つの影が立つ。
彼らは頷こうともせず、ただ男の話を聞いている。ピクリとも動かない。だが、男は満足そうに顎を撫でると、靴音を立てながら踵を返し、部屋の一角へと歩み寄った。
そこには一体のビスクドールが、壁を背にして座っていた。
レースを重厚に重ねた純白の寝間着姿をした、一体の少女人形だ。
純白の陶器のように滑らかな頬。柔らかく閉じられた瞳。そして、きつく巻かれたブルネットの髪が頬にかかって、まるで眠っているかのよう。
男はその前にしゃがみ込むと、その頬に優しく触れる。白い手が頬を包んだそのとき、カタカタッと、音が聞こえた。
「おはよう……Petite fille(愛しい子)」
カタカタ……
男は空いた手で被っていたフードを下ろした。さらりと、衣擦れの音がして、見事なミディアムの金髪があらわになる。
カタ…カタカタ
歯車が回っているかのような音がする。
その音の発生源は――
「お父さ、ま…………」
その、ビスクドールだった。
ゼンマイが切れかけたからくり人形のように、人形はいびつに動きながら、立ち上がろうと足を立てる。男は、今にも倒れそうな人形の肩を支えてやった。やっと立ち上がることのできた人形は、愛おしそうに、翠玉の瞳で彼を見上げる。
男は――真紅とコバルトブルーの瞳を細めてそれに応え、言う。
「手伝ってくれるね?」
男の言葉に、人形はカクっと首を動かし、頷いた。
「はい。お父さまに安寧を……」
流暢に紡がれたその返事を聞くと、男は後ろを振り向いて、キッと瞳を吊り上げた。
背後に控えていた三人に、鋭く言い捨てる。
「さぁ行きなさい!四つの輝石をここへもたらすのです!!
―――全知全能なる、“哲学者の石”を完成させるために!!!!」
ぐわん!!と、三人の足元に、魔法陣が出現した。
その瞬間、光の粒子と共に、彼らは跡形もなく消え失せる。最後まで、彼らはピクリとも動かなかった。
男と人形は、それを静かに見つめていたが、男のほうが動いて、ローブを翻した。彼はそのまま卓上のランプを手に取る。
ランプの上では、真っ赤な炎がヘビの舌のようにユラユラと揺らめいて、広い卓上に散らばった分厚い本や羊皮紙を映し出す。
男は、
―――フッと、炎を吹き消した。
それを合図に、室内は完全なる闇に閉ざされる。
跡には機械の起動する金属をこすり合わせるような音が残って、去って行く二人の足音がそれに混じった。
しかし、ドアの閉まる音がして、その靴音も暗闇に消える。
これは、少し前に――ある地下研究室で起こった出来事である。